中編
おれが元々の名ではなく、ボスと呼ばれ始めて5年がたつ。特に何の能力もない――武道に優れているわけでも、特別頭が切れるわけでもない――小娘が、大陸一と称される貿易商、に見せかけた諜報ギルドのボスの座に座っているのは、偏に前ボスの唯一の血縁関係にある孫だったから。といっても前ボスと共に暮らしたのは2年弱。くっそまずいメシしか出さない、躾に暴力は当たり前、そんな下町の汚い孤児院にいたおれは9歳の時、自分の死期を悟ったじいさんに引き取られた。
カタギのオトコと駆け落ちした娘の忘れ形見であるらしいおれは、読み書きだけでなく教養、マナー、果ては護身の為のナイフの使い方まで、ありとあらゆることを学ばされた。無理矢理に詰め込まれる知識に嫌気がさして、逃亡を図ったことも一度や二度ではない。そのたびに、飄々としたイラつく顔でくそじじいはおれを叩きのめした。ああ、思い出しても腹が立つ!ズタボロになったおれを見下ろすにやけ顔、禿げ頭がぴかぴかと光っていて、忘れたくても忘れられない。10にも満たない子供を滅多打ちにした挙句、ぐるぐる簀巻きにして木の枝に吊り下げ、その下で焼きたての肉串を頬張り見せびらかすようなタチの悪いじいさんだった。読み書きを学べたのは本当に有難かったが、じいさんの仕事にはこれっぽっちも興味は無かったし、後継ぎとして育てられているということもあまりよく分かっていなかった。
おれは何度も逃亡を繰り返し、その度にぶらぶら吊り下げられた。
そうそう、当時おれと共に学び、護身術の相手になってくれていたのがヨルである。ヨルもまた見込みがあるとおれより前にじいさんに拾われたらしかった。ヨルはめったに表情を動かすことはなかったが、話し相手にはなってくれた。吊り下げられたおれを最後に助け出し、手当をしてくれたのも、ヨルだった。毎度毎度よくやる、と呆れられていたが、よしよしと頭を撫でてくれたのが嬉しかった。ヨルは初めての友達だった。それが恋に変わるとは当時のおれに教えたらびっくりするだろうな。
あの短い間に、おれはじいさんに少しでも肉親の情を抱かれていたのだろうか。分からない。しかしじいさんは、おれに病の事は一言も告げずに、ある日突然ポックリ逝った。眠っているみたいな、安らかな表情だった。じいさんが死んだその日、おれは状況をあまりよく理解していないまま、天下の諜報ギルド“黒耳”のボスの座に押し上げられたのだった。
ラギに出会ったのはじいさんの葬式の日である。じいさんの側近だった白髭おさげのじいさんに、じいさんの秘蔵っ子だと紹介されたそいつを見て、最初は怖くて思わず後ずさってしまった。無表情だったし、この国ではあまり見ない肌の色だし、なにより今まで見た誰よりも背が高かったからだ。そいつは無遠慮におれを上から下までじろじろ見下ろして、ハンッと鼻で笑いやがった。
「コんナクソガキの下で働ケなンて、マジ冗談キツイッスヨー」
なんて失礼な奴だと、会って1分もたたないうちに嫌いになった。
怖さよりもムカつきが勝ち、馬鹿でかかったラギを無言で睨みあげるおれに、ラギはまたムカつく仕草付きで鼻で笑い、たっぷり2分ほど見下ろしていたが、ついにはおれの前に膝をついた。
「まァ、前ボスには借りがアリマスし、しょーがないですネ。右腕ニナッテヤラナイコトモナイデスヨ。アァ俺ってホントカワイソウ」
とかなんとか言いながら強引におれの手を取って、甲に口づけた。その瞬間は、勝った!とニヤニヤしてしまったが、それからなぜかその口づけは手の指一本一本に落とされ始め、しかもひとつひとつが粘着質で長くて、手を抜こうにも力が強くて抜き取れず、両腕全体に鳥肌が立ち若干涙目になってきたところで、普段は温和な笑顔しか見せない白髭おさげじいさんが怖い笑顔でラギの後頭部を杖でぶん殴ったことで、やっと手が解放された。
忘れられない、おれの手を強く握ったまま、おれを見上げるラギの表情は何の色もなく、ただ血の色のような紅の両目だけがギラギラしていて、何かを雄弁に語っていた。
その時はその何かがいったい何なのか見当もつかなかったのだが。後に、ラギはおれが発見されるまでボス候補の筆頭だったということを知った。
あのギラギラした目、あの目に映っていたのは、おれに対する妬みや恨みだったのではないだろうか。だっておれがいなければ、ボスの座はラギのものだったのだから。
ラギはとても優秀だ。おれと違って実戦経験があり、これまでの任務もすべて完璧にこなしてきたと聞く。なんか威圧感あるし怖いし性格に難アリ、だが、皆に慕われている、と思う。
それに比べておれはちびだしガキだし、物覚えは悪いし、仕事は遅いし、何やってもラギには及ばない。つーかラギがいなければ、おれはなにもできない。直近の部下には慕われている、というか可愛がられているとは思うが、あまり交流のない部下からはイロイロ陰で言われていることも、知ってる。果たして前ボスの本当の孫かどうかも怪しい、とか。それはおれも知りたい。おれとじいさん、似ているトコなんてひとつもなかったから。(まぁあのじいさんに似てると言われてもあんまり嬉しくないけどさ!)
じいさんが死んだとき、おれは、ギルドのボスの証だという古びた兎のぬいぐるみと杖を、あなたがボスだ、と白髭おさげのじいさんに恭しく渡され、じいさんが生前座っていたという椅子に座らされた。おれはその時、これから先どうなるのかさっぱり分からなかったし、何をすればいいのかも分からなかった。ただ、じいさんが人生をかけて、作り育ててきたという“黒耳”を、おれに守り継げとじいさんが望むのなら、それを果たしてやろうとは思った。じいさんがおれに肉親の情を感じていたのかどうかは知らないが、少なくともおれは、あのクソみたいな孤児院から厳しい勉強付きとはいえ、寒い冬でも凍え死ぬことはないだろう暖かな寝床まで連れてきてくれたじいさんが、嫌いではなかった。好きでもなかったけど、ムカつくけど!どうせあの孤児院にいたままだったら、死んでいるか、どっかに売られてめちゃくちゃにされていた人生だ。
痩せっぽっちで口の悪い、自分の運命ばかりを呪っていたチビな女の子は、もういない。何にもできない女の子扱いが嫌で、男っぽい服装と汚い言葉づかいで周囲を欺き自分を守るばかりの、まだまだ弱いチビのままだけれど、“黒耳”に人生を懸けてやろうという、覚悟もそれなりに出来てきた。
だがおれなんかよりも、ラギの方がずっとボスにふさわしいのではないかという思いは、就任当時からずっと心の奥にあったことだった。ラギの有能さを見せつけられるたびに、おれの中で、その問いがぐるぐると繰り返される。
もう何度、明日こそラギに引き継ごう!と思ったことか。あたしは弱虫なのだ。ラギに何もかもぜんぶ任せてしまおう、そうしよう、とすぐに逃げたがる。人の前に立つことも嫌いだ。大きなラギの背中の後ろに隠れてしまいたいといつも思っている。きっとラギに任せた方がすべてうまくいく。
でも。でもやっぱり、あたしは……
ラギはおれを見つめたまま何も言わない。首にあてがわれた指をぎゅっと強く握った。
「おれは、まだ、ボスの座から降りる気はないからな」
まだ5年か、もう5年か、なんとかやってきたんだ。そう易々と温めてきた椅子を奪われてたまるか!
そう言い放って、強張る頬をなんとか動かして、笑みの形にして見せる。
「おまえが、ずっとボスの座を狙っていたことは知ってる。つか、殺意ダダ漏れなんだよ。ずっとおれを殺す機会を伺っていたんだろ?」
ラギはおれの右腕だと豪語しおれの傍から離れようとしなかった。いちいち腹の立つ物言いだが、分からないことはきちんと教えてくれたし、交渉事で内心ビビッている時はさりげなく助けてくれて、失敗して落ち込んだ時も慰めはしないが、コンナコトモデキナインデスカ?ハハッ笑ッチャイマスネとかなんとかラギに言われると悔しすぎて力が湧いてきた。
最初の第一印象が最悪だったとはいえ、5年も一緒にいれば情も湧く。ただ、時折、じっと見つめられていることがあるのだ。例えば仕事が一段落した休憩中、おれが耐え切れずうとうとしている時。飯の時間に他の部下たちと交流を図っている時。おれが気を抜いている時に限って、ラギはじっとおれを見ている。あのギラギラした目で。ずっと気が付かないフリをしてきた。いつかラギもおれに情が湧いて、おれのことを少しでも認めてくれればいいと思っていたが……
“黒耳”のボスは世襲制だ。前ボスが指名した人物が辞めたいという意思表示をしない限り、死ぬまで、ボスだ。おれが死ねば、ラギは晴れてボスになれるだろう。なぜならラギは有能な「ボスの右腕」。おれは肯定してこなかったが、否定もしなかったし、事実ラギに頼ってきたのだ。ラギ同様実力者であったヨルもいなくなった。ラギにとっては好都合だろう。次代のボスの座を脅かす要素もなくなったのだから。
だが、簡単に明け渡すと思ったら大間違いだ。
「おまえの方がボスに向いてると思う。分かってる。おれはおまえがいないと何もできないけど、おまえはおまえひとりで何でもできるもんな。」
ラギはおれを見たまま何も言わない。いつもの無表情かと思いきや、薄く笑みを浮かべている?何を言い出すか分からないがとりあえず高みの見物といこうか、といったところだろうか。ムカつく。しかし緊張で心臓が痛い。どくどくどくどくとうるさい。
ラギは今おれの命を握っているのだ。ラギが少し指に力を籠めるだけで、おれは死ぬ。まだ大事にしたい命を守るため、おれはただでさえ回転の遅い脳を必死に動かして言葉を選びながらゆっくり言う。
「ここまで来れたのはおまえのおかげだ。すっごく感謝している。でも、おれはまだ、おまえが教えてきてくれたことをひとつも完璧にこなせてないし、おまえのおかげで、これから“黒耳”でやりたいことも出来てきた。おまえのおかげだ。」
だんだん何を言うべきか分からなくなってきて、泣きたくなってきたが、視線を逸らしたらその瞬間殺られそうで、必死に睨みつける。
「つまり、おれが言いたいのは……これからもよろしくってことだ!おまえはおれが嫌でたまらないだろうが、おれにはおまえしかいない!おれにはおまえが必要、だ!!」
この時、おれは泣き疲れで、どうにかしていたんだと思う。いや、本心なんだけど、紛れもない本心なんだけど!普段のおれなら絶対に言わないようなことを口走ったから後から思い出して死ぬほど恥ずかしかったし、後悔した。確かに、なんか、求婚しているみたいだし!後々まで引きずる黒歴史になるとは知らず、おれはこの時は言い切ってやったぞ!!という気持ちでいっぱいだった。さぁもうどうにでもなれ!ラギの指をぎゅっと握ったまま、襲われたら全力で抵抗してやる、と悟られないよう息を整えていた。
ラギはしばらく無表情であった。
少し指先に力が入った気がした。
ラギの顔が少し近づく。
殺られる。息が詰まる。