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自室のソファーに座って、両膝の上に肘を乗せる。両手で口元を覆い、私こと、グレアム・ベイクウェルは、深いため息をつく。
婚約者の伯爵令嬢オリヴィア・ジェンキンスが愛らしくて、どう彼女と接していいものか分からない。
明るい太陽の下で闇よりも深い黒髪が日の光を吸い込み輝けば、ひときわ美しいオーラを放つ。断言してもいい、彼女は光の粒を真珠のように放っている。欲目だろうが何だろうが、私には見える。
黒曜石のような瞳は深淵へ導くような吸引力をもち、その魅惑的な輝きに映し出される私の姿を見つければ、恥ずかしさのあまり、直視できなくなってしまう。
小柄でありながら、泰然とした姿は、月の女神のようだ。
彼女に話しかけられても、うまく答えられずに、失望させていることは分かっていた。それでも、目の前に彼女がいると、話そうと思っていた内容すべて羽が生えたように飛んでいき、声は奪われたかのように硬直する。
ひと月に一度、彼女の手の甲にキスを落とせるだけで、その先に一歩進むこともできないまま、時間だけ過ぎた。
この半年、翌月の約束を取り付けるだけが精一杯だった。
目の前に、夜の蝶がおり立ち、その姿を本物かと惑いながら、やっとの思いで見つめれば、彼女がほほ笑み返してくれる。それだけで、天にも昇る心境を味わうことができた。
約束の時間になり、彼女の庭を去る後姿を屋敷へと吸い込まれるまで見送る。彼女への接し方、扱い方も、ままならないまま、小一時間という短い時間はあっという間に過ぎてゆく。
こんな心構えもまともにできていない状態で、もう少しお近づきになってから、婚約を申し込めばいいと考えるのが普通だろう。
そうもしていられない事情があり、私は取り急ぎ、婚約までは立場を利用させてもらった。形だけでも縛りがあれば、彼女が逃げにくいことは承知している。
オリヴィアの母は伯爵の愛人であり、夜の世界では名が通った歌い手だ。一度引退したものの、本妻との折り合いが悪く、同居していた屋敷を出て舞台へと戻ってきた。当初、その背景から悪い噂がささやかれた。しかし、その歌声がすべての疑惑を浄化した。表舞台から去っていた寂しさもあり、多くの貴族がその凱旋に歓喜したと聞く。
歌う場は高級クラブのステージや舞台、立食パーティー、会食のイベントなど、貴族や商家の男が出入り多い店や貴族や商家の個人イベントまでさまざまである。ミステリアスな風貌に七色の歌声を持つ、男性だけでなく女性をも魅了する妖艶な女性なのである。
それがオリヴィアの母だ。
そんな女性のを射止め、一時でも囲っていた伯爵という男は、けっしてただものではない。見た目だけは、ただのはげかけた男でも……、とまあ、見た目も含めおおらかで穏やかな伯爵もまた貴族界隈では、尾ひれがつき一目置かれている。
そんな二人の間生まれた娘は滅多にお目にかかれない幻の歌姫だ。名も明かされず、セイレーンという異名だけが語られた。
数年前からちらほらとステージで見かけるになり、あっという間に知れ渡る。母が母だけに、伯爵のように彼女を妾にしたいと下心ある貴族が、彼女のフアンと称して近づいていた。
私は友人に誘われ、彼女の母のステージを見に行くため、高級クラブに足を踏み入れた際、偶然にも幻の歌姫と出会ってしまった。
母譲りの歌声、肢体にフィットした漆黒のドレス。あの声がどこから出ているのかと思わせる細い体。腰の括れとは対照的なふわんと柔らかそうな大ぶりな果実二つ。長く揺れるストレートな髪が上半身と胸をわずかに隠す。母の若かりし頃を知る年配者は懐かしみ、年相応の男たちは歌声だけで話すこともできない女神に、言い知れない野望……第二の伯爵になろうと目を光らせるのであった。
そんな私が、伯爵家のオリヴィア嬢と彼女が同一人物と知ったのは、偶然である。
歌えばすぐに裏方に消える彼女に絶えない贈り物は、すべて突き返されることは有名だった。彼女は何も受け取らない。
店の最奥から彼女の姿を偶然見ることができればそれでよかった。何度も足しげく通い、ただじっと彼女の歌を聴き、帰る。現れない日は、彼女の母の歌を聴き、帰る。
ただぞれだけで満足していた。贈り物も受け取らない、いつあらわれるとも知れない女性を口説く方法など思いつかなかった。
臆病な私は彼女の眼中には入らない。
ある時、そんな私の背後から、彼女の母が耳打ちした。
『あの子は、伯爵家の長女として、父と共に暮らしているのよ』
背筋がぞくっと伸びた。
『あの子はいずれ私と暮らし、平民に戻るつもりなの。歌うことは好きでも、私のことを見ているから貴族の妾になる気はないわ。しがない街の男と結婚出来たらいいぐらいしか考えていないわ』
『なぜ、私に……』
ささやく声さえなまめかしい。母と娘の声はそっくりである。
『なぜかしらね』
視線を後ろに流せば、彼女の母は不敵に笑む。
『あの子が貴族でいるのもあと少しよ』
意味深な言葉を残し、彼女の母は気配を消し、二度と私に話しかけることはなかった。
彼女の母の助言を私は重く受け止めた。
伯爵家へ早速、長女の存在を確認する。オリヴィアの存在を知ったのはこの時だ。表向きは長女であるものの外には出ず、容姿ともども知られていなかった。押しかけた勢いで、婚約をゴリ押しし、彼女は訳も分からず、私との婚約を承諾せざる得なかったのだ。
チャンスをものにできたのか、できていないのか。できていない方に軍配が上がりそうな現状でも、婚約にまでこぎつけた私は、この好機を手放す気は一切ない。
そして、今夜。
私と会ったその夜は、オリヴィアは必ず母の元へ行く。そして、ステージで数曲歌う。私は彼女のパターンを把握している。
夕食を終え、私は馬車に乗り、彼女が歌う高級クラブへと向かう。店の最奥の席へ座り、私は彼女が現れるのを今か今かと待つ。
母の前座で、いつもの漆黒のドレスで現れる彼女が、歌い始めれば、場がしんと静まり返る。どんなに貴族の下心があっても、彼女の歌声の前にはそんな下世話な思いは清浄化され、夜とは思えない、神聖な空気へと場が染められる。
その玉のように輝く空気に包まれ、私は満たされる。
彼女に張りつめそうな想いは、伝えられぬままに、募るばかりだった。
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