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序章 過ぎ去った記憶の中



 昨日とは一転、空は厚い雲に覆われていた。

 ゆっくりと流れ行く雲は、徐々に徐々にと形を変えて離れてはくっついてを繰り返している。

 窓越しに見える緑の絨毯じゅうたんは、いつもよりも淀んだ色合い。

 風が駆け抜けるたびに、さわさわとその強く儚い葉を揺らしていった。

 小さい掌が木枠の窓を押し開ける。

 微かな風が手を振りながら入ってきて、部屋の中で華麗に舞い踊る。

 冷たくて湿っぽい空気が、上気した頬を撫でた。

 空気と一緒に遠くから漂ってきた不快なにおいは、きっと雨が降り始めてきたから。

 ここももうすぐ、泣き空になるのだろう。

 遠くをぼんやりと眺め見ながら、ぼうっとした頭がそう呟いた。

 きっと、そうだ。



 暗いままの昼下がり。

 雨が降りそうだと、慌てて洗濯物を取り込む母を小さなリビングから私は見ていた。

 隣にある暖炉の中では、パチパチと音をたてながら放り込んだ薪が燃えている。

 火の粉が音と共に元気よく飛び跳ねて、宙へと消えていった。

 赤く揺らめく炎は、部屋にできた影法師かげぼうしを時折揺らしている。

 それは穏やかな時間。

 扉の開く、軋んだ音。

 石鹸のほのかな匂いを連れて、空気が動いた。

 それは、洗濯物を入れ終えた母が、私の元へとやってきたから。

 母は優しい顔で私を見る。

 それだけでも私には嬉しかった。

 洗濯物を置いた母は、小さな木製の椅子に座る。

 テーブルを挟んで、私と母は他愛のない話を始めた。

 本当にくだらないことで笑った。

 私たちの間に置かれた白いティーカップを、私の小さい掌が包み込む。

 注がれているアップルティーは白い湯気を上げていて、それで喉を潤す。

 口の中が喉の奥が、少し熱くなった。

 カタンと小さな音を立てて、私はティーカップをテーブルの上に置いた。

 小さな吐息をはいて、私は笑った。

 ――ちょうどその時だった。

 コンコンと軽い音が耳につく。

 玄関の扉が二度ほど、叩かれたのだ。

 やっと来てくれた母は、もう一度私の元を離れ、玄関へと歩み寄る。

 私は暇を持て余して、落ち着きなく足をぷらぷらとふらつかせた。

 母が扉を開けると、湿った空気が知らない匂いをつれて入ってくる。

 無邪気に輝かせた瞳を玄関の方に向けると、そこには見知らぬ男女の二人組みがいた。

 オリーブグリーンを主としたその服装から、軍の人だということだけは理解する。

 理解しただけで私は何をするわけでもなかった。

 ただただ、三人のやり取りを見ていた。

 勿論その中で行きかう言葉のほとんどは、私には聞き慣れないもの。

 中でも私には聞き覚えのない言葉は、どこか胸に引っかかった。


『アランフェスティーナ』


 未知なる響きは、どこか別の国の言葉のようで。

 だけど言葉を聞く度に母の表情は険しくなり、ついには泣き出してしまいそうなほど。

 それは発してはならない言葉なのだろう。

 幼いながらもそう私はそう解釈した。

 母から私は眼を離し、その視線を二人組みへと向ける。

 小太りの男は深刻な面持ちで、それ相応の話をしている。

 だが時折見せる意味深な微笑みに、私は疑いを隠せなかった。

 泣いている母には、男の見せる表情など映りもしない。

 それを知っているんだろう。

 母はただの声真似の演技をする男に、さらに追い討ちをかけられていた。

 あの男は、まるで人の心を崩すことを楽しんでいるよだった。

 すなわち、破壊。


 泣き崩れる母がいた。

 意味深な笑みを浮かべる男がいた。

 しきりに話しかけてくる若い女がいた。

 何もできない私が、そこにはいた――。


 さよならの挨拶もなかった。

 親子はあっという間に引き裂かれた。

 定規で線を引くように、容易く。

 私はずっと、母の姿を見ていた。

 しかし遠ざかっていく我が家も、すぐにくすんだ緑の丘の向こうへと消えてしまう。

 風はまた、私の頬を撫でていった。


 私は、訳も解らぬまま牢屋に入れられた。

 そこは狭くて、

 暗くて、

 じめじめしていて、

 そのくせ埃っぽい部屋。

 入った瞬間に、相当の期間使われていないことが解った。


 牢にはボロく、寝ているだけで身体中が痛くなりそうなベッドが一つ。

 そして、

 鉄格子の小さな窓が、一つついていた。



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