第三章 Time travel times⑦
「どういったご用件でしょうか?」
隼人の視線が声の方に定まった。なぜか聞き覚えのある声がしたので、応対してくれた女性の顔を見ようと視線をあげた瞬間、隼人はただ呆然とその場に立ち尽くした。
「・・・・・」
当然のことながら、声も出なかった。詩音の方も、憧れの人物の前で、緊張して声が上ずった。
それに、自分の緊張が伝わり、隼人が黙っていると感じた。
「あの」と問いかける詩音に対して、答えることができず、
隼人は、南詩音と書いてある名札を見てふと我に返った。だが、もう一度顔を見て、また動揺した。
同時に、悪い夢なら覚めて欲しいと思った。
「心音」
聞こえるか聞こえないかの小さな声で呟いたが、詩音にはしっかり聞こえていた。
ある一つの場所で何回も聞いた名前だった。
今度は詩音の方が黙ってしまった。
間がいいのか悪いのか、都合よく一人の中年の男性が入ってきた。立ち止まっている二人の間を通り抜けようとしたが、詩音を確認すると立ち止まった。
黙っている二人を見た後、男は視線を下げた。隼人が手に持っている財布をすぐさま見つけた。
「あっ、財布!」
男は、その財布が自分の物であることがすぐにわかった。隼人も男の言葉で、我に返った。
「えっ、・・・、ああ、バス停の近くに落ちていたので届けに」
男の胸元の名札には高田信一と書かれてあった。隼人は、名刺の名前と一致していることを確認した。
「本当に!ありがとう」
隼人から財布を受け取ると、高田はすぐに中身を確認した。大量に入れていた札束を確認し、安堵のため息をついた。
会社と自宅の家賃や光熱費を納めにいこうと、いつもの何十倍もの額を財布に入れていた。
「よかったですね。社長」周りの人たちが呆れ笑いを浮かべた。
隼人は、そそっかしそうな高田が社長と知ってほんの少しだけ驚いた。
社員たちが高田に向ける柔らかな表情だけを見ると、どれだけ慕われている社長か、隼人には理解できた。
「ありがとうございます。いや、助かりました。ついさっき警察に届出に行ってきたところでして」
高田がそう言うと、一人の女子社員が近づいてきた。
目の前の心音にそっくりな社員をはじめ、残りの三人の女子社員を見て、美人な女性ばかりがいると、隼人は思った。男性社員は営業にでも行っているのか、何席か空いていて、残っているのは、わずかだった。
「あのう、小説家の片桐隼人さんですよね」
女子社員は、雑誌を手に持っていた。写真と目の前の人物が一致していることに、感動を隠し切れないという表情をしていた。
「あっ、・・・、はい」
「小説読みました。すごくよかったです。恋愛小説ってもっとべたべたしたものだと思ってましたけど、ほんわかしていて、心地よくてすごく好きです」
「ありがとうございます」
小説を書くものにとって、読んだといってくれることはかけがえのないものだと、隼人は改めて思った。だが、これまでの人生で褒められたことのない隼人は、いつまでたってもこういう状況になると照くさかった。
他の社員も、それにつられて、隼人の周りに集まってきた。
隼人はなぜかさきほどから、詩音の方ばかりに視線をとられてしまう。
詩音も自分の方を距離を置いてぼおっと眺めていた。
「へぇ、有名な方なんですね」
理科系の大学を出て、ノンフィクションや専門書を好んで読み、小説はほとんど読まない高田は、驚いたように呟いた。
「いや、そんなことないです」
隼人は、謙虚にではなく、ただ思ったままを述べた。
「どうですかお茶でも、お礼もしたいので」
高田は隼人に、奥のソファを勧めた。
「いえ、自分はこれで。これから大学の講義がありますので」
隼人の言葉に、社員たちは残念がった。聞きたいことが山ほどあるという表情だった。
他の誰よりも、詩音は寂しそうな表情をした。
隼人はその表情に、心音が最後に見せた悲しい表情を重ねていた。
「そうですか、またいつでも立ち寄ってください。茶菓子ならたくさん用意しておりますので。小説の話でもゆっくりと聞かせてください。私も読ませてもらいますよ」高田はさわやかに笑った。
「ありがとうございます。それでは」
夢なのか現実なのかわからないまま、後ずさるのが精一杯だった。




