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私こと、オリヴィア・ジェンキンスは猛禽類に狙いを定められたリスに自身を例えたい。
春の陽気があたたかい、うららかな昼下がり。花が咲き誇り、蝶が舞う園庭に用意された茶席のテーブルで向かい合うは、冷ややかな空気を纏う婚約者グレアム・ベイクウェル。
言葉を交わすことなく小一時間。目の前の紅茶も冷め切った。そんな紅茶の温度に例えられるかのように、グレアムは私に、一抹の関心もない。
月に一度の顔合わせのたびに針のむしろとはこのことかと感じいる。どんなにめかしこんでも、笑いかけても、話しかけても、反応の少ない婚約者に、私はねをあげ、疲弊しきっていた。
こんな婚約はなかったことにしてほしい。
そう言いたくてもできない。侯爵家からの申し出により、伯爵家が受けている。とても家格の低い伯爵令嬢である私から、婚約などなかったことにしてほしいと泣きつけない。
緊張する時間に無力感が募る。
そもそも、グレアムと私は釣り合わない。彼は遠目からでも、輝く太陽のような金髪に、青々とした碧眼の持ち主だ。感情の薄い寒色の瞳が、彼のクールな一面を引き立たせ、文武両道な名声を高める一役を担っている。
片や私は、逆の意味で目立つ。黒目黒髪。カラスのように黒々とし、女性的な柔らかさを欠いた見目をしている。真面目そうと言われれば誉め言葉のようでいて、ただの目立たない平凡な娘なのだ。
選ばれた理由も知れぬ私は、今後も目の前で静かに黙々と時間をつぶすだけの男性と生涯を共にすることになる。
彼の涼やかな瞳を見つめる。
ふと気づかれても、視線はそらされる。
私には興味が持てない。そんな意思表示だろう。
ただ、与えられた時間をつつがなくこなしている事務的な空気が重い。
月に一度の、互いの家の体面を保つための時間など、なくていい気がするが、そこら辺をないがしろにしないのは、彼の生真面目さかもしれない。
私には荷が重い。ため息をついても失礼なことは分かっている。私も黙って時を過ぎるのを待つ。
二人きりにしてくれるのはなんの配慮にもならないと、抜けるように美しい大空に噴水のごとく叫びたかった。
侍女が私のそばにくる。「お時間です」と耳打ちする。
やっと解放されると安堵する。あからさまな態度はできない。ちらりとグレアムを見れば、執事から耳打ちされている。
私が立ち上がると、彼も立ち上がる。
つつっと寄って、立ち上がったばかりのグレアムを見上げた。
私は小さい。頭部は彼の胸元にくる。
無表情のグレアムがすっと視線を私の右下に流す。ほとほと私は嫌われている。こちらも無感情でいようとしても、あからさまな態度は、ちょっとは傷つく。
「貴重なお時間をありがとうございます。次回はいかがいたしましょう」
「来月、いつも通り時間はとってます」
半年続けている無益な時間は、そろそろやめたい。
「では、また来月……」
本音を言えれば、気持ちは楽なのに、告げることをためらわれる立場が憎い。
「また来月、楽しみにしています」
そう言うと彼は私の手を取り、甲にキスをする。
社交辞令だけはお上手なので、私もこの時ばかりは、笑むようにしている。きれいな作り笑いは慣れているのよ。
侍女に連れられ、私は庭から屋敷へと戻る。屋敷に入る時、ちらりと園庭をみると、グレアムがこちらを見てたたずんでいた。
玄関へ回り、私は迎えの馬車へと乗り込む。
緊張感から解放されて、また一か月後の責務が重くのしかかってくる。
屋敷に戻ると、日が暮れかけている。
侍女がすぐに夕食のお時間です、と告げて、着替えを手伝ってくれた。
伯爵家での私の立場は弱い。夕食の席でそれはよく表れる。
そもそも私は、妾の子である。
妾の母が本妻の義母との仲が悪く、耐えかねて出て行く時、娘の私だけは残すように言われ、おいていかれたと聞いている。本当のところはよく知らない。親同士のことに、子どもが首を突っ込んでも仕方ない。
息が詰まる屋敷に住んでいられなかった母は泣く泣く私を置いて出て行った。そんなところではないかと想像している。自由な女性だから、貴族の生活が肌に合わなかったのかもしれない。
本妻の義母には私の上に二人の兄がいる。二人とも今は家を出て、寄宿学校の寮暮らしだ。
私が残されたのは、女の子だから。どこぞの貴族の家と婚姻による縁戚を結ぶ役に立つと考えたからと予想している。
夕食の席に同席するのは、兄二人を欠いた四人。父と義母、私、それに年の離れた異母妹だ。母が出て行った後に生まれた妹だが、これがまた、年の離れた兄二人と義母に可愛がられ、天真爛漫。可愛いと言えば可愛い。
沈黙の中、すすむ夕食。グレアムのところに顔を出した日は、いつもと違う空気を感じて、気が重い。
そんな重苦しい空気の中で、会話の口火を切るのは父である。
「侯爵子息グレアムとは、つつがなく関係は継続できているか」
食事の添え物のように、関心のない口調だ。父にとっては、侯爵家からのせっかくの申し出が反故にならないかだけが重要なのだろう。
「かわりありません」
これが私の答えである。これ以上答えようがなかった。本当に始終無言なんだから。
すかさず、妹が口をはさむ。
「ずるいわ。グレアム様がお義姉様を選ぶなんて! 私ではなぜいけないのです」
父が重たげに息を吐く。
「年齢を考えなさい。兄達よりも年上な方だ、オリヴィアより歳近く身分相応な方々もいたなかで、わざわざお声がけくださった縁談だ」
「それでもうらやましいわ」
「あなたにも良いご縁がきっとありますよ」
その後、ふてくされる彼女を義母がなだめる時間になる。
私と父は黙って食事を続ける。義母と異母妹の他愛無い会話が続く。間が持つことがありがたい。母とは色々あったのかもしれないけど、意外と義母と私は適当な距離を保ち、うまくやっている。
妹が生まれ、ある年齢まで大きくなった。伯爵家の娘として育てられたといえ、私は妾の娘だ。母が出て行った今、私も侯爵家からの名指しの婚約話などなければ、母の元へと戻り、平民として暮してもいいと思っていた。誰もそんなことすすめてくれないけど……。
夕食を終え、自室へ戻る。
クローゼットを開けて、大ぶりの旅行鞄を出した。
私は蓋をがばっと開けて、詰め込まれた荷物の最終確認をする。主たるは衣類、宿泊用の必需品、あとは仕事道具の楽譜。
日も暮れて、星もまたたく時間帯。私は、長期宿泊用の旅行鞄に荷物をぎゅうぎゅうに詰めて出かける。
妹が生まれ成長し、侯爵家のグレアムとの婚約前から、私はちょくちょく実母の元へ行かせてもらっている。
グレアムとの婚約がなければ、今頃は市井で母と暮らしているはずだったのだ。
予想外の出来事に絡み取られて文句を心の中で繰り返しながら、部屋を出て、廊下を進み、屋敷の外にとめてある馬車へと向かう。
家紋など装飾が一切ない質素な馬車に、街娘の恰好に扮した私が、重い旅行鞄を抱えて乗り込んだ。すぐに出発はしない。出かけるのは私一人ではない。ほどなく、父が乗り込んでくる。
「待たせたか」
「いいえ」
父も簡素な街商人風の恰好に扮している。
私たちはこれから母に会いに行く。
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