キミへの恋の伝え方
一体何が起こったのか。
ほんの数秒前の一瞬に頭を疑った。目も触覚も疑った。何もかも疑った。
それでも現実は変わらない。過ぎてしまったことは変えられない。
わかっていてもどうにか変えることができないか考えてしまった。
私は混乱している。ここまで考えてやっと辿り着いた答えにほっとする。
混乱しているから変なことを想像してしまったんだ。会わないように気をつけろと言われていた人に会ってしまったから混乱しているんだ。
「おい。寝たのか?」
「寝ていません。って何してくれるんですか!」
やっぱり現実は現実だった。
不気味な感触が残る唇を擦りながら思う。
すぐ目の前には気が触れてしまったのか真っ赤な髪をした男がいる。異常に近い距離を否定することはできなかった。
迂闊だった。委員会で帰るのが遅くなり、面倒臭くなって裏門から出ようとするからこんなことになる。
自業自得だと皆が笑うだろう。薄暗い校舎裏を大して注意もせず歩き、赤の男を踏んでキレられ、終いに何故かキスされて。
某芸人事務所に入れちゃうんじゃないかと思うくらい笑える。
そんな現実逃避をしていることに気づいたらしい。赤の男はもう一度顔を近づけてきた。
さすがに放心中の私でも同じ手に乗る訳もなく、慌てて彼から離れた。
「ちっ」
「舌打ちするんですか、そこで!」
思わず突っ込みを入れれば、その鋭い目で睨まれる。
心の中に留めていればよかったと思うも後の祭りだ。
何を思ったのかますます迫ってきた赤の男から逃れるように後退りする。
とん、と固い物が背中に当たる。恐る恐る彼から視線を外すと、背後に灰色の壁があった。
絶体絶命。何がどうなるのか想像もつかないが、たぶんヤバイ状況。
「治療費払いますから!」
「んなもんはいらねぇ。お前でいい」
よくない。
これでも私は清い乙女だ。易々と差し出す訳にはいかない。せめて初めては好きな人と……と夢見ている。ファーストキスは赤の男に奪われたから諦めるけれど。
だからと言ってこれ以上奪われるようなことは許せない。許さない。
「あ、ツチノコ」
「あぁ?」
「ご、ごめんなさい……」
何故だろう。
私は再び思い返す。確かに思い切り彼のお腹を踏んだ私も悪い。だが、そんなところに寝ていた彼も悪いのではないだろうか。
私だけ責められる理由はない……と信じたい。
「俺を騙そうとするとは、いい度胸してるじゃねぇか」
ぎゃーっと色気の全くない叫びを心の中で上げる。
そうしたところで迫り来る赤の男をどうにかすることはできない。こうなっては逃げることもできないし、大人しく受け止めるしかない。
目を強く瞑ってこれから起こることに心を決めた。
「……お前、名前は?」
「ななな永瀬です」
「名前」
「里都と申しますっ」
ふぅんという声と共に気配が離れた。
てっきりキスされると思っていたので拍子抜けする。
そっと目を開けると彼は思わずムッとなりそうな笑みを浮かべていた。
「キス、してほしかったか?」
「遠慮します」
「永瀬里都ね。覚えた」
覚えてくれなくてもいいのに。
そう思ったのが表情に出ていたらしい。再び迫り来る顔に今度は声に出して叫んでしまった。
「……井沢薫だ」
思い切り呆れた顔をした赤の男……井沢薫はそう名乗った。
井沢薫。何度も何度も聞いたその名前を忘れるはずがない。忘れてはいけない名前を知らないはずがない。
それは高校生活を左右する名前。少なくとも平和に過ごしたいと思っている人には何よりも先に覚えるべきものとなっている。私もその中の一人だった。
「覚えたか?」
「はい、それはもうバッチリです!」
「ならいい。もう暗くなるから帰れ」
「帰りますっ……て、えぇ?」
帰っていいの?
帰れるなら今すぐ全速力で帰る。でもその言葉が空耳に思えて仕方ない。
帰っていいのだろうか。本当に帰ってもいいのだろうか。
「なんだよ」
「帰ってもいいんですか?」
「いいっつってんだろ。さっさと帰れ」
嘘じゃないらしい。幻聴でもないらしい。
顎で裏門の方を指す薫は何の咎めもなく帰してくれる。
奇跡だと思った。きっと同じことをして何もなく帰してくれることはないに等しい。
今日は機嫌がいいらしい。運がよかったとほっとした。
「さ、さようなら」
震える声で挨拶して私は無事に学校を出た。
返事がなかったけれどこの際構わない。とにかく何事もなく帰れたことが嬉しかった。
*
翌日、昨日のことが噂になっていないかビクビクしながら学校に向かったが、何も新しい噂は流れていなかった。
いつも通りの教室に安堵の息を零す。いつもの場所に友人の姿を見つけ、私は自分の席に鞄を置いてからそこに向かった。
「おはよ」
「あ、里都。おっはよ」
由紀は高校に入ってからの親友。いつも一緒にいる。でもお互いに何処でも一緒なのは嫌で、そこら辺りのことはきちんとしている。
まぁはっきり言えば、一人で何も出来ない状態がないということ。一緒にトイレに行くなんてことは以ての外だ。
「聞いた?」
「何をー?」
「今日は珍しく朝からいるらしいよ、井沢薫」
危うく椅子に座るのに失敗しかけた。由紀が怪訝そうに見てきたので苦笑いで対応する。
焦った。もの凄く嫌な予感がして動揺した。
昨日のことは誰にも話すつもりはなかった。
あんな笑い話を自分から出来るような人間じゃない。もちろん由紀にも言っていない。
だからこそ彼女の目には不審に思えたのだろう。
「何かあったの? 里都」
「何もないよ。……井沢薫が来てるからか。なんかそわそわしてると思った」
苦し紛れで話を逸らしてみる。
追求されたら終わりだ。話すまで由紀は離してくれない。
だが、彼女はあっさりと振った話に乗ってくれた。確かにと頷く由紀の視線はクラスの女子に向けられる。
井沢薫。赤髪がトレードマークの男。すらっとした長身にすっと切れた目、少し高い鼻に薄い唇。
あんまり覚えていないが、とにかく女子が放って置かない容姿であることは確かだ。
この学校に平和に高校生活を過ごしたいと思う人は少ない。大抵クラスに一人はいる地味子ちゃんか勉強のために学校に来ている人くらい。男子も女子も極少数しか当てはまらない。もちろん私と由紀はこの少数派だ。
その他大多数はどうかというと、ちょっとしたスリルを求めている人が多い。
そのスリルを簡単に味わうのに最適なのが井沢薫だった。容姿端麗で成績優秀、喧嘩も強い。女子はどうやって彼に抱かれるか、彼の女の座につくかで争う。男子はどうやって彼に勝つか、彼の恩恵に授かるかで争う。
そうやってスリルを得るのがここの普通だった。
だから、井沢薫が学校に来たことがわかると皆そわそわし始める。
この状況を見て平和に過ごしたい組は彼に関わらないように警戒を強める。
そんな毎日だった。
今日も同じはずだった。
*
昼休み、教室のあちこちで上がる井沢薫の噂を耳にしながら購買のサンドウィッチを齧っていた。今日はまだ誰も色仕掛けをしていないらしい。喧嘩も吹っかけていないらしい。
ただ女子のファンクラブの方で誰が告白するかのくじ引きが行われたらしい。運がいいのか悪いのかそれに逃れたクラスの女子たちは憂鬱なため息を落としていた。
「バカだね。あんなヤツに告白しなくても死にやしないのに」
由紀は鼻で笑いながらメロンパンに齧りついていた。傍らに置かれた紙パックのいちごミルクを時々飲んでいる。
メロンといちご。その組み合わせがどうという訳じゃないが、私はあんまりしない組み合わせだ。因みに私のお供は糖分たっぷりのカフェオレだった。
まだ大きなため息を零す女子たちを横目に、由紀と他愛ない雑談をしながら長い昼休みを潰していたときだった。
突然沸いた黄色い悲鳴に私と由紀は思わず廊下を見ていた。
「何?」
「さぁ……井沢薫でも現れたんじゃない?」
その言葉にぎくっとなる。
幸い由紀は気付かなかったようだ。視線は廊下に向けられたまま。
まさか、ね。昨日のことで井沢薫が今更何か言ってくることはない。だって普通に帰してくれた。許してくれたとは限らないが、かといって彼が直接ここに来るとは思えない。
気まぐれに散歩しているだけだ。そう思うことにして私は廊下から視線を外した。
ふと見た窓の外は清々しいほどの快晴だった。こんな日は屋上で昼寝でもしたい。次の授業はほぼ自習に近いし……といってもほとんどの授業がそうだったりするが……サボっちゃおうかな、なんて思ったのが悪かったのか。
いや、ただ現実逃避したいだけだったのかもしれない。
「永瀬里都、いるか?」
彼の名前を呼ぶ黄色い歓声がうるさいにもかかわらず、その声はしっかりと聞こえて。
由紀が驚いてこっちを見たのと井沢薫が私に気付いたのはほぼ同時だった。
「ちょっとどういうこと、里都!」
「里都、探したぞ」
どういうことか聞きたいのはこっちだ。あと探してくれなんて頼んでない。
引きつる笑みを上手く隠し切れない。黄色い歓声を上げていた女子の視線までも私に集まって、それはもっと酷くなった。
そんな心境を知らない井沢薫は堂々と私の前に立った。
ちょっとでも笑っていたら状況も変わるのに、彼は見事に無表情。
見方を変えればキレているようにも見える。実際不機嫌なのは確かなのかもしれない。
井沢薫は私を探したと言った。
彼が知っているのは私の名前だけで学年もクラスもわからなかったはず。
井沢薫とのクラスは離れているし、一発で見つけることはまず不可能だ。
平凡中の平凡の私を知る人も少ないと思うから、誰かに聞いてこのクラスに来ることも出来ないだろう。
ということは、彼が自ら歩いて探していたということ。いくつのクラスを見て回ったのか知らないが、その表情からして一つでないことはわかった。
「行くぞ」
「何処に、ですか?」
「屋上だ」
グッドタイミング。
ちょうど行きたいなと思っていたところなんです……なんて言えるほど出来た人間じゃなく、呆然と井沢薫を見上げる。
ダメだ、何を考えているのか全くわからない。
「どうして私なんですか? 昨日のことは許してくれたんじゃないんですか?」
「昨日のことは許した。どうしてお前なのかは……」
ごくりと息を呑む音が教室のあちらこちらから聞こえる。
ここにいるほとんどの生徒が次に続く言葉を聞き漏らさないように耳を傾けている。
正直騒いだままでいて欲しかった。そうすればその言葉は誰にも聞こえず、聞き流すことが出来たかもしれないのに。
でも現実はとても虚しかった。
私の願いなど関係なく時間を進める。
井沢薫の低く、何処か色気を含んだ声が教室に響いた。
「それはお前が俺の女だからだ」
*
地獄絵図のようだった。あの後の惨状は凄まじかった。思い出したくもない。
これからの彼らの行動は容易に想像できて、本気で不登校になるかもしれないと思った。
取り敢えず今はある意味危険だが、ある意味安全なのでほっと息をつく。
念願の屋上だが快晴すぎて暑い。サボって昼寝しに来なくてよかった。
結局サボっているのは代わりないけれど。
「で、どういうことかしら?」
無人の屋上に私を引き摺ってきたのは意外にも由紀と井沢薫だった。
雰囲気はいいものではないが利害一致で協力したらしい。トイレに逃げ込もうとした私を捕まえたのは由紀だった。
「いつ井沢薫に会って、いつ井沢薫の女になったの?」
「昨日会ったけど、井沢薫の女になった記憶は全くない」
「薫でいい。フルネームを連呼するな」
由紀がいることに若干不機嫌になっている井沢薫は私の腰をしっかり抱いていた。
お腹の辺りがムズムズする。言うまでもなく慣れていないその行為に少しずつ彼から離れようと試みていた。
「薫」
「うん、名前はわかりましたから」
「薫」
「……何ですか」
「呼ばないのかよ」
呼んでほしいようだ。
由紀が呆れたようにため息をつく。私もつきたかったが目の前にある顔をみるとつかない方が賢明だと感じた。
「か、おる?」
「もう一回」
「薫」
「もう一回」
「薫……何回呼ばせるつもりよ?」
「ずっとだ」
ふざけんな。
思わず言ってしまった。と思ったら私が言ったのではなく由紀が言ったようだ。
薫の視線は由紀の方に移った。目を向けられなくてもわかる。怒っている。理解できないけれど、邪魔されたことに怒っている。
由紀だって薫に邪魔されたから、どちらが悪いかと言えば先に邪魔した薫が悪いと思う。
でも彼には先も後も関係ないようだ。証拠に思い切り由紀を睨んでいる。
それに負けずに睨み返す彼女も尊敬モノだ。
「里都は井沢薫の女じゃない。そうやって命令するのはおかしくない?」
「俺の女だ」
「里都はそれに了承してないじゃない!」
それでも薫は俺の女だと続ける。
同じようなやり取りが何度も二人の間で交わされた。
当の本人そっちのけ、という辺り二人は何処か似ているように思えた。
彼らに言ったらそれこそ地獄行きになってしまいそうだけれど。
薫がここまで主張する意味は何だろう。
私に何か価値があるとは思えない。というか価値なんてない。薫が、この学校のトップと言っても過言ではない彼が私に目をつける理由はない。
……昨日、思い切り腹を踏んづけたこと以外には。
それか。惜しみもなく踏んでしまったから、その腹いせに女にされたのか。
「あの、薫」
「ん? なんだ」
「私彼氏いるから、薫の女にはなれません」
永遠と続きそうな二人のやり取りを遮り、一か八かで薫に言ってみた。
もちろん彼氏なんていない。あれがファーストキスであることからわかるように経験なんてない。彼氏という存在を疑い始めるほど音沙汰もない。
薫は驚いたように目を丸くして私を見た。
意外だとでも言いたいのだろうか。それはそれで失礼すぎる。
「誰だ」
「え?」
「お前の男は何処の誰だ?」
「……教えたら何する気ですか」
「そりゃもちろん潰してくる。俺の女に手を出すとは命知らずなヤツなんだな」
超自己中発言が聞こえた気がする。
やっぱり薫には先だとか後だとかそういう概念がないらしい。
いかにも俺が先だという発言をしているが、どう見ても薫が後の立場だ。彼が譲る側に立つ方だと思うのは私だけだろうか。
少なくとも由紀は同感してくれるようだ。
さっきから薫を呆れたような目で見ている。だんだん可哀相な人を見る目になってきているのも気のせいではないだろう。
「で、誰なんだ」
「……すみません、彼氏はいません」
「そうか。俺の気を引きたいのか」
そんなことしなくても、里都だけを見ている。
薫は心配するなとでも言うようにそう付け加えた。
全然心配してないのだが、それは言わないでおこうと思った。嬉しそうなその表情を壊したとき何が起こるか、考えたくもなかった。
このときどんなに怖くても断るべきだった。
そう後悔したのはそれから少し後のこと。
こうして私はこの超俺様男・井沢薫と出会ったのだった。
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