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母の家は、商家の家庭が暮らす住宅地の中にある。貴族の屋敷ほど大きくない、小ぶりな家々が並ぶ。母はここで一人で暮らす。庭が広めにとられているのが特徴で、歌っても周囲に迷惑が掛からないように配慮されている。
使用人は通いであり、夜は本当に誰もいない。
庭を横切る細長い道を進む。グレアムが私を支え、御者が荷物を持つ。
玄関で、私が荷物から母から預かっている鍵を取り出し、鍵穴に差し込みまわす。背後でグレアムと御者が話をしていた。御者に自身の馬車の特徴を伝えているようである。
ガチャリと音がなり、鍵を引き抜き、扉を開く。私はふりむく。
「どうぞ」
私はグレアムを招き入れた。
彼は御者に礼をし、御者もまた彼に礼をする。
グレアムが荷物を運び、室内へと入る。
広い居間があり、一人掛けのソファーが二脚、暖炉の前にある。
「ソファーにどうぞ座って」
部屋に置かれているいくつかのランプに火をともす。室内がほんのりと明るくなった。
壁一面の棚に母好みの調度品が並んでいる。大ぶりの窓が庭を望む。星と月と、隣の民家が見える。私はざばっとカーテンをしめた。
「慣れてますね」
「母の家だもの」
「足は、もう大丈夫ですか」
はたと気づく。
そう言えば、グレアムのことを思案していてすっかり忘れていたわ。気づくとズキンと痛むものの、我慢できないほどではなかった。
「大丈夫のようね……、今、お茶をいれるわ。くつろいでいて」
彼を置いて、台所へ行く。
かまどの中に火をつける。小さな炎が立ち上り、空気を少し入れてあげれば、炎が徐々に大きくなる。あぶられる私の頬があたたかくなる。
水瓶からやかんに水を入れ、かまどの上に置いた。
火を見つめて、しゃがみ込み、頬杖をつけば、ため息が漏れる。
自分からおかしなことを招いているような気がする。グレアムが、母の娘に興味を抱いたり、ファンだと言っていても、ふーんと聞き流して、御者と一緒に帰せばよかった。
せっかくのお一人様時間に彼を招き入れてしまったら、それだけで悩みの種をひき寄せるようなものじゃない。今さらながら、馬鹿なことをしたと思うわ。これじゃあ、引き返せない。
ため息が漏れる。
良いアイディアだと思ってことが、ブーメランのように私に重くのしかかる。
行動が安直だったんだわ。いつもならこんなことしないのに……。あの人ばかり、気になる私がバカみたい。
そもそも、私に親切なのに、あの婚約者と会う茶席での温度差を面白くないと感じた私こそ何なのだろう。
パチパチと火が遊び躍る。ふわりと火の粉が右斜め上に飛び、私の目線も、光る羽虫のような炎の粒を追った。
扉のそばでグレアムが側面に肩をぶつけ、もたれるように立っていた。
いつから、そこにいたの。気づかなかったわ。
私は立ち上がり、「暇だった」と声をかけた。
グレアムは左右に頭を振る。意味はわからない。
「あちらで待っていてもいいけど……、こちらにくる」
私は手のひらを返し、二人掛けの小さな食卓テーブルを指し示す。「では……」とグレアムは静かに従った。
私は台所横に置かれた腰高の棚の中段から、ティーポットとカップ二客用意し、テーブルに並べた。棚の上段に手を伸ばし、色のついたビンを一つ手にし開ける。蓋を返してテーブルに置き、ポットに蓋を開けた。ビンに差し込まれたティースプーン二杯分の茶葉をポットの中に投げ入れた。
所作をグレアムが無感情な碧眼でじっと見つめてくる。茶席の気まずさを再現するような空気に感じてしまうのは、この沈黙のせいだろうか。
「慣れてるんだな」
「一人なら当たり前」
お湯が沸き、ミトンをつけて、やかんを持つ。お湯をポットに勢いよく注ぎ入れた。
竈の火がパチパチと音を立てる。炎が揺らげば、影も振れる。居間から漏れるランプの灯りと交わって、台所がぼうっとオレンジ色に染まっている。
「ねえ、こんなところに来ていいの。お見かけするに、あなたはどこぞの貴族様でしょう。婚約者ぐらいいらしゃるのではないの」
立ったまま、私は何を言っているのだろう。
グレアムは答えない。
「私についてきてしまっては誤解されてしまわないかしら」
「誤解……?」
グレアムは何を言っているのだという顔をする。
「……いいわ」
自分から落とし穴を掘る必要なんてないのに……。自嘲で口角があがる。
お湯を注いだティーポットの底に茶葉が沈み、茶こしを添えて、カップにお茶を注ぐ。茶色い液体が躍り静まる。
彼の前にティーカップをおく。
「眠るにいいハーブティーだから、夜でも気にせず飲めるわ」
グレアムはじっとカップを見つめる。
なぜ私はこんなにも、静かにお腹の中がじくじくと痛み続けているのだろう。
自滅しているのは私の方ではないか。グレアムだって、ただお茶を飲んで帰ろうとしているだけかもしれない。
静かに穏やかに安らかに、母の家で一人で過ごすという時間もつぶしてしまった。彼が帰った後も、きっと私はもんもんと悩みはてるだろう。
最悪だ。最悪を招いたのも、自分だという失態が、なお最悪だ。
もう一つのカップにハーブティーを注ぎ入れ、私はグレアムの前に座った。
もう、さっさと迎えの馬車がきて、彼を連れ出してほしい。