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第一話 ヒーローとは程遠い
十一月半ば
日曜日の午前中、俺はヒーローを見ていた。
リモコンをなにげに、押していたが偶然ヒーローに出くわした。
懐かしい。
ヒーローは俺の子供の時にもいた。
俺はいつか、みんなを救えるヒーローになる!
そんな夢を見た。
怪獣を倒すヒーローが、カッコ良く憧れていた。
今日もヒーローが、怪獣を倒す。
決めポーズをみると、どこか笑えた。
格好いいと思った子供の頃、今では滑稽な仕草にしか見えなかった。
テレビを消す。
画面は真っ暗になり、黒いスクリーンに俺が写っている。
黒いスクリーンから見える俺は、ヒーローからは程遠いオヤジだった。
アタマは薄くなり、丸い輪郭の顔が横に膨れていている。
「パパ、外の天気良いわよ」
嫁の命令だ。
掃除の邪魔らしい。
素直に出て行く。
怖いから、怒られるのが……
怖いから、存在を否定されるのが……
「パパ、真奈美も付いてく!」
甲高い声に、視線がいく。
視線の先に瞳の綺麗な、少女がいた。
真奈美だった。
俺には出来すぎの長女だった。
今年……。
「小学校何年だっけ?」
「一年生だよ!」
もの忘れか? 老いるには早いぞ。
真奈美も、アハハと笑っている。
無邪気で純粋だ。
俺に似なかったことを、感謝しないと。
小春日和とはこのことだ。
晩秋、冬の足音は近い。
近いのだが、今日は暖かい。いや暑いくらいだ。
いつしか上着を脱いでいた。
俺のみすぼらしいシャツに。真奈美の洒落た服が、一段際立つ。
「パパ」
真奈美が俺を見る。
ニコニコした笑顔に、抜けた前歯が生え替わっていることに気付いた。
「パパ、ヒーロー見ていた。学校で男の子達がやっているヤツ。パパもヒーローになりなかった?」
いつから真奈美は俺がテレビを見ていたことを、気付いていたのだろうか。
真奈美の目に、好奇心が湧いていた。
「ああ、なりたかった。嘘つき魔王を倒したくてよく遊んでいたぞ」
「嘘つき魔王?」
「悪い奴らの王様でね、嘘つきで強い悪者だったんだ。それをヒーローがカッコ良くやっつけるのさ」
懐かしい気持ち混じりに、真奈美に説明する。
俺が真奈美と同い年の頃、ヒーローブームが起きた。そのヒーローの悪者が嘘つき魔王と言った。
今考えれば、可笑しなネーミングだ。
まんまだ。
しかし俺はヒーローにはまった。
ヒーローはカッコ良く、目鼻くっきりした顔立ちで汗臭さを感じなかった。
今では、あれが、これが、違和感ばかりを取り上げては笑いのネタになりそうなヒーローだ。
「パパ、私のヒーローになってね」
真奈美がふと凄いことを言った。
少しだけ、時間が止まる衝撃を受けた。
ちょうど大きなガラス張りの店がある、俺が通う床屋だ。
そこに俺の上半身が写っていた。
お世話にも、ヒーローという身なりではない。
先程も述べたが、ここで写る俺も同じだ。
「パパ、どうしたの」
真奈美は不思議そうに見ている。
本気で言ったのかな? と思った。嬉しいよりも何故俺なんだ?
「何でもない、歩こうか」
「うん」
ヒーローか。
真奈美のヒーローか。
俺はヒーローは無理だ。
せめて真奈美、いや家族の雑巾でいい。
そう雑巾で……。
「うーん」
いきなり真奈美が、頭を抑えた。
真奈美の表情が歪む。
「どうした? 真奈美」
「頭がイタいの……あっ、治った」
「大丈夫か?」
「うん、でも学校始まってから何回か頭イタくなるの」
真奈美が俯いた。
「今度、病院に行こうか?」
「えー、イヤだ。だってすぐ治るし」
「そうか?」
眉をひそめている真奈美が、いきなり笑顔になる。いつもの真奈美の笑顔だ。
大丈夫かな。
この時は心配しなかった。
しかしこれが、俺の苦痛の始まりになる。
未来という沢山の選択肢、時間は俺に「試す」と言う選択肢を選んだことをこの時は知らなかった。
第二話 冷めたお茶
十二月上旬
「スミマセン、真奈美の親父です」
俺は町医者に慌てて駆け込んでいる。
嫁から真奈美が倒れたと連絡があった。
仕事中だったが、そんなのは関係ない。
当然だ。
「お父さん! 真奈美が」
真っ青な顔で嫁は俺を見ている。
近くに担任教師と、教頭先生がいた。
少し前に、二人がそれぞれ紹介した。
この二人が近くの町医者の病院に運んだらしい。
始めは救急車を要請したが、その時間は運悪く他の病人を運んでいたとのことだ。
そのため、学校の近くの病院に運んだらしい。
「真奈美ちゃんのご両親ですか?」
診察室のドアが開き、看護師が言った。
俺と嫁は看護師とアイコンタクトをとる。
軽い会釈をすると、俺と妻は診察室に入って行った。
「ママ!」
真奈美が涙を流しながら、嫁に抱きついた。
俺は視界には居ないようだ。
ある程度、嫁に抱きついていると、俺を見てニコリと笑った。
嬉しい笑顔と言うより、どうしているの? そんな表情だ。
「スミマセン、お父さんかお母さんどちらかとお話が!」
少し年老いた白衣の男が声をかけてきた。
医者だ。
私と嫁はアイコンタクトを交わすと、俺が残ると目で伝えた。
嫁はコクンと頷くと!真奈美と診察室を後にする。私はその行動を見送ると、医者と向かいあった。
「紹介状を書きます。連絡先教えてもらえませんか?」
いきなりの一言だった。
病状を言わないのだ。
「先生、いきなり連絡先とはどういうことですか? 普通は病状を言ってもらう。これからでしょう」
「真奈美ちゃんでしたね、娘さんの病状はハッキリ言えません。精密検査が必要です」
医者はそう言った。
ハッキリ言えません? ある意味、ハッキリ言っている。
この老いぼれ医者め、ある程度知っていながら自分の口からは言わないつもりか?
それならば!
「明日、町外れの大病院に行きます。そこで、精密検査をして貰います」
私は言い切った。
「だからまず先に、病状を教えるのが筋でしょう!」
そして俺は大声を出す。医者はビックリしていた。
普段、自分の言いなりばかりの患者を相手にしていたのだろうか、目に何か異物をみるような感じが伺える。
「病状はハッキリ言えません」
「ハッキリ言えなくても、大体は感じてるでしょう! それを教えてもらえませんか?」
ここは引かない。
引いたらいけない。
「病状にもしかしては、ありません。ハッキリ言えません。ただ精密検査をしないといけないことは、間違いありません」
「ひどいんですか?」
「ひどいでしょうね」
漸く医者は、言い切った。
腹が立つ。
言っておくが、「ひどい」と言われた事への怒りではない。
「ひどい」と正直に言わなかったことが、気に入らなかった。
こんな町医者ではあるが、医者は医者なのだ。
ある程度は感づいている。
それで良いから、教えて欲しかったのだ。
「頭の中に、何かが在るかも知れません」
「何か? 腫瘍ですか!」
「わかりません。わかる範囲で、ここまでです。真奈美ちゃんの症状は少し気になりました。ですから任せてもらえませんか? 大病院は、紹介状なしでは取り合って貰えません。私に任せて下さい」
医者はそう言った。
任せて下さい。
頭を下げる訳ではない。
下げて欲しくもない。
ムカつく。
たけど愚痴はここまで、医者を信じよう。
俺一人では何も出来ない。
俺は携帯番号と、家の番号を教えた。
どちらでも良いと伝える。
ただ家の番号に電話が来ると予測する。
俺が医者とこんな感じだからだ。
部屋を出ると先生と教頭先生は、学校に帰っていた。しまった、お礼の挨拶をしていない。あの先生方は忙しい時間を潰してまで来たのだ。
「パパ!」
真奈美が声をかけてきた。
俺は笑う。
近くにガラスがあり、不細工な笑顔が写る。
「大丈夫だよ! 心配ないよ」
そう言った。
それ以外に言葉を見つけられない。
真奈美は気味悪い表情だった。
俺の姿がそうさせていたのは、間違いないと思う。
夜。
子供達が寝静まる。
キッチンテーブルにお茶がある。
二つだ。
俺と嫁のモノだ。
熱いお茶だった。
今は温いお茶だろう。
俺と嫁は無言でいる。
病状を伝え、「連絡がある。俺の携帯か家のどちらかに」と話す。
ヒーターが静かな俺達の空間に、音を立てて温めてくれていた。
「真奈美、大きな病院に行くの?」
「あの薮医者はそう言っていた」
俺はお茶を口にする。
冷めた出涸らしのお茶は、当然不味い。
少し眉をひそめながら、嫁の言葉を聞いていた。
「明日、どちらかに連絡がある。そこでまた考えよう」
俺は言った。
ここでの会話は、全て言い尽くした。
会話の時間より二人の沈黙の時間が多かった。
寒い冬の夜は、ヒーターを点けていても手が悴む。
俺は無意識に、両手にハーッと温かい息をかけていた。
それを嫁が見ていたは、わからない。
しかし、「もう休みましょう」と微笑んだ。
俺はコクンと頷いて、残りのお茶を胃に流し込んだ。
やはり不味いお茶だった。
嫁が湯のみをキッチンに置くと、俺はヒーターを消した。
洗いモノをしたいから点けていて欲しかったようだが、「明日でいいだろ?」と聞くと妻も何も言わなかった。
お互いに、疲れたのだ。
今は休むことが、先決だった。
町医者から電話があったのは、昼過ぎぐらいだ。
案の定、家の電話だった。
会社で働いているお父さんの手を休めることを躊躇ったと言っていたらしいが、実際は俺の質問がイヤだったのだろう。
正月過ぎに一度、見せにきて欲しいとあった。
すぐでなはい。
一ヶ月後ぐらいだ。
理由もあったが、どうでもいい。
遅い! しかし!
とにかく、年明けには大病院に行かないと行けない。
真奈美の苦痛は、この時点から始まった。
俺はその苦痛に……。
第三話 煮え切らない時間
一月半ば
紹介状を手に、大きな病院にいた。
俺は休みを取った。
「別に私と真奈美だけで、大丈夫なのに」
嫁は言った。
しかし俺も来た。
何故なら、俺は真奈美のヒーローでいたいからだ。つまらない理由だ。
それに診療する科も少し引っかかった。
小児神経科とあった。
これは真奈美の頭の中に何かがあることを指している。
何かとは?
「真奈美ちゃん!」
看護師らしき人が、部屋から顔を出す。
若い看護師だ。
俺と嫁は看護師を見た。
真奈美は少し怖がっている。
どこかが違う!
真奈美は見抜いているようだ。
病院嫌いな子供は結構いるのだが、真奈美はそこまで嫌うことはなかった。
しかし今日は少し可笑しい。
嫁から真奈美は、離れようとしない。
「大丈夫よ。ママがついてる、パパもいる」
嫁の優しい声に真奈美の顔から、不安が少し消えてきた。
両手に、真奈美の両手が強く握られている。真奈美が弱々しく笑う。
敵に捕まったヒロインのようだ。
病院は真奈美の敵ではない、しかし嫌な存在ではある。俺も病院は嫌いだ。とは言えこのままではダメだ。
「真奈美、行こう。大丈夫だよ」
「パパァ」
「そう、大丈夫! パパとママがついてる」
「ママ!」
俺と嫁が真奈美を優しく諭す。
「ついてる」からと、諭す。
ついてるだけだが、いないよりはマシだ。
そう俺は、心に言い聞かす。
診察室はキャラクターグッズ、イラスト、ぬいぐるみ等があった。
小児とつくだけあって、少しメルヘンになっている。
なんだか場違いにいるな。
「こんにちは、確か真奈美ちゃんだね」
俺より少し若いくらいか? 医者が不気味に笑っている。
俺より不気味だと思う。
真奈美を見る。
変顔だ。
つまり不気味なんだな。
「お顔、こわい」
真奈美が言う。
「アハハ、先生は怖くないよ! ごめんね」
医者が優しく、真奈美に声をかける。
柔らかい口調だ。
しかし、医者の瞳が笑ってない。
だからか? 真奈美は警戒感を解かない。
恐らくは俺と同じく、瞳を見たのだろう。
言葉の口調は柔らかくても、表情が硬いと意味がない。特に瞳が笑えないのは、致命傷だ。
結局は医者なのだ。
「真奈美! 先生に見てもらおう。パパもママもいっしょにいるから」
優しく俺は言った。
目元も少し緩める。
真奈美の顔に、笑顔が戻る。
「変な顔!」
そう言いながら、アハハと笑った。
少し硬さが抜けたようだ。
一安心と言ったところか。
医者と真奈美、そして俺達のやりとりはまず状態を聞いていた。
いつ頃?
毎日かい?
ご飯美味しい?
朝は頭痛くない?
体に痺れは?
気持ち悪くない?
そんな感じで聞いていく。
真奈美の顔に、硬さが戻りつつある。
看護師もそんな真奈美を感じたか、ウサギのぬいぐるみでその場をほぐそうとしていた。
「ありがとう! お母さんとお父さん、少し今後のお話が」
医者は言った。
そして近くの看護師に、アイコンタクトを送る。
それを見た看護師が真奈美と二人、診察室を出る。待合室には遊び場があり、そこで看護師と何かをしているのだろう。
「精密検査が必要です」
「精密検査ですか! いつ頃?」
「一ヶ月後くらい後です」
えっ! 俺と嫁は顔を見合わせた。
「すぐではないんですか」
「機器の関係です。それと順番です。これでも急いでますが、申し訳ないです」
嫁の憤りに医者は、言い訳と心がない謝罪をした。淡々と事務的な医者に、苛立ちがあった。
俺は我慢を自分に言い続けていた。
「一ヶ月は様子見になります。頭痛だけで痺れや吐き気がないので急ぐ必要はないでしょう」
「それなら、何故、町の先生はここを紹介したんですか?」
俺は疑問を投げた。
「精密検査なら急げと、おっしゃったのと同じですよね」
「先程も言いました。順番待ちなんです」
「順番待ちですか」
「はい、ですから早くて……なんです。お気持ちわかります。しかしみんなが、待っているんです」
少し納得した。
仕方ない……な。
夕方 自宅
「香奈美! 頂戴!」
「えーん」
「こら、真奈美! お姉ちゃんでしょ!」
いつもの食卓だった。
真奈美はおてんばで、元気がよく、無邪気に良く笑う。
嫁が怒り、香奈美が泣き、耕助が変な顔で見ながら箸を動かしている。
いつもと違うのは今日、真奈美が病院に行き、精密検査が必要と言うことがわかったこと。
医者は異常に気づいていること。
いつもはうるさい食卓だが、今日に限ればうるさいのは普通でありがたいモノなのだと気づいた。
「パパのハンバーグもらう!」
真奈美の箸が俺のハンバーグを捉えると、口に入れる。
「あっ、真奈美!」
呆れて笑う俺がいる。
こんな何気ない時間、それがどれほど大切だったのか? 今頃わかるなんて全く、想像がつかなかった。
今年の一月は雪が少ない。
寒さの緩い、季節だった。
第四話 呪いと怒り
二月最後の日
真奈美の検査は少し遅れた。
理由は病院の不備だ。
いろいろ言い訳しているが、聞きたくない。
そして今日、検査の日となった。
一週間ズレた。
真奈美にいろいろ検査をしている。
真奈美は嫌がる素振りを見せると、看護師や俺や嫁が応援する。
検査は正に精密検査だ。
いろいろ検査をした。
真奈美はよく頑張った。
べそはかいたが、泣くことはなかったからだ。
強いな。
心から思った。
検査結果は悪くないはず、こんな娘が悪いはずはない。
検査のデータが診療室にあるころ、私と嫁は待合室で真奈美と遊んでいた。
待合室には滑り台があり、ボールプールがあり、何人かの子供が遊んでいる。
子供達の目がキラキラと輝いているのを見ると、何故か嬉しくなった。
俺は子供好きではない。
しかしそう思ったのは、何故なのか。
「スミマセン」
診療室にいる看護師が、俺と嫁に声をかけた。
俺と嫁は同時に振り向いた。
「お母さん、お父さん、真奈美ちゃんは私と遊ぼうか」
「え? 当事者は!」
「ご両親だけでお願いします」
看護師が、真奈美とじゃれあいだす。
不自然な看護師に、真奈美も変な顔になった。
嫌な予感がする。
嫁も感じとったのか、眉をひそめていた。
「とにかく、行こう」
「うん、そうね」
俺達は、医者のいる場所へ行った。
「すぐに入院してください!」
俺達が丸椅子に座ると、医者はいきなり切り出した。
医者の目には、鋭さがある。
パソコンにMRIで映した画像があった。
その画像を、俺達に見せる。
そこには……。
「脳の一部に、白い塊があります。これは特殊な液体を流しています」
「ペット検査ですか」
「そうです」
この瞬間、俺の顔から血の気が引いた。
ペット検査で集まる白い塊、それは……
「先生、真奈美は……まさか!」
「小児脳幹グリオーマの可能性大です」
グリオーマ……俺の顔に血の気が上がっていく。
顔は熱く、鼻息が荒くなった。
医者を睨み付ける。
「何故! もっと早く検査しなかった!」
俺の声は診療室に大きく響く。
大声は恐らく、外に漏れたはずだ。
医者に掴みかからないのは、俺の心にある最後の理性だ。
「真奈美が泣く!」
その理性が、俺に喋りかけたからだ。
「検査を待っている人が沢山いました。それでこうなりました」
「娘の病気を軽く考えたのか!」
「初診の時ですが、ひどくは見えませんでした。ハッキリわかる方からの検査をしたからです」
「普通はわからないから、検査するんだろう! わかる相手に検査を何故するんだ!」
「裏付けです。わかる相手でも思うではダメなんです。娘さんはその時は、全く見えなかったんです」
俺と医者のやりとりを、嫁は始めは呆然と聞いていたが、ここに来て俺を止めにはいる。
「パパ、落ち着いて!」
「お前、グリオーマだぞ!」
「だから……」
「悪性脳腫瘍なんだぞ!」
悪性脳腫瘍の言葉に、嫁の動きが止まる。
嫁はグリオーマの意味を、知らなかったのだ。
嫁の瞳から光が消えていく。
真奈美が危険な状態と、ここにきてわかったようだ。
俺は医者に目線を戻す。
医者は少したじろいでいる。
コイツ!
「パパ!」
診療室のドアが開き、真奈美が顔を出した。
真奈美の声に頭に血が上った俺の顔から、血の気が戻っていく。
真奈美は泣きそうな顔をしている。
「パパ、私、悪いことしたの?」
真奈美の声が、涙声になっていた。
泣きそうな顔は、この一言で泣き顔になった。
俺は真奈美に近づき、抱き上げる。
また重くなった。
成長の重さだ。
「大丈夫、ごめん」
そういうと、俺は診療室を出た。
嫁に後は任せると言った。
「今の俺ではダメだから」
そう言うと、真奈美といっしょにいることを選んだ。
妻は首を縦にふり、医者にはヤレヤレの表情があった。
夕方。
今度の月曜日となった。
手術は……。
俺と嫁は、その用意のために時間を割いていた。
日暮れ、夜。
俺は嫁と二人で、食事中だ。
やれることやったと実感したら、腹が減った。
それは妻も同じようで、二人で遅い夕飯だった。
「真奈美、病院への入院をあっさり認めたよ」
「俺の怒りを見たからだな」
「だけどぐずらないで済んだ。検査する時はくずって仕方なかったもん」
「真奈美、治るのか」
俺の一言に、嫁の箸が止まる。
「すまん」
「いいのよ」
「一つ聞いていいか?」
「何?」
嫁が笑いながら言った。
無理している。
そんな笑顔だ。
「あの医者、謝ったか?」
「謝る?」
「……そうか」
嫁の一言で、全てを悟った。
医者とはあんなもんか?
ただ、スミマセンの一言を言って欲しかっただけたのに。
言い訳より、スマンでもいい。
その言葉が欲しかったのに。
第五話 出会い
手術は午前中からだった。
用意は順調だった。
皮肉なまでに、上手くいっている。
いや、皮肉ではない。
上手くいっているのは、幸運だと思う。
手術当日は綺麗な晴れだ。
空気が澄んでいる鮮やかな空で、雲一つない。
「ママ」
真奈美が言った。
ベットの上に弱々しくしている。
そして、恥ずかしくしている。
恥ずかしい理由は、髪の毛が無いからだ。
手術と言うことで、丸刈りにされて髪を剃り落としていた。
不憫だ。
そう思った。
まして真奈美は、小さくても女だ。
髪は女の命である。
例え手術には邪魔なものでもだ。
「髪の毛、なくなったぁ」
「大丈夫! またはえる」
「本当?」
「本当よ」
嫁は真奈美を優しく諭す。
顔には髪を剃られた不憫な表情と、手術でなんとかなる! の期待の表情が同時に見えている。
多分この表情は俺にしか、わからないだろう。
長年いっしょにいるのだ。
お互いに、飽きてきた仲でもある。
飽きるくらいに分かり合えている……と、俺は思っている。
「真奈美、頑張れ!」
「がんばれ」
耕介、香奈美もいた。
学校と保育園に、休みをもらって来たのだ。
真奈美の顔に、笑顔が戻る。
俺の知ってる真奈美だった。
「それではよろしいですか」
ベットを引っ張る看護師達が、伺いをたてた。
「先生は?」
「用意をなさってます」
「では、お願いしますと伝えてくれませんか?」
「はい」
簡単なやりとりだ。
これ以上は、迷惑をかけられない。
手術室は三階にあった。
三階のほとんどが手術のための部屋で、家族控え室もあれば、家族面談室もある。
手術室をモニターから見ることも出来た。これは家族面談室にて見れる。
モニターには手術室の一分前の映像が流されるらしい、ライブ映像でないのは予期せぬ事態への考慮らしい。
因みにカメラは三台ありアングルが変わる。
つまりは何かあった場合に、だ。
多面的で見れるようにらしいが、都合の悪い角度を見せないように計算されているのだ。
ふん!
良いところはオープンで、まずくなれば機器のせいにするのか。
子供騙しだな。
とは言え、俺は見ることにした。
嫁は見ないらしい。
怖いようだ。
手術が始まった。
つまり、一分前には始まったことになる。
人が何人かいて、真奈美の患部の様子はわからない。見たとして、素人の俺にはわからないのだから意味はない。
しかし、しばらく見ていた。
見ていたのだが……。
ハッキリ言って、よくわからない。
よくわからないのに、カメラアングルが変わる。
患部を見せると言うよりも、医師や看護師達は手術をしっかりやってますよ! 的なモノであまり伝わってこない。
とは言え患部を見せることは、普通の人間からしたら気絶しかねない。
だからやり方的には、正解かもしれない。
俺も直視出来ないだろう。
見るのは止めた!
見ないでいよう。
見たとして、粗探しになるだけだ。
確か手術は、かなりの時間がかかるとのことだ。
一時間おきぐらいに、モニターを覗こう。
三階には保育室があり、滑り台やボールプールがある。
まるで小児病棟待合室みたいな感じだ。
そこに妻と香奈美、耕助がいる。
香奈美はボールプールで、妻と遊んでいるのだが耕介は少しつまらなそうだ。
「あら、パパ?」
「モニターを見ても、よくわからないから来たよ」
正直に俺は答えた。
嫁はそうなんだと、笑っていた。
「パパ、どこか行こう」
耕助が言った。
つまらなさそうにしている耕助に、俺はわかったと頭を撫でる。
耕助は怒り顔で、俺を見たが病院を見学しようと問いかけると、喜んでいた。
「少し行ってくる」
「わかったわ」
俺は二階に降りた。
病院内には人、人、人ばかりだった。
月曜日だから、人が多いのは仕方ない。
「いっぱいいるね」
「ああ、いるね」
「みんな、病気なの」
「いや、みんなではない」
こんな会話をしていた。
歩く所、歩く所、本当に人だらけだ。
無機質な空間にいる、たくさんの人間に俺はどこかやるせなさを感じた。
「自販機で、ジュース飲もうか?」
俺は耕助に、言った。
目が輝き出した。
おいおい!
素直だな。
自販機は売店の近くにあった。
どれを飲もうか? なんて考えるまでもなく、耕助がオレンジジュースを指した。
紙パックか。
では俺は、ウーロン茶にしよう。
俺と耕助が、喉を潤すジュース類を買い近くのテーブルに座ろうとした。
「お父さん、なんか飲みたい!」
元気な男の子の声に、視線が行く。
そこには大人しい男の子が、お父さんとお母さんに連れられていた。
元気な男の子なのだが、どこか引っかかる。
どう言えばいいのだろう。
元気なのに、元気でないように見えるのだ。
「輝、ダメ! ここは我慢しよう」
「えー! がんばったよ僕!」
「ダメだよ、男の子だろ」
優しく格好いいお父さんが、男の子を宥めている。
あの男の子も、宿命持ちなんだ。
俺はジーッと見ている。
「輝くん、勇者は我慢しようね」
お母さんが、男の子を宥める。
男の子は俯いた。
「パパ、俺のジュースあげようか?」
耕助が席を立ち、男の子の所へ行こうとした。
「ダメだよ、あの子は飲めないのかもしれない。ここは病院で病気の人がいっぱいだから」
俺は止める。
情けをかけることはない。
やんわり、言った。
耕助はどこか安心したように、ジュースを飲み出した。
俺が止めるのを待っていたのか?
「美味しい!」
耕助の笑顔に、少しホッとした。
良かった。
何故かそう思った。
しかし俺は知らなかった。
耕助の笑顔に、羨ましい顔をしていた男の子を……。
この男の子こそ後の魔王なのだが、今は知らなかった。
時間はかなり過ぎた。
時計の針は、午後になっている。
今、俺はモニターにいる。
モニターから映る手術模様は、やはり俺にはわからなかった。
しかしどこか可笑しい。
何なんだ?
ヤケに主治医がみんなに指示している。
どこかが慌ただしいのだ。
上手くいってないのか?
よく見ると、手術は終わったようである。
しかし、引っかかる。
手術が終了。
スマホに電話が入る。
手術の先生からだ。
手術終了はスマホで、知らせが来ることになっていた。
さて! 出よう。
「はい!」
「終わりました」
「で、具……」
「家族面談室にて、説明します。それでは失礼します」
電話は一方的だった。
気持ちはわかる。
しかし気に入らない。
……まあ、いい。
嫁を呼びに行くか。
俺と嫁は家族面談にいる。
医者はまだ来ない。
耕助、香奈美は眠っていた。
待合室の椅子に二人仲良く、夢の中にいる。
疲れたようだ。
特別なことはしていない。
しかし病院は疲れる場所と言うことを、身を持って子供達は知ったかもしれない。
近くにいた看護師に、見ててくれと頼んだのは少し前だった。
コンコン!
渇いたノック音がした。
こちらが、どうぞと言う前に扉が開く。
「失礼します」
主治医だ。
俺とやりやった、あの医者だ。
少し遜る素振りがある。
手には切り取った腫瘍らしきものを持っていた。
かなりの量に見えた。
全部取れたのか?
しかし医者の一言に、失望してしまった。
「かなり取りました。しかし、取れない箇所があります。ここは予後経過を見ます」
「取れない箇所?」
「はい、神経にまとわりついたのがありました。これには触れませんでした」
「手術は失敗ですか? 手遅れだったのか!」
俺は机を叩き立ち上がった。
「治療方法を変えるんです。私とて悔しいんです」
医者は言った。
目を見た。
鋭い眼差しに、やるせなさを感じる。
これは本当のようだった。
私は椅子に腰掛けた。
「小さな子供のガンはわかりません。進行が速い場合もあれば、突然消えてしまうこともあります」
「真奈美のガンも消えますか?」
「わかりません。わからないから、治療を続けていきます」
俺は愕然だった。
そして嫁も愕然だった
やはり検査が遅れたからだ!
俺はそう思った。
チクショウ! しかし、大声は出せなかった。
やるせない医者の目に、少しは戦ってくれていたことを感じたからだ。
やるせない憤りは、涙になり頬を伝う。
くそ!
泣くな!
俺は自分に言い聞かせた。
「お父さん、お母さん、真奈美ちゃんを誉めてあげて下さい。つらい手術を耐えたんです」
医者が言った。
間違いなかった。
言われるまでもないことだ。
しかし何故か、納得してしまう。
俺はこの医者は嫌いだ。
嫌いだが、全てを嫌ってはいけない。
そう思った。
少しは真奈美のために、戦ってくれたのだ。
尊重はしないと。
夕方
俺は香奈美、耕介とスーパーにいる。
夕御飯を買っていた。
明日、仕事に学校、保育園の三人は家に帰り、嫁は真奈美に付きっきりになると決めたからだ。
妻はパートを辞めるようだ。
真奈美に少しでも付いてていたい……。
涙ながらに言った。
俺はウンウンと、うなずくだけだった。
「パパ、お姉ちゃんは?」
「まだ病院だよ」
「治ったの?」
「だいぶん、やっつけたって先生は言ってた」
「パパ! 真奈美は大丈夫なんだ!」
「……大丈夫だ」
子供達に、嘘を言ってしまった。
大丈夫なんて……。
しかし、治ると信じないと!
そう、治ると。
スーパーを出ると、冬の澄んだ空気に周囲は美しい。
この町は綺麗な町なんだと実感する。
少しセンチになった。
病院のある方向を見る。
ここで、誓う。
この方向に、病魔と戦うヒロインがいる。
俺はヒロインのために、盾となり剣になるヒーローになる!
「パパ? どうしたの?」
「別に、さあ帰ってご飯だ」
「スーパーのオカズだね」
「オカズだね」
さて、帰ろう。
俺とみんなの時間は止まらないのだから。
そう、止まらないんだ。
止まらない……。
第六話 桜と救急車
四月、桜の咲くころ。
真奈美は小学二年生になった。
なりはしたが、病院の中だ。
そこで、勉強することになった。
小児病棟にある学級だ。
病院はここに力を入れているらしく、数人体制の学級が三つあった。
一学級は約五人くらい。
真奈美はその中のイチゴ学級に入った。
因みに他はリンゴ学級がありこれはイチゴ学級と同じ歳の子供で構成されていた。年齢が少し高い子供達はスズメ学級と言った。
なぜコレだけ、鳥なのかはよくわからない。
まあ、こうなっているんだとしておこう。
リンゴ学級、イチゴ学級、どちらにも空きがありどちらに入るかは、親子の会話で決めることができた。
真奈美はイチゴ学級を選んだ。
理由は、イチゴが好きだからだ。
それだけだ。
クラスの人数は、リンゴ学級が四人、イチゴ学級が五人、スズメ学級が二人だ。
イチゴ学級は真奈美を入れた数であることを、ここで補足しておこう。
しかし、驚きだ。
こんなに病魔と向き合わないといけない子供が多いとは!
俺は今日、香奈美と病院に来ている。
嫁と耕助は、違う用事で外出していた。
後で合流するが、それまでは香奈美と二人だ。
「パパ、桃色見たい」
香奈美は言った。
桃色とは桜のことだ。
桃色に似ているらしく、香奈美は桜を桃色と呼んでいる。
始めは、おかしかった。
しかし「桜の花は、桜色だよ」と教えると、香奈美は頭を捻った。
桜色がよくわからないのだ。
青や赤のほうが分かりやすいのだ。
考えたら、香奈美の考え方は当たっている。
桜色なんて歳をとり、センチにならないとわからないのかも知れないのだ。
「いっぱいの桃色!」
香奈美は喜び、飛び跳ねた。
病院の通りに、桜街道みたいな場所があり満開の桜が咲いている。
そこを二人で歩いている。
他に何人かの、見舞いに来ている人達がいた。
全てが、桜に酔いしれている。
桜の花は、魔法がかかっているのか?
違うな。
一瞬の美しさを魅せて、潔く散る姿に憧れるからだろうと、俺は考えている。
桜自体は根を張り、毎年のイベントを俺達に魅せているのだから、桜はアピールが上手いんだな。
「パパ、綺麗な桃色!」
見上げながら、香奈美は喜んでいた。
相も変わらずだ。
ピーポー
ピーポー
救急車のサイレンが響く。
どうやら、入って来そうだ。
緊急外来を見る。
そこに何人かいた。
桜並木通りの、緊急外来近くに俺と香奈美はいた。
俺達は足を止めて、一部始終を見ることになる。
救急車が緊急外来の外に止まる。
すると、病院が用意したタンカが到着した。
そして両親が、降りた。
「早くしてくれ!」
父親が、救急車に怒鳴っている。
少し時間が空き、一人の少年が二人の救急員に懐抱されながら現れた。
ん?
どこかて見かけたような……。
あっ、この前のジュースの子、だったかな?
記憶があまり定がではないが……。
俺の場所から見て、少年の顔に血の気がなかった。
少年は用意されたタンカに寝かされると、すぐに病院内に入って行った。
それを俺は一部始終見ていた。
「パパ、今のどうしたの?」
香奈美が言う。
香奈美には今の状況なんて、どうでもいいのだ。
病院に入り、お姉ちゃんに会いたい。
そう思ったのだろう。
間違いはない。
「ゴメン! お姉ちゃんに会いに行こう」
「うん!」
桜が咲き誇る四月、魔王が病院に運ばれた。
魔王は力のない少年なのだが、何故、俺が魔王と呼ぶのか……それは。
今言えること。
魔王は少年だ。
しかし、少年を魔王に仕立て上げた存在がいる。
俺はその存在と、対峙していくのだが……。
第七話 心壁
五月、森林芽生え。
ゴールデンウィークが過ぎると、初夏の匂いがしてきた。
新緑芽吹く五月は、私にとってお気に入りな時季だ。
五月の終わり頃は、真奈美の誕生日だ。
いつもは家族五人で、誕生日パーティーをしていたものだ。
今年は病院内だ。
まともなパーティーは出来ないだろう。
自宅、寝室。
「うっ」
嫁が腹に手をやる。
「大丈夫か?」
「うん、この時季は痛いから」
笑いながら言った。
嫁は腹に大きな切り傷がある。
帝王切開の傷だ。
真奈美の出産時に、出来てしまった傷だ。
真奈美は逆子で、へその緒が長かった。
そのため帝王切開を選んだのだ。
出産は順調だった。
しかし腹の傷は古傷として、嫁を困らせている。
因みに香奈美も帝王切開だ。
一度、帝王切開をすると今度もらしいが、男の俺には理屈がわからない。
時計は夜の八時を差している。
「真奈美の誕生日だよな」
ポツリと俺は言った。
寝室で俺はスマホを開いていた。
見ているのは、去年の誕生日の様子だ。
恥ずかしいからと見なかったのたが、真奈美が居なくなって懐かしむよう目線を落とす。
下手くそなハッピーパーティーを俺が歌い、嫁が笑いながらスマホに記憶させる。
恥ずかしいより、何で俺がと当時は憤慨した。
「パパ、歌って!」
その一言で、決まってしまった。
ヤレヤレだった。
「まだ去年なのに、懐かしい」
嫁が笑いながら言った。
優しい顔はいつも子供達に見せる顔だ。
俺には見せたことがないが、今は見せてくれた。
コイツも何か物足りないようだ。
「実は今日、私と実家の義父さんと義母さんとで真奈美の誕生会に行って来ました」
「え?」
「ごめんなさい、伝えるのが遅くなって」
「いや、別にいいさ。会社休めない」
そうだ、会社は休めない。
男として、いや社会人としての宿命だ。
今までは経緯が経緯だけに、みんなが協力してくれたがいつまでも頼ることは出来ない。
みんなも忙しいのだ。
「それでね、パパ? 聞いてる?」
「あっ、スマナイ」
「もう! それでね、イチゴ組とリンゴ組の子供達がお祝いしてくれたのよ」
「へえ、真奈美はどうだった」
「うん、正直迷ってた、始めはね。でも段々と普通の真奈美になったわ」
「普通?」
「私達の知ってる真奈美よ」
知ってる真奈美か。
つまりまだ真奈美は、病院では俺達の知らない顔も持っていたのだろうか?
知らない顔……。
知らない顔かあ。
よくわからない。
俺が知らないだけなのか。
「それでね、イチゴ組の優子ちゃんと仲がいいの」
「優子ちゃん?」
「うん、そうそう」
仲良しが出来た。
俺はどこかやるせなかった。
何故なら、病院の子供だからだ。
差別ではない……別にそんなのではない。
しかし理由が思いあたらない。
ダメ人間だ。
真奈美は、病院で闘っている。
その優子ちゃんも病院で懸命に闘っているのだ。
闘っている子供に、変な壁が俺の心にあった。
情けない。
だけど、やはりやるせなかった。
「……パパ、優子ちゃんは真奈美の病院での最初のお友達、それだけだよ」
嫁は優しく俺を諭す。
心の中を読まれたみたいだ。
「別に……別に」
言葉が続かない。
こんな自分の姿があることを、自分が始めて知ることになる。
「日曜日、病院に行きましょう。真奈美が待ってるよ」
嫁が言った。
優しい笑顔だ。
そう言えば俺に泣いた顔や、怒った顔を見たことがない。
近頃はそれが如実になったような感じだ。
つまり彼女も懸命に、頑張っているのだ。
「そうだな、真奈美が待ってると思うから、行ってみよう」
「パパ、待ってると思うじゃなく、待ってますよ」
またまた笑う。
俺はコクコクと首を縦に振る。
時間は十時になっていた。
耕助の声がしなくなった。
電気も消えて、眠ったようだ。
嫁が確かめに、寝室を出る。
香奈美は、ずっと寝ている。
明かりがついていても、平気で寝息をたてている。
なかなか頼もしい。
嫁が戻ってくると、耕介は大丈夫とコクコクと頷いた。
耕助は近頃眠るのが早い。
真奈美といっしょの部屋だからだろう。
今までは、どちらかがうるさいと起き続けていたのだ。
いずれは別の部屋にしないといけないが、今は異性の恥じらいを二人は見せてはいない。
見せてはいないだけに、耕助も真奈美もよくふざけあって、俺や嫁を困らせてはいたのだが……真奈美がいない唯一メリットだ。
子供達は寝たようだ。
真奈美も寝ている時間だな。
いや寝かされた時間か。
時間の流れは、どんな場合も止まってくれないんだな。
センチに思ってしまう。
時間の流れ……止まってくれ! 戻ってくれ!
いずれこんな憤りに襲われることを、この時の俺は全く予想出来なかった。
時間とは良くも悪くも、淡々と刻み続ける。
そう、淡々と刻むのだ。