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3,

 ステージで歌って戻ってきて、雑然とした裏方で、ほこりっぽいソファーに身を任せ、私はぼんやりと天井のシミをなぞり見る。母の前座で、数曲歌わせてもらうこと数年。


 歌うのは好きでも、仕事にするには母ほどのめりこめない。つまるところ、母とは別人なのだ。彼女のように、精力的に活動できる情熱はないと冷めた私が私を見る。


 母と比べれば才能に限りがあると痛感する。

 義母の娘として認知されている伯爵家の長女だとて、半分は偽りの肩書だ。グレアムに望まれた婚約であっても、引け目しか感じない。


 後ろめたいと言うのでしょうね。

 人を騙している。そんな気さえする。


 歌い手としても、貴族としても半人前。私は実母を介して平民へ戻り、街に住む平凡なだれかと結婚し、子供を産んで生活することを細々と望んでいた。

 

 見飽きた天井から視線を外す。店の表の姿とは裏腹に、雑然とした裏方は、テーブルと呼ぶにはお粗末な木の台に隙間なく物が置かれている。


 部屋の入口あたりに、貴族の恰好のまま裏方に顔を出しては目立つことを知る父が街商人もどきの恰好をして、母と立ち話をしている。


 母と話し終えた父が寄ってきた。父と別れた母はステージに向かったのだろう。

「先に帰るか」

 私は素直に頷く。昼間の気疲れが体の芯をむしばんでいる。


「今夜から、母さんとは数日でかける。母さんの家を頼むぞ」

「わかったわ」

 やった。無条件でうれしい。


 年に数回は、父と母はどこかへふらりと旅行に行く。その際は、たいてい私は母の家でお留守番をする。一人暮らしのようで楽しいのだ。特に今回のお休みは長い。


「久しぶりの互いに合わせた休日だからな」


「いいわよ。母さんの家で掃除でもしているわ」

 ぴょんと背もたれから身をはなし、ひじ掛けにかけていた屋敷から着てきた衣類を掴み、膝の上でたたむ。ソファーの下に隠していた旅行鞄を引き出し、たたんだ衣類をつっこんだ。立ち上がり、重い鞄をうんしょと持ち上げる。


「このまま行くわ。母さんの家で身ぎれいにして、くつろぐの」

 侍女が何でもしてくれる屋敷は人の気配が絶えない。母の家は一人になれる。自分でしなくてはいけないけれど、それはそれで気兼ねない。


「あんまり、自由にしすぎるなよ」

「掃除しておくんだから、文句は言われないわ」

 あっけらかんと私はかえす。


 父と乗ってきた馬車は裏にとめてあるという、私を送って戻ってきても、母のステージの時間を考慮すれば、まだ時間があまり、御者と馬は待たされることになるだろう。


 廊下に出て、裏手の階段に通じる扉を開けた。重い旅行鞄を持ち上げ、一段一段気をつけならが降りていく。降りるごとに、呼吸が乱れる。


 いつもより荷物が多いことを甘く見ていた。荷物が倍になれば、重さは倍でも、疲労に至っては数倍になるなんて思わなかったわ。

 街娘風のスカートの方が短いし広がるから歩きやすかったわね。勇さんで失敗したかもしれない。


 荷物の重さが増していく気がするのは、腕に力が足りないからだ。進むごとに、指の力も弱くなってきている。階段に旅行鞄の底がすれる回数が増えてきた。


 どうしよう、もう少しなのに、力が足りない。次の踊り場で一息つこう、そうしたらもう一息だ。もう少しだ。


 その時、旅行鞄の底が階段の縁をすべった。つかんだまま、前のめりになってしまう。

 疲労で足が上がり切らない。足裏でちゃんと踏ん張ったと思ったのもつかの間、がくんと膝が折れた。


 階段は踊り場までまだ数段ある。二段、三段の足場でも転べば痛い。どうしよう。大きな荷物を用意しすぎて、着替えることを後回しにしたのが悪かったの。


 がくんと膝が折れた拍子に足首もひねった。


 バランスを崩して、荷物の取っ手を手放した。体が横向きになり、そのまま落ちる。私は目をつむった。

 

 転ぶと思っていたのに、なんの衝撃もなく、物が転げ落ちる音もしなかった。


 ぎゅっと強い力とぬくもりを感じて、はっと振り向くと、グレアムがいた。くわっと目を見開いた私は、陸にあげられた魚のように音もなく口を数度開け閉めしてしまう。


 ステージに上がったままの姿では、母の娘としている以上、彼の名を呼ぶわけにもいかない。

 グレアムの、もう片方の腕が、私の鞄の持ち手を掴んでいるのを見て、助けてくれたんだと状況を解する。


「ケガはないか」

 グレアムの腕のなかで、縮こまった体が硬くなる


 ズキンと足首が痛んだ。

「っつ……」

 痛みに眉が歪む。


「どうした」

「足が……」

 

 身をひねり、軽くそる。片膝を折り曲げ、上げた足首に、私の視線が落ちれば、グレアムが察するは早かった。


「私の首に腕を回しなさい」

 言うなり、片腕を私の脇に滑り込ませる。

 ぐっと力がこもれば、バランスが崩れ転ぶことを恐れた私の腕が彼の首の後ろに自然と伸びた。


 グレアムの片腕は私の旅行鞄を持つ。端正な尊顔が息もかかりそうな距離にある。私の体を支える腕が私の体を力強く支えている。


「一人ではおりられないだろう」

「……はい……」


 正直、その通りなのだ。

 

 戸惑うのは、支えられている状況だけではない。


 身長差のある彼が、私にあわせて背を丸め、段差を考えながら歩いていく。踊り場に出ても、足が地面につかないよう配慮してくれる。


 この思いやりはなんなの!


 月に一回会っている時の冷ややかさと密着するぬくもりが温度差はなに。自分から申し込んだ婚約者にはあんなに冷たいのに、なんでこんな時に親切なのよ。

 ここで投げ出されても困りはてるし、女性に不親切な男はもっと嫌だけど……。


 めかしこんでも、笑いかけても、努力を無に帰されていた婚約者の私って何!


 助けられて、感謝するべき時だった分かっているわ。今は貴族令嬢ではなくて、貴族御用達の歌い手の娘。彼から見たら婚約者とは別人なんだから、対応だって変わって当たり前よね。


 でもね……。


 でもよ。


 なんか、面白くないわ。


 心の底に、どんどんと薄暗く、じくじくした、嫌な思いを募のっていく。

 片やグレアムは、私に負担をかけないように、それはもう親切に階段をエスコートしてくれる。


 階段を降りきって、彼の腕が脇から離れる。

「歩けますか」

 頭上から、優し気な声をかけられ、私はぷちんと切れた。


 ずいっと私は手のひらで彼の体を突き放す。

 彼は私に押されて、たいして強くもない力で押されているくせに半歩下がる。感情薄い表情のまま、ちょっとだけ目が丸くなって、すっと立ち姿を整えれば、整えられた顔立ちが私を見下す。


 ふんと、鼻を鳴らして、流した黒髪を払った。

「歩けるわ」

 どうせ今は有名な歌い手の娘なのだとばかりに、私は高飛車に言い放った。


 良識ある人間なら、お礼の一つでも言うべき場面だと分かっていても、先走った感情に任せた私は冷ややかに一瞥する。


 普段冷たいくせに、他の女には親切なんて、理不尽だわ。


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