第二章 思いの行方④
その後一週間ほど、何も起こらない日々が続いた。
瞳が持っていた小説の文字が消えたところはそのままになっていた。
自然に戻るものではないらしい。
隼人は最近瞳とよくその話をするようになっていた。
だが、結局何もわからないし変わらない。
専門書を開いてみようかと思ったが、何を開いていいのかさえわからない。
フロイト、ユング、シレジウス、カント、有名な心理学者や哲学者はでてきた。
しかし、そもそも何の学問にヒントがあるかさえわからない。シェークスピアまで出てくる始末だ。
「もう気にせずにいこうよ」
落ち込んだ表情と申し訳なさがいりまじった視線をおくる瞳に、隼人は優しく声をかけた。
そういいながらも、一番気にしているのは自分の方かもしれないと瞳は思った。
「ごめんね。もう心音はいないのに。私が変なことばっかり」
「いや、うれしかったよ。心音もうれしいと思う。そこまで考えて、思ってくれる子がおって」
瞳と半同棲に近い形でお互いの家を行き来している藤野巧は、二人の成り行きを黙って聞いていた。正直なところ、会話に参加するべきか迷った。
しかし、誰かが客観的に、そして冷静に物事を見なければならない。
心音以外のことなら、隼人に対しては無用だと思っていた。
巧にとって、隼人のことは、瞳と心音のような関係でお互いの性分はよく心得ていた。心音のこととなると何よりも熱くなり、そして依存していく。
そんな時こそ自分が止めてやらなければといつも思いはしたが、隼人ほど言葉に長けていない自分は結局言葉少な目になる。それに今回は少し勝手も違うようで、
重荷を背負う瞳のことも気になっていた。
師走になり、世間があわただしくなった頃、大学の講義に出てくる人間がこころなしか少なくなったなと隼人は感じた。
「おう、片桐」
一番後ろの席に座っているのに、背中を軽く叩かれた。
声をかけられて隼人は少しびっくりし、振り返ってみると直樹だった。
「吉澤。久しぶり」
アルバイト以来、ほとんど会うことはなかった。直樹が大学にほとんど来ないこともあるのだろう。
「何かあったら連絡ほしいっていってたけど、あれから何かあった?」
直樹には結局何も話さなかった。
いや、話さなかったのではなく、話せなかった。
「やっぱり小説のフレーズがなかった」
「その部分全部?」
「そう」
直樹は、隣にいるのが瞳だとすぐにわかった。
「どうも」とお互い軽く会釈した。
巧とは隼人と同じくらいの仲なので、相槌で挨拶しあった。
「へぇ、今度俺にも見せて欲しいな。なんかからくりがあるんじゃないの」
瞳は隼人に目配せをし、隼人が頷くのを確認してかばんをとった。
いつでも手にとれるところに入れてあった一冊の小説をとりだした。
「今持ってるよ。はい」
瞳は渡しながら言った。すぐわかるように、しおりを挟んでいた。
「・・・、・・・、ここに本当に文字が書いてあったのか」
直樹は少し驚いた様子だったが、冷静に尋ねた。
気のせいか、巧はその驚きに少しのわざとらしさを感じた。
今は冷静に人を見るというよりは、疑い深く人を見ているからだろうと思ったが、何か妙だった。
「そう」
隼人は構わず話す。いつもの隼人なら同じように感じていたのではないかと、巧は考えた。
しかし、今の隼人にそれを求めるのは無理だ。
「すごいな!」
「うん」
直樹の訴えかけるような視線に、瞳は一瞬どきっとしたが、自信を持って頷いた。
「あっ、一回この小説読ましてくれないかな?興味がわいてきて」
瞳は迷った。この小説はできれば自分が持っていたい。
「ああ、俺の小説は消えてないから、こっちを貸すよ」
隼人は、かばんから取り出した小説を直樹に渡した。
「ありがとう。これぐらいなら一週間もあれば返せると思う」
右手の親指と人差し指で本をはさみながら厚さをはかっていた。
「返してくれさえすればいつでもいいよ」
隼人はそうつけ加えた。
「サンキュー」
そう言った後、直樹は少し瞳と巧を見てから、そのまま講義室を出て行った。
「あいつも物好きだな。普通ならそんな小説好んで借りるか」
巧はぼそっと呟いた。
「興味からじゃないかな。大学生はくさるほどの時間があるし」
隼人がかばうように言った。
「私もきっとあんな感じだったよ。心音に聞いてから、必死に本屋を探しまわったもん。この人そんなにたくさん書いてないみたいで、知っている人もいなかった。出版社に電話してやっと買えたぐらいだし。今はもうその出版社が潰れてるぐらいだしね」
瞳はその時を懐かしむように本をさすったりして眺めていた。
巧はぼぉっとした表情で遠くを見ながら考えごとをしていた。
「まぁ、もう考えんとこう」
そう言う隼人の目には、何かを期待するような輝きが戻っていた。巧はそれが気がかりだった。
「なあ隼人、あんまり深く考えるなよ。何も起きないことが当然なんだから」
巧は言い放った。
「わかってるよ」と隼人は答えた。




