第五章 奇跡の裏の真実③
「心音がいる空間は、若くてまだ独身の南さんがいる所で、心音はその空間での南さんの脳に精神だけがあるっていうんです。その空間での心音ももちろんいて、精神と肉体の両方がもちろんあるんです」
「なるほど」
よくわかってもいないが、まったくわからないでもないとき、南はよくこの言葉を口にした。
妻からも、詩音からも、よく口癖だと指摘される。
「最初はわけがわからなかったです。目の前にいたのは、確かに本物の心音で。肉体もちゃんとあって。でも抱きしめた時、ぬくもりも感触も感じなくて。ちゃんと腕はその体を包んでいたはずなのに」
妄想や空想癖があるというわけでもなく、ただ見てきたこと、体験してきたことを思い出すように語る隼人の話を、一つも聞き漏らさないようにと、南は真剣な表情でじっと見ていた。
「心音が伝えたかったのは、自分の精神の消滅と引き換えにしてまで伝えたかったのは、新しい恋愛をしろということでした」
「精神の消滅と引き換え?」
南は、自分の理解の領域を超えていたので、とりあえず質問を入れた。
予想していたことと、大幅に違っていたので、少しあせっていた。
「ええ。他人の時間軸に入ると、その人物の中にある時間軸の核というのが、その侵入を察知して修正しようとするらしくて」
「でも」
隼人は、南が追加で質問しようとしている内容が予想でき、続けて話すという仕草を見せた。
「肉体と精神を持っている人物なら他人の時間軸に侵入して、追い出されても、元ある自分の肉体に戻るだけで、危険は全くないんです。でも、心音の場合、戻るべき体がなくて、追い出されると消滅するみたいで。俺も同じ質問を心音にしたんで」
「ほぉ」
見事に自分の質問内容の返答だったので、南は驚いたような表情になった。隼人の話し方はまるで物語を聞いているような気分になってくる。小説家ということもあるのだろうが、体験したであろう情景が少しずつ浮かんでくる。だが、その論理が矛盾しているということを隼人に言うかどうか一瞬迷ったがやめた。
なぜ、現れた心音は一つだけ「嘘」をついたのだろう。
自分の小説の解釈なら、追い出されるとまた別の時間軸に存在する肉体に戻るだけなのだ。
「心音の最後の言葉は、今までありがとうでした。つき合い始めた時、心音と二人で決めたことがあって、年とってもしどちらかが先に死ぬ時、その直前にだけその言葉を言おうって。それで、その言葉を言い終わると、姿が完全に消えてしまいました。余韻を残すことなく、そのまま真っ暗になって」
隼人は、自分が体験してきたことを、余すことなく伝えた。
遠くを見ていた視線の焦点も、話が終わるとともに、目の前の南の表情に定まった。
「その言葉を聞き終わって目覚めてから、本当の心音の最期を看取ったのだから、自分も後を追うって考えました」
南は隼人のその言葉と表情にどきりとした。
死ななかったのは、ひょっとすると奇跡ではないのだろうかとさえ思えてくる寂しそうな表情だった。
「でも、出来ませんでした。心音と約束したからかな。生きていくって。心音との約束だけは破ったことなくて。自分の人生の最期を約束を破って終わらせたくないって思ったのかも。それも心音との約束を。そうしたら、生きないといけないのかなって考え直して。なんかすいません。自分の勝手な話聞いてもらって。やっぱり俺、変ですよね」
隼人はそこまで言い終わると、冷めたエスプレッソを口にした。
ずいぶんと一人で話は続けたこともあって、
喉の乾きは最高潮にきていたので、一気に流し込んだ。
今日会ったばかりの人物に、どうしてそこまで話せたのかはわからなかったが、
同じ小説家ということで、話しやすかったのかもしれない。
たわごとだと笑い飛ばされるだろうか、今の自分にとってはその方がいいかもしれない。
それくらい心はおだやかだった。




