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海

作者: 清水 和紀
掲載日:2018/10/22

海


 青い海だった。波が、立っていた。多くの、多くのごみが流れていたが、それらは長い年月をかけて今は岸に寄せ、吹き溜まりのような場所に集められ、大小様々なごみがそこで体を互いに押し付けてはまた離れた。ビーチと呼べる代物ではなかった。荒々しい、石でできた海辺で、伊豆の海の中でも、知られていない所だった。一人の老人がもうずっとそこを切りもりしている。角の取れて丸くなった、子供の頭ぐらいの石が弧状に岸を作り、その両側は切り立った岩場だった。

 たった一人、立っていた。彼はその岩場を見ていた。強い日差しに曝され、乾いた海藻を巻き込んだ石の間を歩いたせいで、スニーカーはすぐに汚れた。岩場には、階段状に切り崩された、跡がある。切り出されたところには、その上の所とは違う、白っぽい岩がむき出しになって日を受け、段差状になったくぼみや穴の陰影をはっきりとさせていた。その昔、城の建築材料にするために、何人もの石切師がその海の岸壁から、石を切り崩したのだった。危険な仕事だった。何人もの石切が、そこで石に押しつぶされ、一気に海まで落ち、大きな水しぶきを立てて落ちた。死体は、見つからなかった。死体は、落ちた時にいくつもの肉に別れ、衝撃で飛び散り、海水に乗って遠くの、海そばであるのに淡水の水が湧き出続け、深さすら分からぬという神の池と呼ばれる池のある岬まで流された。


 その話を、昔この海に来たとき、彼は父親から聞いたのだった。父親は、土方だった。土をえぐり、道を開いていた。雨が多くなる季節になれば、仕事がなくなりペンキ塗りになった。その仕事も無ければ、仲間と酒を飲み博打をした。荒くれの多い町だった。すぐそばには漁港があり、いつも生臭い、何とも言えない臭気が鼻を突いた。その町に住む人々や野良猫、なんでも死んだ魚の匂いになるようだった。日に曝された浅黒い体を抱えた父は、決して大男ではなかったが、いつも肌の下には、その動きに合わせて流動し、跳躍する筋肉を張りつめていた。家に帰ると、大体は相撲を見ているか、競馬を予想していた。見た目に似合わず優しい男だった。たまに彼も怒られたが、その怒りかたは幼い彼から見ても不器用で、そんな父を彼は好きだった。

 その父が、今死にかけている。妹から、「父があぶないからそろそろ会ってあげてほしい」という電話が、東京で暮らす自分のところに来たのが一昨日だった。東京で一人出版の仕事をして暮らす彼は、ほとんど上京してから父の見舞いには行っていない。父は痴呆だった。パチンコと競馬しか土方の仕事を辞めた後にはやらなかったためか、目に見えて衰えた。彼が何か話しても脈絡がおぼつかず、昔は強かったオセロをやるとすぐに負けてしまうようになった。散歩の途中に高速道路に侵入し保護されたのを期に認知症と判断され、施設に入ったのが何年か前だった。施設に入ると、体の方も目に見えて弱って行った。日に焼けていた肌は色を失い石灰のような、どことなく無機質な白さになっていった。膨らんだ風船がしぼむようだった。

 彼は、目の前にある石切り場の白っぽい岩が、最後にみた父の細くなった腕の色とかぶった。父の白い腕。いつの間のにか雲に隠れ、日を失った空に合わせるように、海も段々と黒くなった。石切り場の下に、かゆくて仕方のなくなった動物が、体を何回も何回も柵にこすり付けるように波が打ち寄せ、そのたびに波際に白い飛沫がたち、消える。


 足元にちょろちょろと逃げ回るフナ虫を追いながら、彼は海を後にしようとした。日が、再び現れようとしている。蒸し暑かった。濃い緑で、菖蒲のようなつやつやとした葉っぱを持つ名も知らぬ小さな白い花が、道路に続く崖道の脇にたくさん咲いていた。南国にあるガジュマルのような、太い蔓が木々にいくつも巻ついては、道に向かって好き勝手に垂れていた。彼はシャツの内側を汗が流れるのを感じ、不快に思うと同時になんとなく物足りなくなった。もっと、汗を流し、しまいには足りなくなって血すらも全て流れ出し、空っぽになってしまうほどであって欲しく、道路に上がるその石造りの階段をさらに歩幅を広げて駆け出した。驚いたカニが石段の間の小穴に身をひそめるのを目の端で捉えながら、自分の足を全力でだし、飛ぶ。二段、三段抜かしでわあっと登った。何も考えなかった。ただ無性にそうしたかった。足が地面をはねのける、その感覚が妙に懐かしく、そして恋しい。強い日差しは、覆いかぶさった木々に遮られ、たまにちらちらと走る彼の体にさした。しばらくそうして駆け上がると、階段の途中にある小さな踊り場のような空間で、さすがに息が切れ、足を止めていきを整えた。履いていたジーンズが暑くてたまらず、膝までまくり上げると、彼のすね毛に覆われた、浅黒く野太い足がにゅっと姿をだした。汗が額から鼻のわきへ、そして顎から落ちた。暑かった。誰かに救ってもらいたいほど暑くてたまらなかった。シャツを脱ぎ、ランニング一枚になると、ようやく涼しくなる。彼は後にしてきた海岸を見下ろした。海はもう一度日を受けて青く、輝いて強く光っていた。彼にはその光がまぶしすぎ、うっとおしいと思い目をそらす。石切り場は手前にある張り出した崖に隠れて、もう見えなくなっていた。

 残り少ない石段を登りながら、ふと、今の自分が海から逃げ出したように思えた。流れていけば、淡水が海そばでも不思議と湧き続ける神の池にたどり着くという海。何人もの石切が、そこで石を切り崩し、運びだし、そして、死んだ。怖くなったのだろうかと彼は考えた。赤い血の跡だけを白い石切り場の岸壁に残した石切師たち。幼いころ、この海でその話を聞いたとき、自分は面白く、そしてこんな海からどうやって石を運び出していたのだろうという不思議の方に魅せられていた。東京で海に友達と遊びに行っても、思い出すのはこの海だった。


「おう、そんな格好で、今日はあついから、ううん、海は、汚くなってたら?」

管理人の爺さんが車道まで上がってきた彼に懐かしい方言で話しかけた。彼が幼い時と変わらぬ姿で、ランニングに大きな麦藁帽をかぶっていた。道のわきにわずか三台ほどの広さしかない駐車場に建てた小屋の前から声をかけた。

「いや、綺麗でした、また来ます。」

彼はその恰好のままうかつにも上がってきたことが恥ずかしく、止めた車の前でジーンズをおろし、シャツを着直す。

「最近はごみが多いから ううん お父さんにもよろしく」

 曖昧にうなずくと、車に乗り込んだ。カーブの多い、半島を海岸沿いに囲むように作られた道を走らせると、爺さんのいる小屋はすぐに見えなくなった。自分が幼い時もすでに爺さんは爺さんだった。海から帰るときに、幼い彼を車で待たせ、外で爺さんと話す父。父は何をあの時話していたのだろう?まだ海がきれいだったころ、家族で海水浴に来た時も、必ず小さな管理小屋の前におかれたパイプいすに座りながら二、三分話してから海をたった。日に曝され、塩をつけた彼の父の肌は普段より一層浅黒く、隣に座る一日そこにいる爺さんといい勝負だった。今、聞いてくれば良かった、と彼は思った。父は何を話していたのだろう。それに何故、この半島に多くある海水浴場を避け、この道のわきに唐突に現れる小さな海岸をいつも選んだのか、それが知りたい、と思った。グネグネと曲がる道には繁茂した木々が覆いかぶさり、天にある日が見えない。夜のように暗くなったり、目が痛むほど明るくなる細い道を抜け、実家のある北の方にある町に車を走らせると、富士山が、夕焼けの中から、ぬっと姿を出した。彼の実家は、その下、海沿いの町にあった。


 実家に着くと、もうすでに夕方だった。「ずいぶん遅かったね」と玄関で靴を脱いでいるときに母が出てきて話しかけた。「もうご飯食べちゃってるよ、食べる?」食べる、と短く答え、使い古された机の前に胡坐をかき、煙草を点けた。実家には細かく帰っていた。母が、父が施設に行き、さみしいだろう、と思ったからだった。父が施設に入ってからも、母は元気なままだった。この夏は富士山に登ったと言っていた。丈夫な母だった。ただ一つの気がかりは、お前がお父さんに合わないことだよ、とよく言った。その話になるたび、彼は言葉を濁した。「タバコやめた方がいいよお」と言い、机の向かいに座る。出てきたニジマスの焼いたもので飯を食いながら、曖昧に答える。「お父さんは、どうなん?」「あーまだ大丈夫だとは思うけどお、まあいつか分かんないからねえ、こういうのは」そう母はいうと、老眼をかけ、新聞に目を通し始める。灰皿、新聞、みんな父の残していったものと言えば父の残していったものだった。「あんたが合う気になってくれて本当に良かった」としきりに言う母に話を合わせ、その日は明日の施設に行く時間だけ決め、二階の高校生の時まで自分が使っていたベッドで寝た。

 一向に眠れなかった。明日、父に会う、と考えると不思議な気がし、彼は寝返りを打ち続けた。父が嫌いでは無かった。むしろ好きだった。だから、母は余計父と会いたがらない彼のことが不思議で、心配なようだった。妹はよく父にあっていた。よく泣いていた妹。自分よりも成績が悪く、東京ではなく地元の学校に通った。父と同じで、体を動かしている方が好きだった。夜には戯れに父と花札をやる事すらあった。そんなとき、決まって父は負けるとバツが悪いようで、負けた時には、今日はツキが回ってこねえなあ、と言った。負けてあげる、などということは無く、妹にも彼にも勝負ごととなれば全力でかかった。そのくせ、負けて悔しがるところを見せるのも大人げないと自覚しているようで、ツキが回ってこねえなあ、といつもいうのだった。

 父が嫌いなわけではなかった。ただ、一度呆けてから見舞いに行ったときの父の白い腕や、小さくなった体を見た時、なんと言葉をかければいいのか分からなかった。その時も、夏だった。父を、車いすに乗せ、外に連れ出した。川沿いに建てられた白い建物から出ると、川辺に作られた小さな農園のわきに、夾竹桃が植えられていて、緑色の葉を日に受けて輝いていた。父は、連れ出されても何も言わず、ただじっと一点を見ていた。滅多にしゃべらなくなっていた。父は夾竹桃を見ているのでもなければ、空を見ているでも、川を見ているでもない。視線の先には何もないといってよかった。もちろん何かはあるのだが、空にも川にもはっきりとは視線は向いておらず、強いて言うなら川と道の間ぐらいに向いているのだが、別に焦点が合っている感じでもなく、そんなところを長い間見る理由もないので、やはり何も映っていなかったのだろうと思う。何か、別のもの、自分のようなものには分からず、父にだけ分かるものがあり、それを見ているのか、とも思った。それか、自分と同じように、夾竹桃や、空や、川が見えているが、それらが父には何か別のものとして映るのかもしれない、と思った。その後父を施設の中の共同の居間のようなところに戻してから、施設を後にし、それからは母が勧めても何年も行かなかった。         

自分が何故行きたくないのか分からなかったので、彼は母に父が嫌いなわけではないことを苦し紛れに説明し、言い逃れた。

 今回のようにもちろん理性で抑えていくことはできるのだが、自分の気持ちで言えばやはり気が進まなかった。今日なんとなく海によったのはそのせいかもしれないと思った。昔の、元気で、常に力を持て余しているような父。そんな父を思い出し、行く気を起こしたかったのだろうか。しかし、なぜ父に会いたくないのか、いくら考えても彼には分からなかった。そのうち、庭の方から聞こえてくるおけらの声がうるさく、考えるのをやめて寝てしまった。

 夢を見た。父が、あの海に浮かんでいる。安っぽいビート板を大きくしたようなものにつかまって、ぷかぷかと浮いている。自分は、海の中を見るのに夢中だった。海は信じられないほど深く、綺麗に透き通っている。ああ、まだ俺が小学生か、そこらのころの海だ。嬉しくなった。涙が出そうなほどうれしかった。この海水浴場を知っているのが自分の家族だけな気がし、得意だったのを思い出した。

 海の中に顔を突っ込むと、海の中に岩でできた谷があって、その底にはいくつものうにが沈んでいる。谷の上には、海藻が黒々と固まって生え、波に合わせて揺れている。海藻が生えているところは黒すぎて怖い。たまに驚くほど大きな魚が横切る。海は青く透って、深く、恐ろしく、そして美しい。「どう、砂の海より、岩の海の方が面白いら?」顔を出した彼に父が声をかける。笑って答える。幼い妹は浮き輪につかまって、父にへばりついている。彼はスイミングで習った泳ぎを父に見せたかったので、泳いで岸まで帰ってみたかった。岸には母が、本を広げてくつろいでいた。

 ちょっと待ってろ、探検に行ってくる、というと、父は一人洞窟の方に泳いで行った。海には、岩壁の横に、波で削られた暗い洞窟があった。大きな穴だった。彼にはそこはとても怖かった。先に岸に戻りそのことを母に報告し、待っていると、父が上がってきた。「うん、ほんとに真っ暗で、なんも見えねえから、さすがに怖くなって帰ってきた。ライトで照らしたらさ、底の方は落ち葉がたくさん溜まってた」

 その話は怖く、彼は絶対にあの洞窟には近寄らないことにした。そこの方にたまった落ち葉まで見てきたように頭に浮かんだ。その後、もう一度海に入って覗いていると、遠くにあった岩で出来た海中の壁から、ウツボが一匹、ぬっと出てきて、彼を見て、穴に引っ込んだ。その後も、ウツボはその穴から出てきては彼を見て、引っ込んでを繰り返しているらしかった。


 部屋が暑すぎて起きた。外にはもう強い日差しが射していて、蝉が鳴いている。眠りすぎた、と彼は思った。夢の内容ははっきりと覚えていた。それは夢などではなく、幼いころ何回も家族で行ったあの海の記憶がごちゃまぜにされたものだった。それまでも、眠りすぎた時に寝起き間近に夢を見ることはよくあった。大概が、夢ではなく現実の出来事をごちゃごちゃにした情景だった。続きを見ようともう一度眠りたくなるものもあれば、覚めてよかった、と安心するものもあった。海の夢は、どちらか分からない。ただ、懐かしい。

 シーツが寝間着越しに伝わった汗で少し湿っていた。起きて下の居間に行くと、母がもう目覚めていて、新聞に目を通していた。老眼を、かけていた。濃いピンクのフレームの、いかにも母らしいメガネだった。「ずいぶん寝たね、ごはん、そっち」と言われ、「朝っぱらからくそ暑い、それで起きた」とつぶやくように返した。盆に乗せられた朝食を台所から運び、居間の机に置く。頭がすっきりしなかった。眠りすぎた、と彼は思った。窓の外はすぐに田んぼになっていて、青い稲の上を走った風が、彼の汗で湿ったうなじを撫でた。

彼は、良く眠る男だった。遊ぶ時となれば、誰よりも遅くまで付き合い、酒を飲んだ。そうしなければ、誰かになめられる気がした。それでいて、何の用事もない休日は、12時間、あるいはそれ以上眠り込んだ。眠っては飯を食い、また眠った。そんな彼を見て、母は呆れ顔で、三年寝太郎みたいだよ、あんたと言った。彼にもなぜそんなに自分が再現無く眠るのか分からなかった。ただ、体を動かす部活がある学校や、仕事のある日が早く来てほしかった。そうなれば、また限界まで体を動かす。やることをこなして、疲れて、また眠る。そのリズムに身を置く方が好きだった。休みの日で、予定がないとそれが簡単に狂った。布団に寝転がりすぎると、足がむずむずした。走り出したい気分になる。しかしランニングにも行く気になれず、結局は夕方まで、本を読み、自涜をし、また眠るというのを休みの日は繰り返した。

学生のうちは自分を叱りもしたが、今では、休みの日に、自分を連れ出してくれるほどのものがないと自分を納得させていた。山にも行けた。友達を呼び出しても良かった。ただ、昔から誘われる側であることが多い彼には、自分から誰かを誘い出す、あるいは自分を誘い出すということが上手くできなかった。恥ずかしい気がした。それが分かって、なお何かが自分を連れ出すまで、家から出られなかった。

飯を食い終えると、彼は自分の通っていた中学を見に行くということを思いつき、ポロシャツに、ショーツという格好に着替えて、そう母に告げた。父の所に行く午後まで、まだ時間があった。外に出ると、日差しが彼の頭にもろに照りつけた。暑かった。汗が、吹き出す。うなじを伝う。この暑さで、父が死んでいるのではないか、とふと思った。生命力のないものは、うだるように暑いこの町の夏を生き残れない。すべて夏に死んだ。そして、また冬に孕む。魚の臭気が漂うこの町で、彼はそう思った。向かいにある古びた木造の平屋にも、路傍の石垣にも、すべてに日があたっていた。変わらなかった。変わっているのは、そこの中に住む人や、あるいは町にあふれかえる野良猫たちだった。柔らかいものが、だんだんと姿を変えるように、この町ではゆっくりとその中身だけが変わる。石垣の間から、父が植えた大きな白い浜百合が首を垂れていた。

中学校は、小高い丘を登った先にあった。その丘は、この町を包むようにそびえる富士山に向かって際限なく伸びている。だから丘というよりかは大きな山の途上と言った方がいいかもしれない。古い学校だった。学校までの道のり、平日に手ぶらの見慣れない男が歩いていることが珍しいのか、歩いている途中に、視線を感じた。すれ違う車の中から、道沿いの家の庭をいじる老人から、それを感じ、彼は居心地が悪くなった。どこからの視線なのだろう。そんなに、俺が珍しいか。じゃあ、俺に話しかけ、ぶしつけに「お前は都会から来たのか」と質問すればいい。俺を見るな。いや、俺程度のものに、珍しがらないでくれ。彼の厳格かもしれない感覚だったが、もしそうだとすれば、平日に歩く男程度を気にかけ、観察するこの町が気に入らず、彼は憮然とした。

学校につくと、テニスコートに面したフェンスに手をかけて中を見てみる。暑いというのに熱心に、グラウンドの奥では野球部の子供たちが走り込みをしていた。テニス部だった彼は、ふとテニスコートのわきに立つ古びたプレハブ小屋に目が行った。彼は仲間とともに、テニスは暇つぶし程度にやり、プレハブに電池式のアウトドア用ランタンと、机を持ち込み、大富豪をして金をかけて遊んでいたのを思い出した。そういう時、必ず彼は自分が望まずとも父のようになっていることを感じた。別にいやでもないが、不思議な気分だった。プレハブの中身は、卒業の時にも後輩に譲り、特に片づけず放っておいたはずだった。門から無人のテニスコートに入り、プレハブ小屋のドアに手をかけてみるが、あかない。南京錠がかけられている。今の中学生も、ここでトランプはやらないのだろうか?恐らく場所が変わっているだけで、同じようなことをしているはずだ。彼の父のような職業の男たちは、街にあふれていた。そういったところの子供がいれば、必ずやるだろう。雨の日に花札をする父を見て育っていれば。プレハブ小屋の前に、深い緑の葉をつけた椿の木が、日をうけて揺れていた。この木もあった気がする。何年も変わらず、毒々しい朱色の花をつけては、枯らしているのだろう。彼は、行くときに感じた不快な視線を、この木からも受けているような気がした。


昼ごろに、母と一緒に乗り込み、出発した。施設は、ここからさらに西に行ったところにあった。海沿いに走る幹線道路に乗った。その道は、海と山の間の土地を埋立て、無理やり造られていた。右には昔海に向かって直接突き出していた山があり、そのすぐ下にひしめくように間口の狭い、細長い家が並んでいた。その家の前を、幹線道路と遮るように、東海道線の線路が走っていた。母は助手席から光を受けて輝く海を眺めていた。遠くから見ると、仏の寝ころんだように見えることから、薩埵峠と呼ばれる山を大きく回り込むように道路が走った所を越した。彼は町より少し高い所にある学校から、遠くに見えるこの山を毎日のように見ていた。二か所の緩やかなふくらみのあるこの山は、確かに海側を頭にして、人が寝そべっているように見えた。ただ、腹にしては大きすぎる二つ目のふくらみのせいで、彼には菩薩というよりは、妊娠した女に見えた。彼の父は、この山の裏にある施設に療養していた。

母に薩埵峠が後ろになった時に、母に、あの山が仏に見えるか、と聞いた。「あー見える見える。北には富士山あって、南には菩薩の形した山あってさ。有難いよね」といった。彼は車を走らせる。ふと、昔東京で毒ガスをまき散らすテロを起こした宗教も、この富士山のもとに本家を置いていた、と思った。修験者。新興宗教家。それ自体が有難く、本尊であるという富士山と、仏の形をしたこの町は宗教が根付きやすい。彼には、それが奇妙な事のように思えた。恐れ崇められる富士山のふもとはそういった聖地でありながら、実家のある海沿いの町では、漁師、土方、やくざ者の荒くれが跋扈する。やはり、薩埵峠は仏ではなく孕んだ女だ。聖地である富士山に拒否され、しかし媚もできなかった者たちが、この孕んだ女の形をした山のふもとの、海と山とにはさまれた狭い土地でうごめき、呻いている。夏に死に、冬に孕む。それを繰り返している。富士山はそれをはるか上から見下ろしている。俺に視線を送っていたのは、富士山だったのだろうか?ひとりこの町を抜け出し、富士山から拒否された者たちから遠く離れた俺のことを攻めているのだろうか?


施設につき、手を消毒して中に入ると、父がいた。テレビを、見ていた。しかし、それがテレビを見ているように見えても、実は見えていないことは分かりきっていた。テレビを見ているように見える位置に、朝施設の人が起し、座らせたのだ。母は座り込み、「大丈夫?暑くない?元気?」と大きめの声で話しかけている。彼はしばらくぶりの父があまり依然と変わっていないことに驚いた。この前逢った時に、もう時間の問題だと思った。終わりそうになってからの生命力のしぶとさは、負けず嫌いだった父が無意識にみせた根性のような気がした。

「外いこう、車いす押して」と言われ、前来た時のように、車いすを押して、川に面した道に出す。軽い。父は相変わらず白く、しぼんでいた。口元からはよだれが垂れている。それがこぼれそうになるたび、母がハンカチで吹いた。道路は、ちょうど薩埵峠で日が隠れに、暗い。しばらくそこで、母が父に話しかける言葉を聞いていた。「和紀が久々に来てくれたよ、分かる?」「ここ日が落ちるの早いねえ」「最近変わりない?」何を話しかけても、父はじっと目の前を見つめていた。口は結ばれていた。たまにああ、とか、んんと言ったが、返答には聞こえなかった。

今の父を、あの海に浮かべたら、洞窟に探検に行くどころか、岩につぶされた石切師のように、はるかかなたまで簡単に運ばれてしまう気がした。そしてそこには、海そばでも淡水がわき続けるという不思議な泉のある岬がある。そこから湧くのは、あの、富士山の湧水だ。彼は、父が車いすに乗ったまま力なく海に流され、その泉にたどり着き、湧水と一緒になって、もう一度富士山のふもとから湧き出、生まれるところを想像した。石切師たちも、あるいはそうだったのではないかと思った。鮮やかな花のような赤い血の跡を、白い石切り場の崖に残し、彼らはあの池から水に溶けて、また埋まれ、あの町に落ちてくる。そうならいい。そうあってほしいと思った。そうした後、石切師たちや、父のような男たちは、またあの町に戻ってくるだろう。

男たちは、有難い山のふもとに住んでいられるわけがない。また孕んだ女の形をした低い山のふもとの町まで必ず落ちてくる。彼も、落ちてくるだろう。いくら都会に行こうと、必ずこの町にまた落ちてくる。その時、また、会いたいと思った。その時、浅黒い体をした父に、また会いたい。そう思うと、ふと、父の前で初めて、彼の目から涙がとめどなくこぼれた。止まらなかった。塩辛い涙が、吹き出し、ぼやけ、どこを向いているのだか、分からなかった。





 


これを習作にして、もっと洗練して、芥川賞とるつもりなんでよろしくお願いします。

もっと中上健次離れせねば

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