002
少女は目を覚ますと、ぎゅっと目を閉じて身体を強張らせた。
数分間、そのままの体勢で身体を固くして、目元に涙を溜めながら備えていたものの、あの苦痛が襲ってくる事はなかった。
「……? ぅう?」
ビクビクとしながら片目を薄っすらと開き、眼球の動きだけで周りの状況を視界に収めていくが、害のありそうなものもない。
それを確認した少女は安堵の息を漏らして、ゆっくりと倒れこんでいた床から起き上がる。
念の為にと身体の方へと目を向けるが、特に怪我らしいものも無かったので、溜めていた涙を両手で擦りつつ、外に視線を向けて今の時間を確認する。
想像を絶するほどの苦痛は少女の体感時間を引き延ばし、数年間ここに居続けたのではないかと錯覚していたが、しかし、実際に黒い脈打つ塊を食べてからは半日程度しか経過しておらず、今は夜明け前の時間帯であった。
経過時間について考えを修正した少女は、外へ向けていた目を男の死体へと移し、怒気を孕んだ視線で睨みつける。
「……うぅ゛ー! う゛ぅっ、うぅ!」
少女は黒い塊を渡した男に対して、自分の迂闊な行動は棚に上げ怒っていた。
目を向けた先の男が、安らかな表情のまま最期に見た時と同じ格好をしているのも、少女の辛酸とは無関係だと言われているかの様で、さらに少女の怒りへ拍車をかける。
何発か殴ってやろうと息巻き死体へ近づく少女だったが、ふと口元から何かが垂れている事に気付き、慌てて手で拭った。
拭った手を見ると、そこには透明な液体。
少女はそれが自分の唾液であると遅れて気づく。
そしてなぜ唾液が口元から溢れるほど出ているのか、少女は本能的にすぐに理解した。
美味しそう
男を見て感じたのは、食欲だった。
少女はこれまで常に飢餓感を感じてはいたが、それでも人を食べることまではしなかった。
元より食欲が湧かないので食料だと認識をしていなかったし、男の死体を見た当初のときもそんな認識は皆無であった。
仮に無理をして食べて、飢餓感を薄れさせる事が出来たとしても、その後に生存が危うくなるほどの不調になる事を、本能的に理解していたのであった。
空腹で倒れるよりかはと、最終手段として検討をしたことまではあったものの、進んで人を食べようとは考えていなかった。
実際、人型の死体を食べてしまった場合には、その死体に残留していた力が体内で同じ器官を持った捕食者の力に還元されようとするものの、食べられた当人と異なる力の性質から反発反応を起こし、異物として認識されてしまう。その結果、取り込まれた力が自然に身体から放出されるまで、一定の期間を高熱により身体を動かす事すら出来なくなってしまう。
逆に捕食者と同型でなかったり、力の性質が合致した場合には反発反応は起こらない。
前者では、還元される作用が起きないので、すぐに身体から力が放出される。逆に後者の場合では、力が捕食者と順応が出来る為に反発作用は起こらない。
もっとも後者については、同じ力の性質になりやすい双子などでなければ然う然う無い事であり、一般的に魔物や動物は食料として食べるものの、共食いを行う者はいなかった。
少女はその仕組みについては知らず、これは食べ物ではない。という認識だけであったが、今の自身の感情には戸惑っていた。
おかしい、これまでは食べ物ではなかったはず。しかし何故か今は凄く美味しそうだ。だけどなんで急に……と、突然変わった自分の意識に少し考える。
しかし、元々少女には倫理観などは無く、そして益を優先しなければの垂れ死んでいた経験から、そう深くは考える事は無く行動する。
少女は男の死体に近づき、残っている方の腕を両手で大事そうに持ち――
――齧り付いた
「っ!! はぐっ、んむ……っん」
噛み千切るとき何やら固い筋に邪魔され戸惑った少女だったが、手で死体を掴みながら頭を上げれば張っていた筋は千切れたので、口にできた肉を数回咀嚼して、一気に飲み込んだ。
一口食べ終わった少女は一瞬動きを止め、男へと再び視線を向ける。
先程までは死体として認識していたそれも、今はもう食べ物にしか見えなかった。
そこから先はもう、止まらなかった。
既に少女には躊躇など一切無く、また腕にかぶりつき、少し食べると次は首、顔、耳と食べ進め、頭部は髪の毛ごと口に入れ、無我夢中に飲み込む。
服を脱がせるのは面倒に感じた為か、肌が露出している腕や頭部へと集中して口にする。
口に入れた肉はかなり筋張っており、少女の顎の力では噛み切れなかったが、二、三回程度咀嚼を繰り返すと、そのまま飲み込んだ。
「はむっ! あむ、んむ、んくっ!」
口いっぱいに含まれる肉厚な歯ごたえや、咀嚼したあとの喉越しなど全てが快感を与える。
食べ進めるにつれて、特に首元など噛み千切った際に大量の返り血を浴び、少女の真っ白な頭髪も所々汚れ、纏っているボロボロな布も真っ赤に染まってゆくが、少女にとって汚れる事は特に意に返すほどのことではなく、美味しそうに食べ続ける。
次第に常に感じていた飢餓感が薄れていき、満腹感に変わった所で手を止めた。
最後に胸元の肉を噛み千切り、ゆっくり咀嚼した後ゴクンと飲み込むと、幸せそうな顔で一息ついた。
「はむ、んく……っはぁ! 美味しかったぁ」
恍惚とした表情でそう呟くが、すぐ我に返りはっとした表情で口元を押さえる。
「あ、れ? 言葉が分かる。それにこの感じは?」
少女は言葉を話せ、その意味が分かることに驚く。
さらには、知らない知識や経験、力が自分の中にある事がわかり、眉根を寄せた。
「……グレッグ?」
少女は半ば確信を持って、男の名前を呟く。
突然の事に戸惑った少女だったが、自身の記憶にある事へある程度の整理が追い付くと、事実を確認していくかの様に言葉を紡ぎだした。
「この男はグレッグ。冒険者をやっていて等級は二級、三十四歳。十八歳で結婚しており、十四歳の娘がいる。ここには調査の為に十人で来ていて、その中には妻子もいた。調査の途中に化物との戦闘となってグレッグは重症を負い、妻子を含めた仲間は全滅。その後は変な塊を手にしたけど、ここの住人に見つかって追っ掛け回され、逃げ込んだ先に私がいた」
少女はその記憶が男のものだったとすぐに理解する。
なぜなら記憶にある舞台が見慣れた場所であり、自分が知っている記憶とも重なっていて、さらに決定的なものとしては、登場人物に少女自身だと思われる少女を、客観的な視界に収めていたことから推測が出来た。
「けれど、何で……?」
少女は元々、人の記憶を盗み見る能力を持っているわけではなかった。
さらに言えばこの男とは初対面であり、先程までは名前すら知らなかった。
そんな相手のことに対し、名前はおろか何をしていたかまでを把握出来ている。
全てが異常にしか感じなかった。
「もしかしなくても、あの塊のせい……よね」
少女が思い当たる節など、黒い塊以外には無かった。
死体へ食欲が湧いたのもあの塊を吸収してすぐであった為、少女はすぐにそう結論を出す。
そうして疑問が解消された少女は、途中で止めていた記憶の整理を始めた。
「仲間は今回の仕事で急遽組んだみたいで、顔以外に詳しいことは分からないわね。しっかりと記憶が出来ているのは、冒険の相棒でもあり妻でもあるケリーと、娘のエリスね。それよりさらに前の記憶は……っと」
少女は言葉が話せることが嬉しいのか、思考を纏める補佐として、口に出しながら考えを纏める。
「だめ、ね。理由はわからないけど記憶を辿れないわ。遡れるのは大体一ヶ月位かしら。それとは別に常識みたいな、身体に染み付いたものなんかも思い出せるみたいね。……さて」
今の体調は、死体を食べて不調になるどころかとても快調である。
加えて生まれて初めての満腹感や、身体中から力が滾漲ってくる感覚もあり、先程まであったグレッグに対しての怒りは全く無く、むしろ逆に感謝をしていた。
常人であれば、自分の体験していない出来事が記憶にあるとまず混乱するものだ。
しかし少女の場合は、まず生きてきた年数を見た目から逆算すると、せいぜい十年も無く、その記憶の内容も常に飢餓でいたことが原因なのか、いつからいて何をしていたのかもはっきりとは思い出せなかった。
また、少し前に身体中を壊されるような痛みで精神を消耗しきっていた少女は、心身ともに弱りきった状態で記憶を受け入れた為、元のベースとなる人格の影を残しつつ混ざり合い、新たな人格として自身を確立していた。
確立したばかりの精神はまだ生まれたばかりで成熟していない子供ではあったが、言動はグレッグの記憶にあるケリーの話し方をそのまま借り、加えて思考能力も格段と上がったので、口調に幼さは無かった。
少女は次に、自分の身体から沸き出る力を確認してみようと、立ち上がる。
軽く跳ねたり走ったりしてみると、今まで体感したことの無いような速度で進む。
「身体が何だか軽いわね。ふふっ」
気を良くした少女は、では筋力はと考え、壁が崩れて出来た少女の半分はある大きな岩を見つけると、片手で少し力を入れた程度で持ち上げることが出来た。そのまま軽く投げてみて足で蹴る抜くと、岩だったものが蹴られた所から真っ二つになる。そのまま蹴りの勢いに合わせて身体を半回転させ、まだ浮いている崩れていない岩目掛け裏拳を振りぬいてみると、小さな拳に見合わない力で粉砕した。
エリスは手や足に多少の痛みは感じたものの、怪我一つない事を確認して頷いた。
「これは、何というか……凄いわね。冒険者って、皆こんな化物なのかしら」
想像以上の身体能力の向上を実感し終えると、改めてグレッグの方へ目を向けた。
「ふふっ、アナタのおかげで出来ることが増えたわ。ここで人に見つかっても、この力があれば多分死ぬことはなさそうよ。うふふふっ。あの塊を私に託してくれてありがとう。さっきは怒ってしまってごめんなさい。私にはあの化物を倒して塊を手にすることは出来なかっただろうし、本当にアナタには感謝をするわ」
そう言って少女は喰い散らかされたグレッグに近づく。
既に安らかだった表情は、所々噛み千切られた後によりほぼ原型がなくなっており、その他の部位を見ても痛ましく、まさしく食べ残しという表現が適切な状態だった。
そんなグレッグの頭を愛おしそうに抱きかかえ、物言わぬ死体へ話しかける。
「今ならアナタが話しかけてくれていた内容もわかるわ。惜しむべきは、アナタが生きている時に会話をしてみたかったものだけど、それはもう叶わないわね」
少女は悲しそうにそう伝えると、男の言葉を思い出す。
「……そういえばアナタ、最期に悔いが残るがって言っていたわね」
少女は数瞬だけ思案するように瞳を閉じたが、すぐに口を開く。
「いいわ。その想い残し、私が叶えてあげる」
少女は伝わらない相手へ言葉をかけると、ふと柔らかく暖かな記憶が頭を掠める。
それはグレッグの中にあった記憶であり、娘や妻に向けての想いだった。
少女は羨ましく感じた。
過去をあまり思い出せない為、少女にそういった感情を誰かに向けた記憶が無く、また向けられたことも覚えていない。羨ましく感じると同時に、そういった感情を欲しいと強く思ってしまった。
それは少女が考える事が出来るようになり、そして少女自身が孤独であることに気が付き、寂しさ、嫉妬を元に抱いてしまった感情であった。
少女は少し考えると、グレッグへと言葉をかける。
「えぇっとそうね。アナタの記憶の中で私を見ると、十歳と少しくらいって所かしら。本当の娘さんには少し申し訳ないのだけど、私がエリスになるわね」
グレッグの記憶を持っている少女は、娘に対して抱いていた感情や行動を思い返すことができ、記憶にある娘を少女自身と置き換えることにより、擬似的に心の渇きを満たす。
少女エリスは、偽りでも暖かな気持ちになれたことで満足すると、グレッグが抱いた想い残しを知る為、目を閉じて記憶を深くまで探っていった。