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いってらっしゃい

作者: ろうや

世間一般の男性から見れば、僕の生活は少し変わっているかもしれない。僕は大学を卒業して、小さな会社に勤めていたのだけど、結婚して3年、会社を辞め専業主夫になった。妻と話し合って決めたことだ。恥ずかしい話、彼女の方が僕より圧倒的に稼いでいたし、今後もそうであろうから出てきた結論でもある。世の男性は、こんな僕にいろいろと批判をするかもしれない。しかし、これが僕らの幸せの形である。事実、妻と二人で幸せなときをこれまで8年間過ごしてきた。ところが最近、妻の様子がおかしい。

妻の仕事がある日、朝が弱い彼女を起こすことから僕の1日は始まる。朝食の支度を済ませ、妻の弁当を作り終えると、妻を起こす時間である6時半になるまで僕はコーヒーを飲みながら一息つく。時間が来ると寝室へと妻を起こしに行く。たいてい、2、3度声をかけた程度では起きないので、耳元で時計を鳴らしてみたりする。なんとか妻を起こしたあと、二人で朝食をとり、妻を送り出す。そこからは、洗濯や掃除をするのだけれども、丸一日それで時間を潰せるわけなく、僕は暇つぶしに菓子作りを始めてみた。5年も経った今ではかなりの腕前になったと自負している。少し遅いが、20時ごろになると夕食の準備を始める。妻が帰ってくると、たわいもない話をしながら夕食をとる。そして夕食の片付けをする。仕事で疲れた妻は、この間に入浴を済まし早々と寝てしまう。こんな生活を送ってきたのだけれど、(これで本当に幸せかと疑問に思われるかもしれないが、妻と一緒に朝夕と食事を取れているのだから、僕には十分である。僕の幸せは少し変だろうか。)最近少しずつ変わってきた。

まずは朝。起こされた妻は、起きたその瞬間から仕事のスイッチが入っているようで、強気な彼女の性格が一目で分かるようなキリッとした顔をする。しかし、最近、起きた直後は、正月休みにコタツで寝ていて起きたような、緊張感のない顔をしている。そのまま起き上がらずにまた寝入ってしまいそうである。次に妻を仕事へと送り出すとき。いつも僕が「いってらっしゃい」と声をかけても、その言葉に特に反応を示さない。背筋をピシッと伸ばして玄関に立つ彼女は、さながら硬い壁のようで、いつも僕の言葉は受け止められずにはね返って来ているようだった。しかし、ここ一週間くらいだろうか、いつもと変わらずピシッと背中を伸ばして玄関から出ていこうとする彼女だが、僕の「いってらっしゃい」をしっかりと受け止めてくれる。いつも聞こえてないくらいに思われていたが、最近は、振り返って小さな笑顔で答えてくれる。そして、すぐに歩いていってしまうのだが、僕には彼女が振り向いて笑顔を見せてくれている時間が長く感じられた。これだけじゃない。ここ数日は帰りも遅く、しかも「先にご飯食べておいて」と連絡してくるほどである。最初は遅くなると知っても、そんなに遅くなることはないだろう、と思って待っていたのだけれど、日付が変わる頃に帰ってくるので、昨日なんかは僕一人で夕食をとった。それに、いつもは、つかれた顔をしながらも、仕事むけのキリッとした顔ではなく、女性らしい顔で帰ってくるのだが、疲れに緊張感を上塗りしたような顔で帰ってきた。妻に何かあったのだろうか。思えばこの変化の兆しは、もう一月ほど前からあった。

いつも僕の趣味に無関心な妻が、突然興味を持ったのは、ひと月前の日曜日のことだった。その日、仕事が休みだった妻は昼前に寝室から出てきた。休日はいつもブランチを取るので、平日と変わらない時間に起きた僕は、暇を持て余して、クッキーを焼いていた。それを見た妻は、食べたいと言ってきたのだ。彼女から食べたいと言い出したことは初めてだったので、僕は驚いたのだけれども、少し嬉しくなって、焼き立てのクッキーをフレンチトーストとコーヒーと一緒に差し出した。僕が作った菓子を食べて、美味しいと言う妻の笑顔を初めて見た。これ以降、妻はことあるごとに「ありがとう」と僕に言うし、少し不慣れな笑顔も見せるようになった。

最初は、性格が少し丸くなったなと、だけ思っていた。その強気な性格ゆえに誰かと揉めたりしないかと心配していた僕は、この変化に内心喜んでもいた。だけれども、今思えばこのときからだったのかもしれない。妻の様子がおかしくなっていたのは。

元来のんびりした性格の僕は、変化に気付きながら、心配はしていなかったが、ここ数日、妻の帰りが遅かったりして、その様子からいよいよ心配になった。僕は妻を送り出した後、いつものように家事をしながら、妻に何があったのかと考えていた。仕事で何かあったのだろうか。妻のことだから職場の誰かと喧嘩でもしたのだろうか。あるいは、僕が何かしてしまったのだろうか。たわいもない会話のうちに彼女を傷つけるようなことを言ってしまったのだろうか。いろいろ考えてみたが、はっきりとわからなかった。そもそも、人の内面なんて分かるわけないやと諦めようとしたのだけれども、いや、妻のことなんだからなんとかわかりたいと思い直し、いろいろと考えてみた。今朝、玄関から出て行った妻の後ろ姿を思い出してみた。朝食のときの様子、寝起きの顔なども思い出してみた。けれども、わからない。少し疲れているのだろうか。なんて誰でも思うような答えしか出てこなかった

夜になると、ここ数日の通り「先に夕食をどうぞ。」と、妻から連絡があった。少しの不安と不満を感じながら、昨日と同じく、僕は一人でご飯を食べた。それだけでなく、妻の帰りを待つことなく寝てしまった。

後日、妻を送り出し、もやもやとした心持ちで家事を済ませると、僕は家を出て、駅前の喫茶店に向かった。妻のことで昔からの友人に相談しに来たのである。店に入るとゆったりとしたジャズの音楽と、友人が迎えてくれた。この喫茶店のマスターが僕の友人である。口の周りに蓄えたヒゲがよく似合っている。白のシャツに黒のエプロンを着たそのヒゲの友人は、カウンターの向こう側から、コーヒーを出してくれた。ありがとうと一言いって僕は、コーヒーを口にした。

なかなか言いたいことを口にできずに、これうまいね、などと言いながら、はぐらかしていると、ヒゲの友人の方から切り出してきた。だから僕は最近の妻の様子をヒゲの友人に話した。ダンディなのは口ヒゲだけでなく、僕の話を聞いているその様子もであり、安心して話ができた。しばらくして彼が言った言葉に、僕は大いに驚いた。彼は、妻に別の男性ができたと言うのだ。それを聞いたあと、彼といろいろと話したが、その話も、サービスと言って出してくれたシフォンケーキの味も覚えていない。僕はそれだけショックを受けた。けれど、昔から見た目だけでなく、行動も態度も僕よりいくつも大人びていて、ずっと彼に助けられてきたので、僕にとって彼の話はかなりの説得力があった。僕はもう何も考えることもできず、ただただ頭の中を真っ白にして家に帰った。家に帰ってきてようやく気持ちが少し落ち着いたのだが、それでも平常心ではいられない。夕食の支度の途中、妻から「遅くなります。さきに夕食どうぞ。」と言う連絡を受けて、夕食の準備も途中で切り上げて、僕は床についてしまった。

翌朝、さすがに一晩で気持ちも落ち着いた僕は、いつものように朝起きてコーヒーを飲んでいた。今日は日曜日。妻は仕事が休みで昼前に起きてくるはずだ。一晩の間で、僕は気を落ち着かせただけでなく、覚悟も決めていた。妻に本当のことを聞いてみようと。

妻が起きてきた。妻が食事を終えるのをテレビを見ながら僕は待った。食事が終わる。

「ねぇ。最近帰り遅いけど、なんかあった。」

妻が僕の方を見る。後ろで束ねている黒髪が揺れた。

「何もないよ。仕事が忙しくて」

どこかよそよそしい返事が帰ってきた。

「そっか。大変だね。」

これで終わらせてしまおうと思った。けれども、妻の本当の気持ちを知らなければと思い、

「本当に仕事が忙しいだけ?」

「うん。仕事が忙しいだけ。」

妻は僕から目をそらしながら答えた。そんなふうにされて、今の答えで納得がいくわけがなかった。

「でも最近変だよ、美咲。朝、仕事に行くときもさ。」

「・・・」

「僕に言いにくいことなら言わなくてもいいけど、話せることはできるだけ話してくれないかな。」

美咲は僕の方をチラッと見ただけで黙ってしまった。しばらく沈黙が続く。僕はこの沈黙に耐えられなくなった。

「ごめん。急に。」

すると、僕の言葉の最後のほうに被せるように美咲が話し出した。

「あのね、あの、あなたは、今の生活、幸せ?」

きたか、僕は思った。覚悟はしていたが、いざとなると怖くなってきた。僕は自分を落ち着かせるように答える。

「僕はとても幸せだよ」

「本当に?」

「本当だよ。」

「そう・・・」

またしばらくの沈黙が訪れた。

「美咲は?」

「・・・」

「私は・・・わからないの。幸せなはずだったのだけど。」

「どういうこと?」

「私が思う幸せが本当の幸せなのかわからないの。」

美咲は涙を流しながら言った。

「美咲・・・?」

滅多に見ることのない彼女の涙に僕は動揺した。

「やっぱり、女性が家庭に入って、男性が働いて、そんな家庭のほうが幸せなのかな。」

これを聞いた僕は、覚悟していたのとは違う方へと話が向かっていることに気付いた。

「美咲は今の暮らしが嫌なの?」

「そうじゃないの。けど・・・」

「うん。けど?」

「けど、結婚した周りの子たちを見てると、私が感じているのって幸せじゃないのかなって。」

「そんなことないよ。」

「本当に?専業主夫って嫌じゃないの?やっぱり私が家にいるべきじゃないの?」

「・・・」

僕は本当に今の暮らしに幸せを感じていたから、美咲がこんなことを言い出すなんて思いもしなかった。僕が感じていた幸せは、僕一人だけのもので、美咲にとっては苦しみになるようなものだったというのか。僕は自分が知らないうちに美咲を苦しめていたのだと思うと、怒りや悲しみ、その他様々な嫌な感情が混ざり合った塊のようなものが、僕の体の奥の奥にしずんでいくように感じた。そして、何も言葉にできなかった。

「ごめんなさい。急にこんなことを・・・。」

「ううん。」

首を横に振りながらこう答えるので精一杯だった。けれども、自分が持つ力をなんとかかき集め、

「さっき、本当の幸せがわからないって言ってたけど、美咲は今を幸せって感じていないの?」

「感じてた。でも、」

だんだん美咲の言葉に力がなくなっていく。

「確かに僕たちの幸せは、ちょっと変わっているかもしれない。けどね、周りが何に幸せを感じようと、僕らが幸せならそんなの関係ないんじゃないのかな」

頭に浮かんだことが、そのまま口に出た。その言葉には知らないうちに力がこもった。それには自分でも驚いた。

「・・・」

泣き顔の美咲がこちらを向いた。目にいっぱいに溜まった涙は、ついには溢れ出し、頬に一筋の川を作り流れた。唇の震えを抑えながら美咲は話出す。

「そう。そのはずなのに。不安に感じてしまったの。幸せじゃないかもって感じてしまったの。」

ぼくが先ほどいったようなことは、美咲はとっくに気付いていた。けれども不安だったのだろう。周りと違う幸せが。美咲の悩みを知ると、なんだか僕も不安になってきた。今までの幸せが、ぼんやりとしてきた。輪郭が二重、三重になり、さらには溶けて小さくなっていくように感じてきた。

「僕らは変わった方がいいのかな。」

けれどもこの答えにも自信が持てない。さっきまで考えてもいなかったことだから。

美咲は、僕の顔をじっと見つめている。僕の顔は彼女の目にどう映っているだろうか。弱々しく映ってはいないだろうか。

「あなたまで悩まないでよ。」

急に力を得た言葉だった。目線を上げて、大きな瞳でこちらを見た。

「でも。」

「いいの。ちょっと気分転換にお買い物に行ってくるわ。」

遮るように美咲がいった。その顔には、俄かに強気が戻り、その言葉はぬくもりに欠けていた。それでいて馴染みがあった。僕は美咲を見て、隙間から部屋に入り込んできた光を浴びた気分になった。うんっと背伸びをしたくなった。先ほどまでの悩みも忘れて。

その日、美咲は夜遅くに帰ってきた。その後は、特に口をきくことはなかった。

翌朝、いつものように僕は美咲を起こした。美咲もいつものように起きてきた。いつものように朝食をとり、いつものように玄関先まで彼女の後ろを歩いていく。

「いってらっしゃい」

ふと昨晩の悩みが頭によぎる。そして、僕は試しに美咲にキスをした。

「・・・」

何も言わずに美咲は僕をそっと優しく押しのけた。そして白い歯を見せる。

僕もそれに答えるように笑った。

「やっぱ僕らの幸せって変わってるね。」

「私も昨日あなたと話して思ったわ。変わってる。」

美咲の言い方が可笑しかったので、僕は美咲を見て笑った。美咲も白い歯が見える口もとを隠して笑った。美咲が戸を開けて出て行く。

「いってらっしゃい。」

僕は美咲の背中に声をかけた。その言葉は、いつものように彼女の背中にぶつかり跳ね返ってきた。しかし、今までとは異なり、その言葉には幸せと名付けたい艶やかな色と、ぬくもりが加わっていた。跳ね返ってきた言葉を僕はしっかり受け止めた。そして、クスッと笑って、彼女が出て行った扉を閉めた。


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