一番星の見つけ方
呆気ない。
本当に呆気なかった。
きっかけはもちろん親友の思い出話。
寝言事件からちょくちょく聞き出したもの。
それから少し興味を持って、極め付けは高等部の入学式だ。
あのときの親友の顔は傑作だったが、それをからかう余裕は俺にもなかった。
話から想像するしかなかった水城帆夏は、思った以上に可愛くて。
マンガみたいに恋に落ちた。
……なんてことを郁に言ったら、今度こそ殺されそうなのは気のせいか。
「んだよ、俊晴」
「なーんでもありませーんよー」
そう言ったのに、郁の手には俺の教科書がある。
しかも、ご丁寧に丸められていた。
それが頭上に下りてくることはなかったが、冷や冷やものだってことを彼は知らない。
たぶん俺がMだとか思ってる。
いや、確実に思っている。
「そーいや、帆夏ちんは?」
「華南と璃那と買い物行くって」
春休み初日から、彼氏は見捨てられたのか。
確かに郁といても、何も楽しいことはなさそうだけど。
「残念だねー。抜いてあげよっか?」
「はぁ? ふざけたこと言ってる暇があるなら、さっさと課題を終わらせろよ」
郁が指差す先にはプリントの束。
あろうことか、学年末で赤点をマークした俺の春休みの宿題だ。
あれには担任もビックリしていたな。
「大体どうしたんだよ? 俊晴は赤点取るようなヘマはしないだろ?」
「……たまたま調子が悪かったんだよ」
理由なんて、一つしかない。
でもそれを郁に言えるほど、俺には度胸がない。
それに……言ってしまえば、また二人の仲がこじれてしまうだろう。
郁も帆夏ちゃんも優しいから。
「何かあったら言えよ? ……一応親友なんだから」
「サンキュ、寝言で愛しい彼女の名前を連呼した甘えんぼな郁」
「……お前、死にたいの?」
「照れなくていいよーん」
呆れてため息を零す郁は、まだ気付いてない。
このまま誰にも知られずに、終わればいいと思う。
そう上手くいかないことは知っているが、そうなって欲しいのは事実。
俺の努力次第、だな。
「そーいや、もうすぐ郁のバースデーじゃん。何々、プレゼントは帆夏ちんのしょ」
「だーっ! 黙って課題やれよっ」
「……まだなんだな」
「……わりぃか」
「悪かないけど」
そうかそうか、まだお預けされてるんだな。
それを知って、俺は少しだけ嬉しくなった。
郁は帆夏ちゃんをとても大事にしている。
それだけで、俺は満足だ。
そう、満足……。
俺の初恋……ではないが、いわゆる恋が終わったのは、去年のクリスマス。
帆夏ちゃんと離れ離れになる郁を励まそうと企画したパーティに、何故か二人で現われたとき。
……あぁ、俺の恋は終わったんだな、と察した。
呆気ない。
本当に呆気ない、恋の終わり。
俺には郁を蹴散らす勇気なんかないし、帆夏ちゃんを誘惑する気力もない。
願ってしまったから。
郁の幸せを、帆夏ちゃんの幸せを。
帆夏ちゃんが星に願い続けていたように、俺も願ってしまったから。
そのときからもう、俺の恋は終わっていたのかもしれない。
「にしても」
「何だよ、まだなんかあるのか?」
「この課題、無駄に簡単すぎて、やる気出ねー」
「……お前さ、なんで赤点な訳?」
失恋したからだよーん。
なんて、答えられるはずもないので、笑って誤魔化す。
郁は思い切り怪訝そうな顔をして、俺を見ていた。
「なーんで赤点なんだろうねぇ」
「知るか。俺に聞くなよ」
……居心地のいい、この場所を守れるのなら。
俺の赤点なんて痛くも痒くもない。
だから、こんなことで崩れるなよ。そう願ったはずなのに。
神様だかお星様だか運命だか、よくわからないけど。
こりゃあんまりじゃね? という状況をこのあと連れてきやがった。
+
あとは追試をパスするだけとなった春休みの終わり頃、それは突然やって来た。
「俊晴くんが私のことを好きだったって、ホント?」
何の悪気もなくそう尋ねてきた帆夏ちゃんは、縡子ちゃん以上に質が悪い。
何処からそんな情報を手に入れてきたのか。
隣でぽかんとしている郁を見る限り、ここからではないようだ。
華南か、璃那か。
この二人に漏らした記憶は全くないけどな。
「何を突然。ていうか、そのセリフは郁のもんだと思うけど」
「そーなの?」
「知るか。俺を見るな、俺を」
見ていた雑誌を閉じて、郁はこちらに体を向けた。
……この迫られる感じは何。
「それ、マジな訳?」
出来れば逸らして欲しかった話題を、郁も切り出してきた。
やっと吹っ切れたような予感がしていたのに、これではアレだ。
すごろくでいう、スタートに戻る。
そこまで行かなくても、五マスは戻った感じだ。
「正直に話せよ」
「うんうん」
ここは狭い郁の寮室。
逃げ道は目の前のドアのみ。
背後に窓はあるものの、ここは三階だ。
まだ死にたくはない。
「……どーでもよくない?」
「よくない」
二人が同じタイミングでそのセリフを吐く。
三井俊晴、絶体絶命。
このピンチ、どうやって抜け出すべきだ?
「んな訳ないでしょー。俺、親友の好きなヤツを好きになるような不器用男じゃねーもん」
実際は超がつくほど不器用だけどな。
それは俺が嘘をつき続ける限り、郁でさえ気付かない事実……のはず。
「てかさ、そんな情報は誰から?」
「え゛……いろんな人?」
「郁の隠れファンとか」
「そうそう、そんな感じ……って、なんでっ?」
「この間、呼び出されてたし。影から見てたし」
後半は嘘だけど。
ちゃんと郁に報告しに行ったよ、俺。
「影でコソコソ言うヤツの戯言なんて、信じない方がいいよ」
戯言じゃねーけどな。
「はい、これでお終い。それよりも俺、帆夏ちゃんの処女喪失の話が聞きたいな」
「……っ、ななななっ!」
「お、おま、お前、なぁっ」
……おー、慌ててる慌ててる。
この初々しさ、ムカつくけど微笑ましい。
張り回したいけど、守ってやりたい。
つくづくツイてない男だなぁ、と自分で慰めつつ、俺は彼らをからかうことでこの場を乗り切った。
……はずだった。
+
「ねー、なんでなんでぇ」
「うっとうしいな」
「俊晴に言われたくなーい」
自称帆夏ちゃんから派遣された探偵の璃那は、白昼から堂々と追及してきた。
もちろんあの件についてだ。
「つーか、探偵なら探偵らしく」
「だって聞いた方が早いじゃん」
「そりゃそーですけどね」
郁に近付くために作り上げたキャラが、六年目にして崩壊の道を辿っているのは気のせいじゃない。
確かにもういらないけど、今更最初のキャラに戻れるほど、俺は器用に出来てない。
不器用なんだよ、俺は。
超がつくほど、ね。
「好きだったんでしょーっ!?」
……あぁ、もう嫌だ。
誰だよ、そんな事実を作り上げたヤツは。
勝手に妄想して、それを周りに広められた方の苦労も考えて欲しい。
ただでさえ、俺の親友共は厄介なヤツらなんだから。
「噂は噂だ。それに俺には他に」
「誰、誰ー? 璃那、聞きたーい」
「言う訳ないでしょ」
「華南も帆夏も郁も聞きたいって」
「言ってないだろっ」
腕にぶら下がる璃那を振り落として、俺は空き教室を後にする。
……これが普通の教室で行われていたら、恐ろしすぎる。
取り敢えず一週間は学校を休むだろう。
「ちょ、話は終わってなーい」
「これから追試なんだよ、俺は!」
「私も同じー」
追ってくる璃那に深くため息をつく。
これだけだったら、まだいい。
俺が我慢するだけでいいんだから。
でもそんな甘くはいかなくて。
気付いたときには、郁の隣に帆夏ちゃんがいなかった。
+
用事か何かだろう、と最初は何も感じなかった。
疑問を持ち始めたのは、それが一週間以上続き始めたとき。
郁は何も言わなかったけど、どう見てもそれは異常だった。
「あれ、帆夏ちんとお弁当食べないの?」
「あー……今日は学食だから」
「……何か変だよね」
「変じゃねーよ」
変だろ。
食堂でお弁当を広げてはいけないルールはない。
今まで一緒に食べてきたのに、学食だからって別々に食べるのだろうか。
というか、この状況も一週間続いている。
どんなに鈍かったとしても違和感を覚える。
俺は鈍くないけど。
ふと過ぎったのは、あの日のこと。
あの嘘で、嘘ではない事実に二人は振り回されている?
……まさか、そんなはずは……。
「俺が帆夏ちゃんを好きだから?」
「は? ……何言ってんの、お前」
「だってそれしかねーよ」
「それは戯言なんだろ。お前がそう言ったんだから」
それ自体が戯言だと、郁は本当に気付いてないのだろうか。
……本当は気付いてんだろ。
だから、そんな無意味なことを。
「……ぜーな」
「え?」
「うっぜーよ、郁」
俺はそんなことを望んでないと思わなかったのか?
今までずっと一緒にいて、そんな簡単なこともわからなかったのか?
……笑えちゃうね、マジで。
でも、もっと笑えちゃうのは、こんなことを言ってるバカな自分だ。
「どーいう計画かは知らねーけど。そんな暇つぶししてる余裕があんの?」
「何言って」
「俺、奪っちゃうよ? 郁のたーいせつな彼女」
無理矢理でもね、と付け加えれば、やっと郁は顔を青くする。
「ちゃーんと捕まえとかなきゃ。俺、本気出したら怖いよ?」
「ど、どうしたんだよ。俊晴、なんか変だぞ?」
「どうもしてない。俺は普通だけど」
今まで見せていた俺が異常なだけで。
そんなことを露も知らない郁には、到底理解できないことかもしれないけど。
壊れる、壊れる。
何もかもが壊れる。
大事にしてきた関係も、俺自身も。
「……俺とはしばらく関わんないで」
「はぁ?」
「そーゆうことだから」
離れなきゃ。
去年の帆夏ちゃんじゃないけど、離れなきゃ。
黒い感情は抑え切れないほど、大きく膨らんでいく。
郁の大切な彼女を奪うつもりはない。
でも、このままじゃどうなるかわからない。
だから、俺は逃げた。
誰もいないところへ、彼らを傷つけない、二人に手が届かない場所へ。
+
そよそよ。
そんな擬音が合うような、穏やかな風が吹く屋上。
誰も上がろうとしないそこには、もちろん人影はない。
「ドS俊晴、降臨ーって感じだったなぁ」
少しニュアンスは違う気がするけど、気分はそんな感じ。
郁の表情もそんな感じ。
「無理矢理って……レイプでもする気か、俺は」
自分のセリフに自分で驚く。
そんなことが出来るほど、大それた人間じゃないと知っているのに。
「お腹空いたなー」
寝転んだコンクリートはまだ冷たすぎた。
まぁ、頭を冷やすにはちょうどいいかもしれないけど。
……一言で言えば、暴走した。
何が暴走したのかは、はっきりと言えないけど、確かに何かが吹っ飛んだ。
普段の俺なら……と考えて、苦笑が零れる。
普段の俺って、どっちの俺だろう。
作った方?
それとも、最近思い出してきた方?
どちらにしても、この暴走を抑えられた気がしない。
「なーにがしたいんだか」
……郁も帆夏ちゃんも、そんな深いことは考えない。
きっと最初に感じていたように、帆夏ちゃんに何か長期間かかる用事があったのだろう。
それを聞き出せないまま、キレた俺はなんと愚かなことだろうか。
愚か、愚か、愚か。
繰り返す言葉は今の俺に相応しい。
今までの俺にも相応しい。
「……もう好きじゃないんだってば」
何度言えばわかるんだろう。
何度言えばわかってくれるんだろう。
泣きそうになる自分が情けない。
男だから泣くなって無理だ。
涙を堪える術なんて、俺にはわからない。
「くそ……っ、郁のアホんだらあ」
責任転嫁して、思考をストップする。
ひとまず寝れば、何か状況が変わるだろう、なんて舐めきった考えで、俺は目を閉じた。
+
どれくらい眠っていたのだろう。
夢は見なかったから、ほんの少しだろうか。
「……すよー」
「んにゃー……」
「あ……こじゃ……よっ」
「もうちょっとー」
って、俺、屋上で寝てたよな。
うっすら聞こえてきた声に返事をしながら思う。
屋上に来るようなヤツはいないはずなんだけど。
「……さーい」
「うっせーなぁ」
どうせ郁か璃那なんだろうと思って、いつものように言葉を返したのが運の尽きか。
次の瞬間、お腹辺りに鋭い痛みが走って、俺は飛び起きた。
眩しい光に目を凝らしながら、上を向く。
「イチゴ柄のパンツ……?」
「っ、きゃぁぁあああ!」
もう一度蹴りが入って、今度こそ俺は死ぬかと思った。
お腹を抱えて、うずくまっていると、聞き慣れない声が背後であがる。
「さ、最低ですね……っ! 人がせっかく起こしてあげましたのに」
「あー、ありがとう。で、今何時?」
「三時半ですっ」
掃除の時間か。
そう曖昧に考えながら、顔を上げる。
顔を真っ赤に染めて、俺を見下げるのは、やっぱり知らない女だった。
+
「先輩、なんですか」
後輩らしい女はキョトンとして、首を傾げた。
「君が三年じゃなかったらな」
「二年です。二年五組の楢見榛名です」
「三年七組の三井俊晴」
「……なんで自己紹介してるんでしょうね」
「俺も思った」
性格は帆夏ちゃんタイプらしい。
なんとなくそう感じた。
……未練たっぷりなのを主張してるっぽいな、俺。
「ど、どうかしましたか?」
「気にしないで。ただの自己嫌悪だから」
ふっと自嘲を漏らせば、榛名はますます心配そうな表情を見せる。
心優しい子。
そう感じれば、また帆夏ちゃんが浮かんで嫌になる。
そう、嫌なんだ。
だから、早く消えてくれ。
「そういや、榛名ちん」
「何でしょう」
「イチゴ、好き?」
ばっしこーん、なんて音が聞こえて、視界が反転した。
……さすが俺。
ドSだけど、超ドM。
「もういいですっ! 私、教室に戻りますから」
タイミングよく掃除終了のチャイムが鳴り響く。
次はショートホームだから、戻った方が賢明だろう。
後輩なら、そう送り出すのが先輩の役目だ。
なんて、カッコつけてみたが、本当は一人になりたいだけ。
「バーイバイ」
「……元気、出してくださいね?」
「へっ?」
榛名は予想外な言葉を残して、扉の向こうに消えていった。
意味が理解できないまま、しばらくその扉を見つめる。
もちろん誰も来ない屋上の扉が動くことはない。
榛名も、もう来ないだろう。
こんな変態ちっくな先輩、関わりたい訳がない。
「……俺はいつか一人になるな」
パートナーも見つからないまま、一生を過ごしそうな気がする。
「一人はヤダなー」
「一人じゃねぇだろ。少なくとも俺がいる」
それ、なんかプロポーズみたいだ。
そう呟けば、今度は鞄が落ちてきた。
「うわっ」
「あと、学食のパン」
なんとか避けたあとに、差し出された白いビニール袋。
顔を上げれば、超不機嫌そうな郁がいた。
「い、いつの間に」
「楢見って子がクラスに来たから」
迷惑なことに、榛名はわざわざ報告しに行ってくれたらしい。
でも、よくわかったよな。
クラスに友達がいるとは限らないのに。
「いーよ」
「……え?」
「奪えるもんなら、奪ってみろ。俺は絶対帆夏を離さないからな」
郁の言葉に訳がわからなくなる。
でも、それが郁の精一杯の言葉だと頭の隅で感じた。
「いーの?」
「本当はよくない。でも、帆夏は俺のところにいる自信はあるし。……俊晴の恋を邪魔するつもりもないし」
俺の恋の邪魔って……邪魔してるのは俺なのに。
平穏を迎えた郁と帆夏ちゃんの恋を揺さぶったのは、俺なのに。
「優しすぎんだよ、郁は」
「それを言うなら、俊晴はバカすぎんだよ」
そんな簡単に壊れる関係じゃない。
郁はそう続けた。
何も言えない俺の隣に腰を下ろして、尚も言葉を紡いでいく。
「帆夏に距離を置くよう、頼んだのは俺だ」
「な、んで、そんなこと」
「帆夏も大事だけど、俊晴も大事だから。とことんお前に付き合ってやるつもりだった」
帆夏ちゃんもそれには賛成だったらしい。
バカすぎる、はこっちのセリフだ。
そんなことしたって、俺は嬉しくないし、帆夏ちゃんを悲しませるだけだ。
やっと叶ったのに。
やっと二人の願いが通じたのに。
……俺だ。
俺が帆夏ちゃんを好きになんかなるから。
俺が郁なんかと親友になろうとしたから。
「……やめよーぜ」
「何を?」
「全部。俺らが親友だってところから、全部やめよう」
全てが元通りになるとは思えないけど。
それでも、二人が幸せになることは出来る。
……きっと。
この関係はいつか終わるものだった。
俺が自分を偽った時点で。
「俺とお前は今から赤の他人な」
「……っ、勝手に決めんじゃ」
「だから、もう関わんないで。それじゃ」
小さく手を挙げて、郁の言葉を遮り、俺は立ち上がった。
屋上を出ていくとき、何か言われたような気がしたが、全部無視する。
郁が買ってくれたパンも置いてきた。
それが俺なりのけじめだった。
+
郁の着信も璃那のメールも華南のメールも無視ったまま、迎えた翌朝。
携帯には帆夏ちゃんからのメールも入っている。
「総出だな」
受信ボックスいっぱいに埋まる四人の名前。
心が痛むが、開封しないまま削除する。
開封する勇気なんて、俺にはない。
そんな権利もないと思っている。
彼らが何をどう思って、どんなメールをくれたのかはもうわからないけど。
思い出をきれいなままで置いておきたいという身勝手な想いから、四人のアドレスも電話番号も拒否設定にした。
「ごめんな、郁。華南、璃那……帆夏ちゃん」
もう四人が知ってる俺はいないんだ。
俺は昨日何かを捨てて、崩壊を選んだ。
崩れ行く俺に、大切な彼らを巻き込む訳にはいかない。
ありがとう。
届かない言葉を呟き、携帯を引き出しの奥にしまった。
+
今日もやっぱり屋上は無人だ。
そして、俺はここで授業をサボる。
あれから何日過ぎただろう。
郁に絶交を言い渡した次の日から、俺は学校に来ているものの、授業には出ない日々が続いている。
正直言って、飽きた。
この生活は暇すぎる。
でも、彼らのいる教室に戻る気は更々ない。
「なーんで同じクラスなんだろなー」
違うクラスなら、もうちょっと変わったかもしれないのに。
もしかしたら、なんて言葉が浮かんで、俺は慌てて首を振った。
もしかしたらも糞もない。
捨てたのは俺。逃げたのは俺。
「……先輩?」
あぁ、幻聴まで聞こえてきた。
俺を気にかける後輩なんていないのに。
その前に、部活も委員会もやってないから、知ってる後輩もいない。
俺の世界は、アイツらだけだった。
「無視ですかー?」
「ふはは」
「……あのー」
とうとう壊れました? なんて聞いてくる。
とっくに壊れてますよ、と答えれば、目に映る顔が酷く歪んだ。
……って。この子、俺は見たことがある。
「イチゴちゃんだ」
「楢見榛名ですっ。いい加減、忘れてくれません?」
ならみ、はるな。
あの日、屋上で出会ったイチゴ柄のパンツの女の子。
一つ下の、初めて名前を知った後輩だ。
すっかり忘れていた。
「いーじゃん、イチゴ。俺はチェックの方が好きだけどね。今日もイチゴ?」
「どどど、どーしてそっちに行くんですか!?」
「そーゆー性格だから」
それはたぶん作った方の俺の性格だ。
作る前の俺がどんな性格だったのかは覚えていない。
思い出したくても、思い出せない。
「……今日はですね、先輩の好きなチェックです」
「報告ありがとう」
何色、とまでは聞かない。
榛名の見た目からして、ピンクかオレンジっぽい。
……変態じゃない、男の切ない妄想と言ってくれ。
「今日もサボりですか?」
「ん、まーね」
時計を見ると、今は三限目の休み時間。
榛名はサボりではないようだ。
そうだったら、ここから追い出すけど。
「授業、出た方がいいと思います」
「大丈夫大丈夫」
別に留年してもいいから。
言葉にすれば、また鉄拳が飛んできそうだったので止めた。
留年。
それもいいかもしれない。
落ちぶれた俺を、彼らも見捨てやすいんじゃないだろうか。
「大丈夫じゃないですよ。ほら、教室に行きましょう!」
榛名は立ち上がって、座り込んだままの俺の腕を引っ張る。
迷いなく触れたその手に違和感がした。
「……誰の差し金?」
そんなことを言いたいんじゃないのに、ついて出てくる言葉。
何も知らない榛名を責める理由なんてないのに。
俺はどうもおかしい。
あの日から本当に壊れてる。
「何、言ってんですか」
「郁? 璃那? 華南?」
「先輩……っ」
ふわりと空が見えて、背中に鈍い痛みが走る。
胸には温かい塊。
そっと手を触れれば、小さく身動ぎする。
「……えっと、いただきます?」
押し倒された。
初めて、女の子に押し倒された。
いや、押し倒したこともないけど。
郁には言えないけど、俺もまだやってない。
正真正銘の純潔だ。
「ごめん……榛名」
「いいですよ。それくらいなら」
これ以上はゴメンですけど、という呟きが鳴り始めたチャイムに重なって聞こえた。
後輩をサボらせてしまった。それが何故か痛かった。
それでも、小さく灯った温もりを手放したくないと思ってしまった。
変わる、変わる。
それは小さな足音が合図となって。
次第に大きな鼓動が聞こえ始める。
ギュッと榛名を抱き締めて、俺は起き上がった。
何も抵抗がないことをいいことに、そのまま榛名に甘える。
泣いてしまいそうなのは何故だろう。
それが悲しくないのは何故だろう。
「……榛名」
「何ですか、先輩」
「もうちょっと、いて」
「ふふっ……いつまででもいてあげますよー」
ありがとう、は声にならなくて。
代わりに抱き締める力を強くする。
それが伝わったのか、榛名は俺の背に手を回して、ゆっくりと優しく撫でた。
まるで子供扱いのそれは、どうしてか心地いい。
「せんぱーい」
そう笑いながら言う彼女が、どうしてか愛しかった。
+
ゆっくり目を開けると、空に飛行機雲が走っていた。
もう少し上を向けば、目を閉じた榛名が見える。
いつの間にか眠っていたらしい。
体を起こし、固くなった肩をほぐす。
「ん……せんぱ、い?」
膝の重さがなくなったからか、榛名も目を覚ました。
眠そうに欠伸を漏らしながら、目を擦っている。
「……いたんだな」
「先輩がそう言ったんでしょう?」
「言ったっけな」
とぼけると、榛名は不満そうに口を尖らせた。
思わず笑みが零れる。
無意識に浮かんだそれに、俺は心の中で驚く。
こんな笑い方、郁や帆夏ちゃん以外にしたことがない。
憎たらしいくらいに、スルリと入ってきた榛名。
「私、授業サボったんですよ? それなのに」
「ん。ごめん。……ありがとな、榛名」
それを聞いて、榛名は笑みを浮かべる。
今までで一優しく、そして一番キレイな微笑みだった。
「どうかしました?」
見とれた俺に、榛名は首を傾げる。
何でもない、と答えれば、不審そうな顔で見てきて。
それが可愛くて、また笑ってしまった。
+
あの一件から、俺はまた授業を受け始めた。
受けていないと、榛名まで留年させてしまいそうだから。
俺が留年するのは大いに結構だけど、彼女まで巻き込むつもりはない。
それなのに、俺が屋上にいるなら自分もいる、と言うから、仕方なく授業に出ている訳で。
明らかにハメられたな、と思う。
そして、それから出て来られない情けない俺。
それでも相変わらず、郁たちから距離を取ることは忘れてなかった。
休み時間は机に顔を伏せ、何を言われても、寝たふりをする。
昼休みは誰よりも早く教室を出て、屋上に上がった。
最初の方は郁が追って来ていた。
だが、死角に隠れた俺を見つけられなかったらしい。
いつの間にか、郁が屋上に来ることはなくなっていた。
……それが寂しいと思うのは、わがままなのだろうか。
「まーた、こんなところで食べてる」
「んぐっ」
突然背中を強く叩かれ、食べていたパンを詰まらせかけた。
むせこんでいると、犯人が慌てて俺の背中を擦った。
「げほっ……はーるーなーちゃーん?」
「すみませんって!」
「俺を殺す気?」
「そんな滅相もないっ」
ごめんなさい、と繰り返す榛名の目に涙が浮かぶ。
泣くくらいなら、やらなきゃいいのに。
でも、そんな姿が愛らしい。
……とうとう俺も壊れたか。
見ていられなくて、酷く目を逸らす。
榛名が傷ついたかもしれない。
そう思って、すぐにその行動を後悔した。
「先輩?」
「早く座って食べなよ。昼休み終わっちゃうよ?」
隣にスペースを開けて、ぽんぽんっと叩く。
少し戸惑いを見せたものの、榛名は俺の隣でお弁当を開き出した。
自分で作っているらしいそれは、いつも色鮮やかでおいしそう。
パンばかりの俺には、フルコース並の豪華さだった。
「……あんまり見ないで下さい」
「いーじゃん、減るもんじゃないし」
「減りますから。……どれが欲しいんですか?」
あまりにも見入る俺に、榛名はお弁当箱を差し出す。
いつも通り卵焼きを取れば、彼女は嬉しそうに笑った。
「今日は自信作なんです」
「ふーん……あ、うまい」
ほんのり甘いそれは、最初食べたときよりも甘味が少ない。
榛名はすごく甘い卵焼きが好き。
だけど、最近は俺に合わせて作って来てくれる。
それがどれほど嬉しいか。
彼女は気付いているのだろうか。
「でしょう?」
「も一個、ちょーだい」
「いいですよー」
ずっと続くと思っていた、新しい毎日。
だから俺は、それに完全に甘えていたのに。
甘さが苦さに変わったのは一瞬。
今は冷えすぎた心が、悲鳴を上げて軋む。
頭はバカみたいに冴えきって、目の前の情景を人事のように認知する。
「……ふぅん、そーゆーことね」
見たくない場面に、俺は思わず笑みを零した。
自分を嘲笑う。
誰かのせいにするつもりはない。
全部、見破れなかった俺のせい。
自業自得ってこと。
「さーて。屋上にでも行くかねぇ」
教室に向かっていた足を方向転換させて、再び歩き出す。
その背中の向こうにあるのは、榛名と郁の姿。
……全部仕組まれたことだなんて、どうして今まで気付けなかったのか。
情けない。
情けないな、俺。
一人浮かれて、一人新しい想いを抱いていた。
報われない恋は、あれっきりにしたかったのに。
「……あれ、別に報われなくもないか。郁には帆夏ちんがいるし……って」
いつの間に、俺は帆夏ちゃんを忘れてたんだろう。
いつの間に、彼女の存在が大きくなったんだろう。
「あー、泣けてくんね。やっぱ」
気付いたのは、新しい想い。
それもまた、遅すぎたと感じる。
……やっと、新しい星を見つけたのに。
流れ星じゃなくて、夕方の空で懸命に輝く一番星。
その孤独ながらも温かい光に憧れてた。
たぶん彼女は孤独なんかじゃないけど。
似たような温かさに、いつの間にか惹かれていた。
「好き、だったのかな」
今はもう鈍ってしまった心に問い掛ける。
返って来るはずのない答えを、俺は目を閉じて待った。
+
サボったのは一限目だけで、二限目からは何事もなかったように授業を受けた。
郁とは何度か目が合ったが、会話までは辿り着かなかった。
……俺が意地を張るのを止めるべきだと。
頭の何処かではわかっているのに、なかなかそう出来ない。
先生の説明を余所に、俺はこの状態の発端を考えた。
そもそもの始まりは、帆夏ちゃんが聞いた俺の噂だった。
噂というか、本当の話だったけど。
それを郁が知って、二人が距離を置くようになる。
郁曰く、俺に精一杯やってもらいたかったから。
諦めるしか選択はないけど、それでも中途半端に終わってほしくないから。
で、そこで俺がキレたんだ。
「……何だろ、このコメントのし辛さ……」
「三井ー、徒然草の成立」
「一三三一年です」
「正解。……話はちゃんと聞いてくれよー」
遠くに先生の声を聞きながら、自己嫌悪に陥る。
……キレた俺は榛名に出会って、郁に絶交宣言して。
それから、四人からの連絡を自分から断った。
しっかり榛名に甘えた後、サボっていた授業に出始めて。
そして、今朝に至る。
その可能性を疑ったことはあったのに、どうして俺は信じてしまったのだろう。
どうして榛名を好きになってしまったのだろう。
あれはどう見ても、恋する女の子の目だった。
叶わないと知りつつも、諦められないのが恋だと。
俺は痛いくらい知っている。
「って、好きなのか……俺」
「誰を?」
「榛名……って、んなっ」
「そんな慌てないでよ」
いつの間にやら、授業は終わっていたらしい。
前の空いた席に座り、俺を見つめてくるのは帆夏ちゃん。
郁ではどうにもならないと気付いたらしい。
誰が仕向けたのかは知りたくもないけど、たぶん彼女も。
「勘違いしてるっぽいけど」
「へ?」
「私は郁と俊晴くんの喧嘩に、一切関わる気はないから」
にこっと首を傾ける帆夏ちゃんが、いつになく恐ろしく見える。
思わず苦笑いを浮かべると、それは一層深くなった。
「で? いつまでこの茶番劇は続くの?」
今俺らの問題に関わらないと聞こえたのは、聞き間違いだろうか。
明らかに首を突っ込んだ質問に、俺は戸惑いを浮かべる。
……誰よりも。
誰よりも被害を被っているのは、彼女かもしれない。
まさかとは思うけど。
「私、いつまで郁と距離を置かなきゃいけないの?」
幸せだったはずの時間を返せ。
直接聞いた訳ではないけど、帆夏ちゃんの目がそう語っていた。
やっぱり郁は、まだ距離を取ったままだったらしい。
そして、彼女の様子からして、まだ取り続けるらしい。
「とっしはるくーん?」
「……帆夏ちゃんって、そんなキャラだったっけ?」
「本気で怒るよ、私」
いや、もう十分本気で怒ってるよね。
その言葉は言うまでもなく、飲み込んだ。
「さっさと」
「俺、帆夏ちゃんが好きだった」
「……へ?」
突然の告白に、帆夏ちゃんは言葉を失ったようだ。
それは今も続いていて、ぽかんと俺を見つめている。
それが何とも言えなくて、こんな表情をさせたことを申し訳なく思った。
「心配しないで。今は違うから」
「……でも」
「郁にさ、言っといてよ。ちゃんと言えたから、無駄なことは終わりにしろよって」
自分で言うのがベストなんだろうけど。
今はまだそんな心境になれないから、俺は帆夏ちゃんに頼む。
少し不満げな表情を浮かべたものの、彼女は小さく頷いた。
「俺らはそのうち戻るよ。でも今はまだ無理だから」
「早く、戻ってよね」
「え?」
「郁、俊晴くんがいなきゃ元気ないからさ」
郁のこと、よろしくね。
そう言い残して、彼女は彼のもとに戻っていく。
……俺は、彼女にそう言えただろうか。
郁をよろしくって、俺は言っただろうか。
言ってないような気がする。
あの頃はからかうことに、自分を保つことに必死で。
「帆夏ちゃんっ」
「ん?」
「郁、相当バカだけど見捨てないでやってね」
「……そんなこと、私も知ってるよ。でも、わかった。見捨てないから」
堂々と言った帆夏ちゃんは、今までで一番綺麗な笑顔を見せた。
郁がすごいのか、はたまた帆夏ちゃんがすごいのか。
去年とは違うそれに、なんだか安心感を覚える。
郁に止められていたにもかかわらず、声を掛けてしまった。
それくらい危なっかしくて、見ていられない笑みだったから。
「大人になったなぁ」
同い年のはずなのに、帆夏ちゃんがずっと長く生きているような気がした。
+
これで問題はほとんど解決した、と思っていた。
昼休みに榛名を見るまで、俺は今朝のことをすっかり忘れていた。
あれだけ悩んでたのに、何をやってんだ、俺は。
「先輩、今日は教室なんですね……」
明らかに屋上まで探しに行ってましたオーラを出して、榛名は俺の横に立った。
申し訳なく思う反面、いい気味だなんて感じる俺は、きっと酷い奴なんだろう。
わかってる。
わかってるからそう睨むな、帆夏ちゃん。
あれを耐えられる郁が、どれだけすごいかよくわかった。
俺じゃ無理だ。残念ながら。
「今日からは教室ですか?」
「うん……まぁ」
「仲直り、できたんですね。よかった」
ほっとした笑みを浮かべた榛名に、胸がズキズキと痛む。
……今朝のことは、誤解だったんだ。
そう思えたら、よかったのに。
「榛名も役目果たせてよかったね」
「え、何のこと」
「朝見たよ。……郁と楽しそーうに話してるとこ」
「あ、あれは」
「郁が好きなの?」
慌て始めた榛名にとどめをさす。
それは同時に、俺自身にもとどめをさした。
もしかしたら、なんて甘い考えも、言葉にしたことで砕け散る。
バカだな、なんて人事のように思った。
夢を見続けていれば、よかったのに。
いつものようにヘラヘラして、さ。
「な、何言ってるんですか? 意味がわかりませんっ」
見せた動揺は、肯定したということだろうか。
胸が疼いて、気持ち悪い。
帆夏ちゃんのときとは、違う痛みに苦しめられる。
どうして、俺はこうなんだろう。
前向きに考えれば、少しは楽になるかもしれない。
なのに、俺が見る未来は、いつも暗く湿っている。
そんな未来しか見れない。
「だから、大好きな郁に頼まれたから、俺の相手をしてたんでしょ」
「……そんなこと」
「ないって言うんだ? また俺を傷つけるんだ?」
何言ってんだ、俺は。
傷つけているのは俺なのに。
傷ついているのは、彼女なのに。
そんなこと、言ったら。
「先輩、のバカっ」
案の定、榛名は目に涙を浮かべて、俺の前から走り去った。
すぐに廊下に消えた背中に、追いかけたくなる。
……追いかける資格なんてない。
わかってるから、そんなこと。
わかってるから。
「俊晴っ! お前なぁ……」
「うるさいよ、郁」
「……何泣いてんだよ、アホ」
「泣いてねーし」
視界が滲んだのは、コンタクトが外れたせいだ。
そう言ったら、郁は大きくため息をついた。
呆れたようなそれに、思わずムッとなる。
「コンタクトしてねーだろ、お前」
「見えないコンタクトしてんだよ」
「……誤解だよ、誤解」
は? と郁を見上げれば、彼は再びため息をついた。
今度は、しょうがないとでも言いたいような表情で。
俺らの仲は戻ったのかな。
いつも見ていたそれに、しみじみとそう思う。
「……誤解って?」
「あの子は、俺が好きなんじゃない」
「でも、そういうオーラ出してたよ」
「あー、もしかして今朝の見てた?」
面白そうに言う郁だが、俺にしては全く面白くない。
でも、今のセリフからして、今朝のようなことは頻繁にあるものじゃないと知る。
そのことに、少しだけ安堵した。
「そりゃ、好きなヤツの話をしてたんだから、そういうオーラも出るだろ」
「……恋愛相談でも受けてたのかよ。お前、相当疎いくせに」
「てめーにだけは、言われたくない」
確かに、な。
付き合った経験なんて皆無だし、片想いさえろくにしていない。
郁みたいに、一人の人を長く想ったこともない。
恋愛に関しては、何も文句は言えない。
「俊晴の話ばっかしてたよ、あの子」
「……へぇ」
「さってと。昼飯食いに行くか」
そう言って、郁は一旦自分の席に戻った。
今日は帆夏ちゃんも一緒らしい。
彼女からお弁当を受け取り、二人でこちらに向かってくる。
俺が昼寝の体制に入ると、思い切り睨まれた。
帆夏ちゃんに至っては、浮かべた笑みもすごい。
「何してんの?」
「いや、邪魔しちゃ悪いし、お昼ないし」
「何してんの?」
「……今行きます」
こんな怖かったっけ。
ビクビクしながら二人に駆け寄ると、郁が苦笑いを浮かべていた。
「今機嫌悪いから」
逆らうな、と付け加えた郁とそれに文句をつける帆夏ちゃん。
一度は離れ離れになったのに、今はこうして一緒にいる。
俺の自慢のカップルは、きっと俺の理想になるだろう。
そんなことを思いつつ、俺は二人の後を追った。
+
「ヘラヘラしてる場合じゃないでしょ」
やっと買えた昼食を手に、二人のもとに戻ると、帆夏ちゃんはまだ不機嫌そうにそう言った。
しっかりあの場面も見ていたらしい。
完全に女の敵として見られている……気がしてならない。
「女の敵以外に何があるの? 泣きながら去った女の子を放置して、友情育んじゃってさ。最低にも程が」
「帆夏、言い過ぎ」
「いいよ、郁。俺が最低なのは知ってるから」
大体親友の想い人を好きになった時点で、俺は最低ランクに落ちた。
最低なんかじゃない、と二人はフォローするけど。
俺がそう感じる限り、たぶん最低なんだと思う。
だって、こう思うことが最低なんだから。
「落ち着いたら、会いに行くよ」
「落ち着いたらって、いつ? また彼女を待たせるの? 好きだって気付いてるんでしょ?」
帆夏ちゃんは責めるように言葉をたくしあげる。
それが痛いと感じるけど、止めてほしいとは思わなかった。
これくらいの痛み、今までの俺にはまだ足りないくらいだ。
「放課後、でいい?」
「許す」
納得はいかないけど。
そう言って笑う彼女に、俺はもうときめかない。
それが答えだと、なんとなく思った。
変わっていくのは速い。
気付けば、二転三転もしている。
何かを忘れて、新しい何かに気付く。
そう言えば、少し寂しい気がするけど。
でも、そういうもんだと思う。
俺が帆夏ちゃんを好きになったことから始まった、一連のこと。
結局違うヤツを好きになって、終わりを迎えようとしているけど。
これが無駄だとは思わない。
思うことなんか出来ない。
「ちゃんと報告してね」
「振られたら、慰めてやるし」
「俊晴、告白するのー?」
「まぁ頑張って、アホ俊晴」
放課後、華南と璃那も加わって、四人で送り出してくれたこと。
俺は絶対忘れないと思う。
……なぁ。
俺はものすごく嫌なヤツだけど。
でも、こんなんじゃなきゃ、四人と仲良くなれなかったと思うんだ。
少しずつ、この嫌なところは直していきたい。
だから、嫌な俺じゃなくなっても、どうか見捨てないで。
「……ん、いってくるわ」
「いってらっしゃい!」
こうやってバカみたいに、ずっと見守ってて。
+
二年の階は、異世界だった。
明らかに違うとわかるらしい俺は、終始色んな目で見られていた。
視線が痛いと感じることは何度かあったが、これほどいたたまれない気持ちになったのは初めてだ。
「あのー、楢見榛名っている?」
ようやく着いた五組の前で、後輩を捕まえる。
ものすごく怯えているように見えたが、気にしない。
というか、それどころじゃなかった。
「い、今、呼んできますっ」
「うん、よろしく」
何故か敬礼した後、慌てて教室に入っていく。
先輩に話し掛けられるのは、そんな怖いことなのだろうか。
経験したことがない俺は、小さく首を傾ける。
しばらくして、教室から見慣れた姿が出てきた。
鞄をしっかり抱き込んだ榛名も、さっきの後輩同様に怯えていた。
「ななな、何でしょうか?」
「今、大丈夫?」
「……いえ、部活あるんで」
部活、入ってたんだ。
あれだけ一緒にいたのに、全く知らなかった。
昼休みだけだったから、仕方ないのかもしれないけど。
なんか、寂しくなる。
そんなこと、一言も言わなかったから。
「そっか……待ってていいかな」
「待たないで下さい」
キッパリ言った彼女は、俺を見ていなかった。
影が落ちた榛名の顔が、今どんな色を浮かべているのかわからない。
ただ、それがほんのり赤く染まることはない。
今までのことを思えば、それは確実。
「もう、来ないで下さい」
震えた声で、榛名は続ける。
そう言われても仕方ない。
わかってるけど、いざ直面すれば苦しくなる。
自分の最低さに、情けなくなる。
「わかった」
「……っ」
「今、言うから聞いて?」
「だから」
早く俺から離れたいらしい。
落ち着きのない榛名は、やっと顔をあげた。
チャンスとばかりに、顔を近付ける。
触れるか触れないかの距離。
目の前が薄く赤に染まる。
「好きだよ、榛名」
一瞬。
瞬く星が再び光を放つ程の、短い時間。
俺は榛名の温もりを奪った。
「色々とごめんな」
動きを失った彼女にそう告げて、俺は背を向けた。
答えはいらない。
カッコつけた振りをして、逃げる。
追ってくる音はなかった。
どんなにゆっくり歩いても、俺を捕まえる人はいなかった。
+
雨の季節になった。
ジメジメとした風は、人の気分もジメジメとさせてしまうらしい。
俺は郁の部屋に入り浸り、そんなことを思っていた。
あれから、榛名には会っていない。
すれ違うことはあったが、ずっと避けられている。
「なぁ俊晴」
俺以上にジメジメしている郁と帆夏ちゃん。
中間考査が散々だったらしく、二人はせっせと課題をやっている。
因みに俺はというと、二人の家庭教師もどきをしていた。
「あれだけサボってたくせに……」
「なんで、赤点じゃないのよ?」
「あんな簡単な問題、赤点になる訳ないじゃん」
恨めしそうな視線が、一層酷くなる。
思わず苦笑いを浮かべると、帆夏ちゃんがシャーペンを投げ出した。
「しんっじらんない」
「何が?」
「何がって……あれだけサボったのに、俊晴くんが首席だってことだよっ」
……そう。
すっかり気を取り直した俺は、首席に返り咲いた。
その見事さに、先生が今までサボっていた分を帳消しにしてくれたほどだ。
「……てか、あれで赤点になる二人が信じらんないよ」
しかも、同じ教科。
聞いたときは、どこまで仲がいいんだよ、と笑ってしまった。
点数も似たり寄ったりだし。
呆れを通り越して、笑えてくる。
笑ったけど。
腹を抱えて、悶えるほど笑ったけど。
「うぅー、終わらないよぉ」
「……俊晴、教えてやって」
「やだよん。彼氏の郁が教えなよ」
「俺だって終わらねぇんだよ……っ」
既に涙目の二人を見ながら、数ヶ月前を思い出す。
春休み、学年末で赤点をマークした俺も、同じような課題をやった。
それで苦労した覚えは全くない。
赤点になったのも、解答欄がずれてたり、気付いたら終わってたり、とあんまり自慢できない理由だったし。
だからだろうか。
必死で勉強して、必死で解答した郁たちと俺が違うのは。
「根本がないんだね、郁ちんも帆夏ちんも」
「うるさいっ」
見事にハモった二人は部屋から俺を追い出した。
目の前でパタンとしまった扉を見て、苦笑が零れる。
「俺、君らに呼び出されたんだけどなぁ」
家庭教師もどきとして。
途中で強制帰宅だなんて、酷すぎないか。
呼び出したのはそっちなのに。
「……ま、精々頑張ってねん」
扉の向こう、二人で頭を抱えている様子を思い浮かべながら、俺は踵を返す。
通い慣れた寮の廊下は、いつも思うけど静かだ。
みんな部活に出払っているからか。
もしくは、防音設備がいいからか。
あれだけ郁の部屋で騒いでも誰も怒らないから、きっと後者なのだろう。
休日の夜中でも平気で騒いでいたし。
「いいなー、寮は」
俺はずっと自宅通学。
寮に入るような距離も事情もない。
入ろうと思えば入れるだろうけど、たぶんその前に親がアパートを借りてくれる。
ある意味憎たらしい家庭だから。
あの大人は頼めば、何でも与えるだろう。
「……別に、いいけど」
寮の外に出れば、湿気を存分に含んだ風が肌を撫でた。
朝から降り続く雨は、来た頃よりも雨脚を強めている。
傘立てで自分の傘を探していると、急に背後が騒がしくなった。
何事かと思って振り向こうとしたとき、誰かが腕を引っ張る。
「……っ、帰らないで!」
「は?」
上目遣いで見てくるのは、ついさっき俺を追い出した片割れ。
走ってきたらしく、息が弾んでいる。
「お願い、教えてっ」
「……帰れって」
「それは忘れて!」
都合いいな、なんて思った。
でも、俺の足は再び郁の部屋に向かう。
こうなるだろうとわかっていた。
……まさか帆夏ちゃんを使うとは思わなかったけど。
「追い出したくせに」
「……すまん」
「ごめんなさい……」
しゅん、と縮こまる二人に小言を漏らしながら、課題に目を向ける。
つまづいたのは、二人とも同じ問題らしい。
どこまで似てんだよ、と内心大笑いしてやった。
「ふーん。……二人ともさ、一年からやり直したら?」
「なんでっ」
「なんか情けないから」
ハッキリ言えば、二人の落ち込み具合もハッキリ伺えた。
面白がって、追い討ちをかける。
「こんな問題が解けないなんて……中学の問題だぞ?」
「嘘、マジで?」
「嘘だぴょーん」
……この後双方から殴られたのは言うまでもなく。
ここ一ヶ月では信じられない光景が目の前にある。
普通だと思っていた、普通じゃない日常。
当たり前じゃないことを、今の俺はしみじみと感じている。
「だーかーらー、ここはこうだって」
「こっちはー?」
「ちょっと待って」
新しい何かを求めたけれど。
それももういらないや、と思った。
榛名が、一番星が欲しいって思ったけど、もうこれだけで十分。
郁たちがこうやって俺を見てくれるだけで十分。
俺は少しずつ忘れていく。
少しずつ蓋を閉めていく。
そして、また戻る。
帆夏ちゃんが好きだと思っていたあの頃へ。
恋という感情を押し込めて。
+
それは、梅雨も半ばになった頃だった。
学校もいつもより静かだなと思っていたら、修学旅行があったらしい。
静かなのも当然だ。
一学年ごっそりいなかったのだから。
「三井くーん」
クラスメートの声が俺を呼んで、郁との会話が途切れる。
振り返れば、まだ名前の一致しない女子が手を大きく振っていた。
「なーにー?」
「お客さん来てるよー」
お客さんの言葉に、俺は一度郁を見た。
郁も首を傾げる。
……客なんか来るはずがない。
部活も委員会もやっていない。
友達は郁たちだけ。
同じクラスになった人とも、そんな関わっていない。
「まぁ、取り敢えず行ってみたら?」
「あー、うん」
郁に促され、俺は廊下に向かう。
クラスメートが指差す方に視線をやり、あり得ない光景に目を疑った。
何度瞬いても、それは変わらない。
見間違いじゃなく、幻想でもなく。
「は、るな……?」
恥ずかしそうに顔を俯けて立っているのは、忘れようと決めた彼女だった。
様々な視線が集まる廊下。
この間の俺以上に居心地が悪いだろうと、場所を移動する。
少し重たい扉を開けば、久し振りに晴れた空が広がった。
始まりか、終わりか。
そのどちらにしても、俺にとってはスタートになる。
だから、敢えて屋上を選んだ。
榛名と出会い、榛名を好きになったこの場所を。
「どーしたの? 突然」
「こういうときって、まず世間話から入らないですか? 普通」
「ごめん。俺、普通じゃないから」
急かしてはいけない。
そう思うも、せがむように彼女を見てしまう。
それを避けるように、榛名は俺から離れていく。
追いかけられなかった。
ただその距離だけが開いていって。
ちょうど反対側に辿り着いたとき、榛名は突然振り返った。
「いいですよ、先輩」
「は?」
「でも、その前に謝ってください」
一瞬何のことかわからなかった。
でも、俺と榛名の間には、あのことしかない。
彼女を疑ったこと。
郁の差し金だと言って、突き放したこと。
あれが真実だとは思ってないけど、今もまだ誤解だとも思えない。
だから。
「それは、無理だ」
気にしなければいい。
忘れればいい。
そんな引きずることじゃない。
わかってる、わかってるけど。
どうしてだろう。
こんな小さなことに囚われたことなんて、一度もなかったのに。
ずっと流してこれたのに。
「謝ってください」
「……それだけなら、帰るよ? もう授業始まるし」
「先輩、逃げるんですか?」
「……っ」
痛いところを突かれ、俺は強く拳を握り締める。
逃げているのだろうか。
俺は逃げるしか出来ないのだろうか。
「先輩?」
しゃがみこんだ俺に、榛名の声が届く。
顔を伏せた俺には、灰色しか見えないけれど。
……榛名がどんな表情をしているか、嫌でも思い浮かぶ。
振り切れないそれが胸を締め付ける。
好きだという想いは痛いほどある。
それはもう、帆夏ちゃんへの想いを超えるほどに。
だから、もっと苦しくなる。
「先輩……」
声が近くなって、影が落ちる。
だんだん大きくなったそれが視界いっぱいになったとき、温かい手が腕に触れた。
「はる、な」
「まぁ……事実だから仕方ないですよね」
「え?」
「確かに葛城先輩に頼まれましたから」
最初に俺のクラスに行ったときだったらしい。
榛名は俺の疑い通り、郁の差し金だった。
怒りよりも寂しさが込み上げる。
「でも、引き受けたのは先輩だからです」
甘い香りが過ぎり、俺を包む。
いつかのように回された腕が、ギュッと俺を抱き締める。
その温かさも優しさも、記憶に残ったままのもの。
「せんぱーい」
愛しい、と思ったその声も同じで。
顔を上げると、すぐ傍に榛名の顔があった。
あり得ないはずの近さに、俺は視線を泳がせる。
それを見た彼女は、小さく笑いを零した。
「謝るのは、私の方ですかね?」
「いや……別に」
「ごめんなさい。……でも、先輩と一緒にいられて嬉しかったです」
首にしがみつくように、榛名は俺の肩に顔を埋める。
時々掠める髪がこそばゆい。
そっと彼女の髪に手を埋めれば、その柔らかさに息を飲む。
調子に乗って頬も寄せれば、榛名は明るく笑った。
「くすぐったいですよ」
「ご、ごめん」
「好きだから、いいですけど」
「……それは」
期待していいの?
聞きそうになって、口を噤む。
そういう意味じゃないと知ってる。
でも、期待してしまうんだ。
それが俺にとって大事なことなら、尚更。
「榛名、好きかも」
「かも、ですか」
「……好きだ」
コロコロと笑う彼女は、俺よりもずっと大人に見える。
まだまだ子どもの俺には、彼女の温かさが心地いいけれど。
……出来るなら、俺もそうなりたい。
彼女にとって、居心地のいい存在に。
彼女が帰りたくなる、温かい場所に。
「私、先輩と一緒にいたいです。出来れば、ずっと」
「榛名……」
「もっとギュッとしてください」
言い終わるが早いか、俺は榛名の腰に片腕を回して引き寄せる。
目一杯抱き寄せれば、それに答えるように、彼女も腕に力を込めた。
「好きですから、先輩よりずっと」
「いや、俺の方が好きだし」
「逃げようとした人の言うセリフですか?」
……榛名は何気に酷いと思う。
小声で呟いたそれはしっかり彼女の耳に届き、軽く頭を叩かれた。
容赦ない郁たちに比べれば、ちっとも痛くない。
けれど、たぶん何よりも俺に効く咎め。
「……夢かな」
「どっからですか? 最初からなんて抜かしたら、本気で殴りますよ」
「いえ、気のせいでした」
きっと、郁と帆夏ちゃんに負けないくらい、いいカップルになる。
確信はないけれど、なんとなくだけれど。
抱き締めて、抱き締められた腕の中。
俺は幸せを噛み締めながら、そんなことを思った。
+
「本っ当にこれでいいの!?」
「……帆夏ちん、酷いよ」
放課後、無理を言って榛名に部活を休んでもらい、俺たちはファミレスに入り浸っていた。
もちろん、初デートなんてものじゃない。
二人きりですら、ない。
辛うじて隣に陣取ったものの、その奥には郁がいて。
目の前には、身を乗り出す女三人衆。
もう名前で呼ぶのも面倒臭い。
「いいですよ」
「終始こんなんだよ?」
「これが私の好きな先輩ですから」
こんなんじゃなきゃ、逆にダメです。
ハッキリと答えた榛名に、思わず拍手を送りたくなった。
さすが俺の彼女。
俺の事をちゃんと……。
「この方が従えやすいですし」
「あー、そうかもね!」
……わかってくれてない。
引きつった笑みで彼女の名前を呼ぶけれど。
会話が弾み出し、打ち解けていく榛名には聞こえていなかった。
大きく落胆しながらも、どこかではよかったと思っている。
打ち解けられなかったら、色々と気まずいだろうし。
ただでさえ、一年開いているのに。
「ね、先輩」
「……何?」
「二人きりのときは、甘えまくりですよね」
先輩の甘えたなところも、好きですけど。
そう続けた割には、突き刺さる視線が鋭い。
その半分以上は、三人衆からのものだった。
非難……の目しか、他に説明がつかない、か。
「まぁ俊晴は昔っから甘えただし」
フォローにもなってない言葉で、郁が助け船を出す。
ますます視線が痛くなったのを、彼は気付いているのだろうか。
まさか知ってて、言ったんじゃねーだろな。
すっかり根についてしまったらしい疑惑心が、音を立てて沸き上がる。
ダメだ。
こんなこと、思っちゃダメなのに。
「先輩は私の一番星ですから」
突然榛名が発した言葉に、俺は俯きかけていた顔を上げる。
いつの間にか進んでいたらしく、俺が甘えたな話はすっかり身を潜めていた。
「一番星?」
帆夏ちゃんが不思議そうに繰り返す。
それに答えるように、榛名は大きく頷いた。
「葛城先輩と水城先輩は、流れ星で繋がってるんですよね。その話を聞いて、それなら私と先輩は一番星かなって」
榛名は続ける。
浮かべるのは、柔らかくてふわふわした笑顔。
それが幸せの徴だったら、どんなにいいだろう。
「先輩も、どこか孤独なところがあって。それでも精一杯輝こうってしてる。そんな先輩を見てると、夕方の空に偶然一番星を見つけたときみたいに、なんだか温かくなるんです」
だから、私も先輩にとってそんな存在になりたい。
俺と榛名が一番星で繋がっている理由。
榛名はそんな言葉で締めくくった。
+
夕焼けに二つの影がいつもより長く伸びる。
蒸したような雨上がりの空気が夏の気配を漂わせている。
郁たちと別れた俺らは人通りの少ない住宅街を歩いていた。
この先にあるのは榛名の家で。
初めて彼女を送れることにニヤける顔を片手で隠した。
「あ、一番星」
ふと見上げた空は藍が茜を浸食し始めていて。
その一点がキラリと光を放っていた。
「本当ですね」
俺の言葉に榛名も空を見上げる。
その横顔がキレイで、俺は繋いだ手を握り締めた。
そうでもしなきゃ、離れてしまいそうだった。
「どうしました?」
「いや……別に」
「甘えた再発ですかー」
からかうように榛名は笑う。
ムッとなった俺は墓穴を掘ったらしく、その笑みは一層深くなった。
「大丈夫ですよ、先輩」
「は?」
「一番星は逃げません。ずっとついていきます」
太陽や月がいつでもそこにあるように。
半日は隠れるじゃん、と反論すれば、それは関係ないと返された。
「私たちだって一日二十四時間いられる訳ないでしょう?」
「そーだけど」
「でも一緒にいられる時間は、ずっと一緒にいます」
だから一緒にいてくださいね。
そう言った彼女が何よりも愛しく感じた。
俺は一人じゃない。
今までも郁たちがいてくれたから、そうだったけど。
今、そしてこれからはそれ以上に一人じゃなくなるだろう。
バカな俺はきっと年がら年中榛名のことを考えて。
彼女のために生きていく。
まだ遠い未来だけど、薄くぼんやりとそんな姿が思い浮かぶ。
流れ星と一番星。
どちらも同じ星だけど。
すぐ消えてしまう流れ星より、断然一番星の方がよく。
郁たちよりもバカな彼氏彼女になるんだろうなと思って笑った。
「何笑ってるんですか」
「……幸せだなぁって」
「っ、あ、私も……幸せですよ」
一番星の隣に瞬き始めた星を、俺たちが見つけることはなかった。