第一章 発端⑤
翌朝、隼人はいつもより早く目覚めた。
椅子に座り、ぼんやりとテレビを見るだけの余裕があった。
表現しようのないけだるさをはらおうと、ペットボトルのお茶を一気に飲みほした。
息をとめて飲んだせいで、鼓動が活発になった。けだるさも少しおさまった。
女性のニュースキャスターが、はるか遠くの国の大事を語る。
この知っているようで知らない仮想現実の世界に行けば、自分という存在を保ったまま、また心音にも会える気がした。
大学までは歩いてもせいぜい十分程度で着く。
自転車で通ったが、最近はよく歩いて通学する。
歩いていると、街の微妙な変化を感じることができる。
心の波長と合うのか、それを楽しんでいたが、今はどうも自分が変化の中心になっている気がしてならない。
新聞や雑誌でインタビュー記事を載せてもらっているせいか、
行きかう高校生や会社員が隼人に視線を寄せる。
「ほら見て、あれが片桐隼人だよ」「本当だ」
どこからか聞こえてくる言葉。
人に注目されるのは嫌いじゃない。だが、され方にはいささか疑問を持った。
できれば小説にだけ、注目して欲しいと隼人は思う。
大学と隼人のアパートのちょうど中間に位置する個人経営の商店で、軽めの昼食を買う。毎日の日課だ。
店主の森川虎二(65)と話すことは、隼人にとって楽しみの一つだ。
毎週水曜日は定休日。
だが、隼人のために大学に持っていく昼食を用意しておいてくれる仲だ。
やめた理由は聞かなかったが、虎二は店を持つ前は漁師をやっていたと聞いた。
冬でも薄いシャツ一枚で事足りるほど、しなやかな筋肉のついた、恰幅のいい体格。初めてなら、誰もが怖がって逃げると本人も豪語する強面顔。
飾らない性格で「かみさんに陸に釣り上げられた」と不器用に照れながら豪快に笑う優しい笑顔に慕う人も多い。
「漁はいいぞ隼人。海の前で自分のちっぽけさを思い知ると、大抵のことはささいなことだと思えてくる。今度連れてってやる。行こうな」が口癖。
「遺骨は海にまいてくれ」という虎二は、根っからの海の男だった。
隼人にとって初めて父親を感じた存在でもある。
店内に入ると、虎二は気づかずぼぉっとしていた。
間近に迫ると、さすがに人の気配を感じたのか、驚いて隼人の方を振り向いた。
「おう、隼人」
一週間ほど前、虎二は右目に流行り目を患った。
治療後から眼帯をつけている。
「おはようございます。タマゴサンドまだありますか?」
「あっ、ああっ・・・、今日は売り切れだ。いつもみたいに一個は置いておいていたが、すごく残念そうにする子がおってな、その子に売った」
虎二はバツの悪そうな顔をして言った。
「その人、すごい美人だったでしょ?」
隼人は少しからってみた。
今まで全部売れて、たとえ追加で注文されても、一つだけは隼人のために残しておいてくれた。
他人に売ってしまうことは過去に一度もなかった。
「美人?」
虎二は焦点の合わない目で隼人を見た。
「虎さん美人に弱いから」
自分の心を読まれたのではないとわかり、虎二は軽くため息をついた。
「ばか野郎、早く大学に行け」
そして虎二は愉快に笑った。
隼人は、代わりにカレーパンとホットドック、それと缶コーヒーを二本買った。
虎二は何かを伝えたそうに隼人を見た。
隼人はそれが少し気になった。
裏庭の掃除をしていた妻の梅子(62)が、その場に現れた。
「隼人さん、おはようございます」
梅子の声は明るかった。
そして落ち着いた話し方は、しとやかで品がある。
虎二と飲んだ時に、京都の有名な料亭の一人娘だと知って納得した。
家風がしみついているのだろう。
凛とした佇まいで、歩き方や仕草にも上品さが漂う。
それに加え、博識だ。
隼人は幼いころ少しだけ記憶の残る「母」の面影を見ていた。
なにより、心音が心の底から尊敬し憧れた女性だ。
二人の理想の夫婦像だった。
「おはようございます」
「今日も寒いですね。風邪には気をつけてください」
「はい。じゃあいってきます」
隼人は時計を見て、一本目のコーヒーのプルタブを抜いた。
もう一度二人を振り返る。
軽く礼をしてから、大学へと足を進めた。




