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How to ...  作者: 希沙
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流れ星の願い方

 あれは、いつのことだっただろうか。

 布団にくるまり、窓から見上げた満天の星。

 2人声を潜めて、こっそり見たまんまるの月。

 きらりと落ちた流れ星に何も言えなかった私は、泣いてしまったのを覚えている。


「ほーちゃん?」

「うぅ……お星様にお願い事言えなかったよぅ」


 心配そうに覗き込む彼をよそに、ますます声を殺しながら泣く私。

 困らせてしまう、なんてことを考えるほど大人でもなくて。


「3回も言えない……っ」

「ほーちゃん。ほーちゃんにいいこと教えてあげるよ」


 それでも、彼はそっと私の頬に流れる涙を拭って、優しく微笑んだ。

 いいこと、という言葉に思わず期待を持ってしまった私は、泣いていたことも忘れて彼を見上げる。

 それを見て、彼は小さく手招きをした。

 元々近かった体をもっと近づけると、彼の手が息が耳元に触れる。


「ほーちゃん。これは2人だけの秘密ね?」

「うん?」


 ―――お星様はね、落ちた後でも願い事を聞いてくれるんだ。

 それに、3回も言わなくていい。

 1回だけ大きな声で言えば、きっと叶えてくれるよ―――


 ……それはもう、いつだったのか忘れてしまうくらい昔の話。

 高校生になった今もそれを信じているなんて、言えない。

 でも、あれからこの願い方が私に運を呼ぶジンクスになったんだ……───。


 ☆


「いーくっ」


 私には到底出せないような甘い声が、幼馴染の名前を呼ぶ。

 少し離れた席で顔を伏せていた彼……葛城郁は面倒臭そうに、それでも何処か幸せそうな表情を浮かべて、彼女のもとへ歩み寄る。

 私は横目でそれを見て、窓の外に視線を移した。

 薄くガラスに映る2人を疎ましく思いながら、見事に晴れ渡った空を見つめる。

 空まで、私を見放してくれたらしい。


「……縡子が?」


 嫌でも耳に入る郁の声。

 また新しい女の子の名前。

 この学校で聞いたことがない名前だから、中学の時の子だろうか。

 ……あいにく中学は公立だったので、私立に進んだ郁のことは全く知らない。

 郁は寮に入ったあと、家にもほとんど帰って来なかった。

 中学の3年間、1回も会えなくって。それがとても悔しくて。

 必死でこの高校に入ったのに……2年になってやっと同じクラスにもなれたのに。

 郁は私を一切見てくれなかった。

 全部忘れてしまったらしい。

 久しぶりに会ったとき、思い切り無視されたから。

 全部、全部……あの夜のことも、きっと。


「おい、俊晴。次、サボるから適当に言っといて」

「了解。久々に縡子ちゃん?」

「おぅ」


 近くにいた三井くんに声をかけて、郁は彼女と一緒に教室を後にした。


 ☆


 今日も、ダメだった。


「……明日は郁と話せますように」


 長時間電車に揺られて、やっと駅に着いた頃には、空にたくさんの星が瞬いていた。

 あの頃と変わらない空に、中学のときからずっと祈り続けてきた願いを呟く。

 いつの間にかそれが癖になっていた。

 ……叶わないことなんて、わかってる。

 叶えてくれる人がいないのだから。

 ───お星様が落ちた後に、大きな声で願い事を叫べばいいんだよ。

 それを信じた私が流れ星を見つける度……隣にいたのは郁で。

 限定ケーキが食べたい。

 ……次の日の朝、玄関前に置かれていた。

 初恋の人と仲良くなりたい。

 ……次の日、たくさん話せた。一緒に帰れた。

 そんなちっぽけでしょうもない私の願い。

 泣いた私のためについた嘘を、本物にしようとしたところが郁らしかった。

 1つ1つの願いを叶えるのに、どれだけの労力がかかったのかは分からないけど。

 でも、当時小学生だったことを考えれば、相当の労力だったはずだ。

 そして、私がそのことに気付いたのは中学に入ってからだった。

 郁が私立の中学に行って、私の願いを聞くことが出来なくなったから。

 ……なんていいように言ってみるけど、たぶんきっと郁は嘘を突き通すのが嫌になったのだろう。

 ありがとう、も言えなかった。

 ごめんね、さえ言わせてもらえなかった。


 ☆


 濡れた髪をタオルで拭いながら、いつものように部屋の窓を全開にする。

 向かいの部屋の灯りは今日も燈らない。

 昨日もその前も1年前も……ずっと暗いまま。

 私は何時間もかけて家から通っているけど、郁は寮に入ったままだった。

 家に帰って来ているのかさえ、今も定かではない。


「うー……今更曇るなんて」


 さっきまで快晴だった空が、今は雲に覆われていた。

 帰り道に見上げた星も全く見えない。

 ……いつもの願い事も出来ない。


「……最悪だ」


 ぽつりと呟いて、私は窓とカーテンを閉めた。

 ……いつか、こうやって願わなくてもいい日がくればいいのに。

 それがいい意味でも、悪い意味でも。

 小さくため息を吐きながら、私は部屋を出た。


 ☆


 まだいくつかの星が空で瞬く頃。

 私は周囲を気にしながら、そっと家を出る。

 その時、ちらりと隣の家を見上げてしまうのは、ほとんど癖になっていた。

 薄暗い路地を、いつも通り早足で歩いて行く。

 2年目とは言っても、やっぱり人通りの少ない場所は気味が悪い。

 寮に入れば、こんな気持ちにならなくて済むんだろうけど。

 でも入ったら入ったで、別の気持ちに苦しめられるのが目に見えている。


「なーんて、逃げてるだけなんだけど……」


 電車に揺られて、1時間。

 この頃になれば、ちらほらと同じ制服が増え始める。

 さらに30分後、見慣れた姿がこちらに駆け寄ってきた。


「帆夏ーぁ」

「華南、おはよー」

「おはよ。あー暑い」


 華南が駆け込むと同時に、ドアが閉まった。

 小さな揺れを伴って、電車が動き出す。


「水城」


 ふと声をかけられて、顔を上げると、そこには最近仲良くなったクラスメート。


「おはよ、三井くん」

「おっはよ。今日も早いね。眠たくない?」

「もう慣れたから」


 三井くんは郁と仲が良く、私の家の場所も事情も知っている。

 ……というか、三井くんの誘導尋問に引っ掛かって、情けなくも話してしまっただけなんだけど。


「アイツ、今日はサボるってさ」

「へ、へぇ……えっと、縡子さん?」

「昨日、バッサリフラれたらしいから」


 フラれた。

 三井くんの言葉を何度か反芻して、笑えなくなる。

 ……フラれたんだ、郁。


「三井、あんまり帆夏を悲しませないで」

「あはは、ゴメン。正確に言うと、娘に彼氏が出来て、複雑な父親の心境を体験中?」

「……ふーん」


 父親って……郁は縡子さん相手に何してたんだろ。

 中学時代の郁が想像できなくて、また寂しくなる。

 困ったような表情で見られているのに気付きながらも、私にはそれをどうすることも出来なかった。

 ようやく電車は目的地に着き、数時間振りに外の空気を吸う。

 当たり前だけど、空には太陽が完全に顔を出している。


「……まぁ、何だかんだ言って、学校来るだろーけどな」

「うん?」

「そう思うんなら、さっきの台詞はいらなくない?」

「かもね」


 華南の鞄攻撃を避けながら、三井くんはケタケタと笑う。

 最後の最後に華南の蹴りが入ったときには、私も笑い出していた。


「ってーな……この凶悪女」

「うっさい。帆夏を苛めた罰よ」


 大袈裟に座り込んだ三井くんの頭に、最後の1発。

 ぐぇ、と変な声を出して、彼は地面に倒れた。

 ……ぐぇ、って。


「帆夏、行こっ」

「う、うん」

「水城ー、見捨てるのかぁ」

「う……ごめんなさいっ」

「っ! ……俺、ショック死しそう」

「死んどけ、あほ」


 うずくまる彼にそう吐き捨てて、華南は改札を出て行く。

 三井くんの"見捨てる"発言に迷いながらも華南を選んだ私は、背中に視線を感じながら改札を出た。


「華南、三井くんが……」

「放って置いていいよ。中等部んときからあんなだし」


 そうなんだ、と頷きつつ、やっぱり不安で1度だけ後ろを振り返る。

 三井くんの姿は、なかった。


 ☆


 それから三井くんに再び会ったのは、2限目が終わった頃。

 郁と2人連れ立って登校してきたので、あれから寮に行っていたらしい。


「俊晴ー、ちょっと」

「んあー? 父親の気分を体験中の郁くん、どうかしましたか」

「……なんだよ、それ。意味不明」


 呆れたような表情で三井くんを見下ろす郁。

 ついその姿を見つめてしまっていると、不意に視線を上げた郁と目が合ってしまった。


「んですか、水城さん」

「いいいいいいや何も」


 どど吃った! と冷や汗をかきつつ、首を左右に振る。

 顔が青くなるのを感じていると、郁が突然私に背を向けた。


「……っ」

「あー照れてる照れてる。郁ちん、照れてるー」

「死ねっ、あほ」


 うわ、今朝も聞いた気がする。

 当の三井くんは何事もなかったようにヘラヘラと笑いながら、郁の背中に何か文字を書いている。

 ちょうど机に隠れてしまって、何を書いているのかはわからなかったけど。

 でも、三井くんのことだから、郁にとって恥ずかしいことを書いたのだろう。


「うわーっ!」

「郁くん、ごらんしーん。ぷ」

「っざけんなよ、俊晴!」


 今朝は蹴りと鞄だったが、次は教科書が三井くんの頭にクリーンヒット。

 報われそうにない人だなぁ、としみじみ思っていたら、郁がこちらを見た。

 あ、顔が微かに赤い。


「見ないでくれませんか」

「はぁ」

「……っ、くそ」


 ボソボソと何かを呟いた後、郁は三井くんの机から数学の教科書を奪って、自分の席に戻って行った。

 その一連の動作を目で追っていたら、今度は本気で睨まれた。


「そうそう。水城のこと、帆夏って呼んでいい? 俺も俊晴でいーし」

「え、あ、別にい……」

「俊晴っ、てめーふざけんなよ!」

「郁に聞イテマセーン。悔しかったら、郁も頼めばー?」


 何を言ってるんですか、三井くんっ!

 郁と私がどんな関係なのか知ってるくせにーっ!

 許可なんて、とうの昔に下ろしている。

 中学で離れて以来、1度も呼ばれたことはなかったけど。

 呼んで……くれるよね?


「それは……無理」


 だけど、郁の返事はそんな淡い期待を見事に裏切ったものだった。


 ☆


 初めて"帆夏"と郁に呼ばれたのは、中学に入る少し前。

 その頃は郁も同じ中学に通うと思っていた。

 まだ別れてしまうなんて、知らなかった頃。

 たった数週間だけの"帆夏"は思ったよりも私に幸せを与えてくれていた。


「帆夏、元気出しなって。郁も照れてるだけだよ!」

「華南や縡子さんのことは、呼び捨てなのに?」

「それは友達だから」

「……彼女いるのに、照れる必要なんかあるの?」


 私が視線を移すと、華南もつられるように教室の端を見た。

 そこには郁と……あの日縡子さんの所に行くとき、教室に郁を呼びに来た人。

 璃那、と誰かに呼ばれていた気がする。


「璃那もただの友達だけど?」

「……そーなのかな」


 その割には話してる距離が随分近いと思うけど。

 そう小さく零すと、華南は言葉を詰まらせた。

 ほらね、と思ってしまった私はたぶん嫌な子、だ。


「華南ー、ちょっといーい?」

「はーい……ちょっと行ってくるね」

「うん、行ってらっしゃい」

「ごめん、すぐ戻るから!」


 璃那ちゃんに呼ばれた華南は困ったような表情を見せつつ、郁たちの方へ駆けて行った。

 華南と入れ替わるようにして、三井くんが近付いてきた。

 教室の隅を見ないように注意しながら、私は顔を上げる。


「三井くん、どーしたの?」

「あー、うん。……さっきはゴメンな? 嫌な思い、させちゃって」


 三井くんはシュンとして言った。

 気にしてないよ、と笑うと、もっと悲しそうな顔をする。

 三井くんが悪い訳じゃないのに。


「その、郁は帆夏ちゃんのこと」

「俊晴っ!」


 何かを言おうとした三井くんを邪魔するかのように、郁の声が飛んでくる。

 何処か慌てたような様子なのは気のせい?

 ……気のせいだよね。

 だって慌てる理由なんかない。


「なんだよっ、郁」

「……っ、図々しく名前で呼ぶなよ」


 ずるっ、と椅子から落ちたくなったのは私だけだろうか。

 そこ、郁が怒るところじゃないでしょ。

 ……なんて、口に出しては言えないけど。


「……地獄耳だよな、アイツ」

「あ、ははは」


 私だけでなく、華南と璃那ちゃんも郁の隣で苦笑いしている。

 郁だけが何処か不機嫌そうに三井くんを睨んでいた。

 でも、それだけ。

 それ以上は何も言わないし、私には何も話し掛けない。

 郁が話すのは、隣にいる華南か三井くん。

 近くにいるから、余計に苦しくなる。

 届きそうで届かないから、泣きたくなる。


「私、教科書忘れたみたいだから、図書室に借りに行ってくるね」


 なんだか居づらくなった私はそう言って立ち上がり、三井くんから離れようとした。

 ……教科書なんて、忘れてなんかない。

 ちゃんと机の中にある。


「大丈夫? もうすぐ授業始まるけど……俺の、貸そうか?」

「いいよ。てか、三井くんも同じ授業受けるんだから使うでしょ? ちゃんと勉強してくださいー」

「うはー、帆夏ちゃんに怒られちゃった」


 重々しい空気を軽くするためか、三井くんはいつも以上にヘラヘラしている。

 そんな彼の優しさに感謝しながら、私は教室を後にした。


 ☆


「……のか……帆夏っ」


 ……懐かしい、声。

 あの頃より低く響く音に、私は身を委ねる。

 これは夢だ。

 いつかは覚めるとわかっているから、だからもう少しこのままで……。


「もたれるな、抱きつくな、寝るなっ」

「うへ?」


 夢ならあの頃の優しい彼のままかもしれない、と思って腕を伸ばしたが、思い切り振り解かれた。

 ……あぁ、夢でも嫌われてるんだね。

 なんか笑えちゃうな、私。


「今度は笑い始めたし……だから地元の高校に通えっつったのに」

「そんなこと言ったんだ。郁ちゃんひっどーい」


 ……あ、三井くんの声だ。


「そりゃ追いかけてきたくなるよねぇ。待ってて、くらい言えなかったの? 男のくせに」


 次は……誰だろう。

 華南の声ではないから、璃那ちゃん?


「あれ。でも帆夏、高校に来るまで1度も郁と会ってないって言ってたけど」


 これは、華南だ。

 賑やかな、夢だな……。

 本当に、賑やかで幸せな夢。

 郁には触れられないけど、意外な一面が見れて楽しい。


「うっわ、じゃあまさか人伝い? ……郁って、本当ろくでなしで最低ね」

「お前ら……人が黙ってたら」

「挙句の果てには縡子と付き合ってるって勘違いされてるよな、郁」

「ぶ……ますますバカじゃん」


 郁がいじられてる。

 本当、こんな郁は初めて見たかもしれない。

 ふふふ、と溢れてきた笑みを止めることなく零すと、みんなの視線が集まった。

 ……って、あれ?

 なんかとてもリアルに視線を感じるんですけど。


「……はぁ」


 郁がとても疲れたようにため息を吐く。

 状況を把握し切れないまま首を傾げると、勢いよく頭を本で叩かれた。


「さっさと起きろよっ。今何時だと思ってんだよ? 何、水城は教科書借りるのに3時間もかかるわけ?」

「呼び方と話し方が戻ってるよー」


 三井くんがおかしそうに突っ込む。

 郁は少し頬を赤くして、彼を私と同じように殴った。

 ……3時間?

 あぁ、そっか。

 なんとなく教室に戻りたくなくて、1時間だけサボることにして寝ちゃったんだ……って。


「さ、3時間っ!?」

「帆夏ちゃん、おっはよー」

「もう、帰って来ないからびっくりしたよ?」


 呑気に挨拶してくる三井くんに、少し怒った顔の華南。

 そして、璃那ちゃんが郁の後ろから顔を覗かせている。


「……えっと」

「あ、私、渡辺璃那っていうの。よろしくね、帆夏ちゃん」

「は、はぁ」


 上手く回転しない頭で、取り敢えず頷いてみる。

 それより、私はいつ夢から覚めたんだろう。

 何処から現実だった?


「この調子じゃ、寝ぼけて覚えてなさそうだね。よかったねぇ、郁ちゃーん?」

「……俊晴、口縫うぞ」

「いやーん、郁ったら。もう、て・れ・な・い・のっ」

「あはは、俊晴は本当変わんないねぇ」

「どーも」

「褒めてないし!」


 みんな背筋が凍ったような表情を見せたのに、璃那ちゃんはツボにはまったのか、お腹を抱えて大笑いしている。

 ……三井くんといい、璃那ちゃんといい。

 郁の周りはちょっと変な人が多い……気がする。

 元々人に好かれやすい性格だったから、勝手に集まったんだろうけど。


「さぁて。帆夏ちゃんも見つかったし、帰ろっか」

「かえる……」

「もう放課後だよ」


 さーっと血の気が引いていくような気がした。

 教科書を借りに来たのが昼休みが終わる頃だったから……3時間も経てば、今が放課後なのは当たり前。


「か、華南」

「ハイハイ。ノートなら見せますよー」

「ごめんね、ありがとーっ」

「分からないとこがあったら、そうだな……郁に聞きなよ?」


 華南が怪しい笑みを浮かべて、何処か楽しそうに言った。

 璃那ちゃんと三井くんも意味深に頷く。

 当の郁はギョッとしながら華南を見ていた。


「えっと、華南?」

「いーじゃん、幼馴染なんでしょ」

「あのー、華南さーん?」


 今の私たちを見て、まだ幼馴染だと思えるんですか?

 と言葉裏に言ってみたが、伝わるはずもなく。


「郁、よかったね?」

「は、え、こ、これの何処がよかったなわけ?」


 璃那ちゃんに腕でつつかれる郁は眉間に皺を寄せた。

 確かに、何処がよかったのか分からない。

 郁にとっては逆だと思う。

 ……私は会いたくもない、遠い昔の知り合いなんだから。

 それに、そこは彼女の璃那ちゃんが止めるところなんじゃ……?


「うーん。華南が無理なら、先生に聞こっかな」

「え?」

「ちょ……帆夏? 何、遠慮……」

「だから大丈夫だよ……葛城、くん?」


 そうだよ。

 私はこれ以上嫌われるために、ここに来たんじゃない。

 ただ郁の学校生活を見てみたかっただけ。

 小学校以来見ていない、郁の姿を見てみたかっただけ。

 ……私の知らない郁に会いたかった、だけ。

 本当に影からこっそり見れるだけでよかったから、同じクラスになることなんて考えてもなかったけど。


「わざわざ探してくれて、ありがと。私、先生のとこに行くから、先に帰っててね」


 郁は私のものなんかじゃない。

 だから、離れなきゃ。

 郁から、私は離れなきゃいけない。


 ☆


「……失礼、しました」


 担任から軽いお叱りを受け、サボった授業の先生から課題を受け取って、職員室を出る。

 今までの積み重ねからか、それほど怒られることはなかった。

 重い足を引きずりながら、薄暗い廊下を進む。

 階段に差しかかったとき、物陰で何かが動いたような気がして足を止めた。

 目を凝らすと、そこには見知った姿があった。


「……三井、くん?」

「あれ、見つかっちゃった?」


 踊り場からひょっこり頭を出して、三井くんはいつもの笑顔を見せた。

 先に帰ってて、と言ったのに。

 顔から表情が消えるのが、自分でも分かった。


「……帆夏ちゃんは、さー」


 何時になく真剣な面持ちで、彼は階段を降りてくる。

 1段1段を踏み締めるように、ゆっくりと。


「郁のこと、本当に知ってるの?」


 目の前で立ち止まった三井くんは、私を冷たく見下ろして言った。

 私は何も答えずに彼を見上げる。

 しん、と静まり返る階段に、体育館からの笛の音が微かに響いた。


「帆夏ちゃんは、本当に郁の幼馴染?」

「……三井くん、どうかしたの? そうだって、この前言ったじゃない」


 その場を取り繕うような笑みを浮かべると、三井くんはもっと顔を歪めた。

 ……本当に郁はみんなに慕われている。

 本当、羨ましいくらいに。


「ただの幼馴染、ってね……だったら、どうして」


 例外もなく、三井くんもその1人だ。

 苦しげな表情は、全部郁を思って出ている。


「どうして、郁の前に現れたんだよ?」


 郁はあんなんじゃなかった、と三井くんは小さく零した。

 帆夏ちゃんがこの学校に来てから、郁は最初に戻ってしまった、と。

 それを落とすことなく拾った私の耳は、残酷だ。

 胸が苦しい。

 私は……私は、彼らの中の、いつもの郁を知らない。

 彼らの言う、最初の郁も知らないと思う。

 私は、幼い笑顔を見せる、郁しか知らない。

 ……ね、最初の郁って何?


「……郁は強がりだけど、弱いんだ。幼馴染なら知ってるだろ?」

「そう、なんだ。私の前では、そんな素振りは1度も見せなかったから……ごめん、知らなかった」


 耳を塞ぎたい。

 何も、聞きたくない。

 何も……知りたく、ない。

 プリントの束を落とさないように腕に力を込める。

 足が震えているのを感じた。

 それでも尚、私たちは視線を交えたまま。


「郁は」

「もういい? 電車、遅れるから」


 まだ何かを言おうとする三井くんの側をすり抜けて、階段に足を掛ける。


「帆夏ちゃん」

「もうすぐ三井くんが言ってる、いつもの郁に戻るんじゃないかな」


 私はそう呟いて、三井くんから逃げるように階段を駆け上がった。

 そう、いつもの、私の知らない郁に戻る。

 私がどんなに昔を、今を望んでも、きっと。

 ……私の知らない場所で、郁は私の知らない郁になる。


 ☆


 電車に揺られて、いつもより少し遅く家に帰ると、玄関に見慣れない男の靴が並んでいた。

 それを数秒見つめてから、何事もなかったかのようにリビングに向かう。


「ただいまー」

「お帰りなさい、帆夏」


 お母さんが台所から顔を出す。

 ソファの方に視線を移すと、そこに座っていた人と目が合った。


「お帰り……大きくなったな、帆夏」

「……お父さんこそ、お帰りなさい」


 いつの日からか、叶わなくなった私の願い事と同じように。

 今の私の願いも、きっと叶わない。

 だって、君に伝えるつもりはないから。

 伝えなきゃ、君は私の願いなんて分からないでしょ?

 何も、気付かないでしょ?

 だから、叶わない。

 だから、叶えられない。

 ……もう違う道を歩こっか。

 ね、郁。


 ……私には家族との思い出が、ほとんどと言っていいほどない。

 物心がついた頃には既にお父さんの姿はなかった。

 いや、ないんじゃなくて見なかっただけだ。

 朝早く家を出て、夜遅く帰ってくるお父さんと生活のリズムが合わなかっただけで。

 やっと合い始めた頃に単身赴任で家からいなくなっただけで。

 今思えば、郁を兄だけでなく父親代わりに思っていたのかもしれない。

 明らかに家族よりも郁の方が一緒にいる時間が長かったから。

 そんなお父さんが一時帰省すると聞かされたのは、4月。

 新学期が始まる少し前のことだった。


「お父さんね、海外赴任になるらしいの」


 突然の言葉に驚いたことを覚えている。

 お父さんが何の仕事をしているのかを、私は知らない。

 何処かの商社マンだとは聞いたことがあるけど。

 でもまさか海外赴任もあるような仕事だとは思っていなかった。


「帆夏も落ち着いたし、ずっと行きたかったから引き受けたんだって」

「……ふーん」

「帆夏は好きなようにしていいからね。一緒に行ってもいいし、寮に入って残ってもいいし」

「お母さんはどうするの?」

「ついて行くつもりよ」


 冬休みまでに考えておきなさいね。

 そう言われて、その話は終わった。

 あれから数ヶ月。

 まだ冬休みは遠いけど、お父さんは先に旅立つらしい。

 一時帰省は、私のこれからを決めるのと荷物を纏めるためだった。


「帆夏、こっちに来なさい」


 お風呂から出てリビングに行くと、2人ともかしこまったようにソファに座っていた。

 私は冷蔵庫から出したジュースで喉を潤してから、空いた場所に腰を下ろす。

 ……とうとう、そのときが来たんだ。


「早速だが……どうするか、もう決めたか?」


 お母さんはお父さんの隣で笑っているだけ。

 何も口出ししません、という証だ。


「……一緒に行こうと思ってる」

「……そうか。友達が出来て、1番楽しいときだろうに……すまないな」

「ううん、家族みんなで暮らすのが夢だったし。ね、お母さん」

「帆夏……そうね」


 何処か悲しそうな笑みを浮かべたお母さんを見て、慌てて視線を外す。

 勘づかれてるかもしれない……全部。

 もしそうだとしても、今の勢いを崩しちゃいけない。

 崩されちゃいけない、のに。


「でも……郁くんはいいの?」

「郁……あぁ隣の息子さんか」

「えぇ……今郁くんと同じ学校に通ってるのよ。同じクラスだったかしら」

「そう、だけど」

「そうなのか。小さい頃よく懐いていたよな」


 懐かしそうな表情で、お父さんは笑った。

 そして、ふと何かに気付いたようにそれを止める。

 ……お父さんにまで、気付かれてしまったかもしれない。


「……郁くん、か。久々に会ってみたいもんだな」

「そうねぇ。私も郁くんが寮に入ってから会ってないわ。……あら、でもあなた、郁くんに会ったことあったかしら」

「1度だけ、会ったことがあるよ」

「そう。とってもいい子でしょう?」


 だんだん暗くなっていくお父さんとは正反対に、お母さんの周りにはとうとう花が舞い始めた気がする。

 半ばそれを呆れたように見つめて、私は立ち上がった。


「もういい? 宿題があるから」

「あ、あぁ。おやすみ」

「おやすみなさい」


 気持ちが少しだけ揺らぐのを感じながら、私はリビングを出て自分の部屋に向かった。

 後ろ手にドアを閉め、ゆっくりと窓際に近づく。

 カーテンの向こうに郁の部屋が見え、そして星が少しだけ見えた。

 いつものように窓を開けようとして、ふと手を止めた。

 ……郁から離れるって決めたんだ。

 ギュッと手を握り締めて、私はカーテンを掴んだ。

 もう1度だけ空を見上げてから、思い切りカーテンを閉める。

 ……これも、止めるべきだ。

 そう、呟いて。


「……っ、すき、だよ……ずっと、す、きだっ、た……い、く……」


 カーテンにしがみついたまま、私は涙を流した。

 止めどなく流れる涙は、郁に対する想いと同じ。

 止まることなんか、知らない。

 私は一晩中ベッドの中で泣き続けた。


 ☆


 そして、冬休み目前。

 こんなときだけ早く進む時間に嫌気を覚えつつ、微妙な想いを持て余していた。

 家の中には中身の詰まった段ボールが所狭しと置かれて始めて。

 寂しい気持ちを押し込んで、私も荷造りを進めた。

 部屋には最小限の服と手荷物しか残っていない。

 あと、この家に残していくものと。

 ……あれから、郁とも三井くんとも接触していない。

 朝も乗る時間や車両を毎日変えるようにして。

 休み時間になるとトイレや空き教室に逃げて、チャイムが鳴るギリギリに戻ってきて。

 なるべく話しかけられないように、視界に入れないようにする日々を続けていた。

 しばらくもすれば、そんなことをしなくても、2人は避けてくれるようになったけど。

 ……というか、郁には避ける必要もなく、いつも通り向こうが避けてた。


「もうすぐクリスマスだねー」


 中間考査が終わり、少し余裕が見えてきた華南は、雪がちらつき始めた空を見ながらそう呟いた。

 そうだね、と答えて、私は手元から顔を上げる。


「今年はどうする? ……璃那たちとパーティしないかって話が出てるんだけど……」


 誰もいなくなった教室に、少しだけ気まずい空気が流れる。

 きっとそれも承知の上で、華南はそんなことを言ったんだろうけど。

 ……でも、ちょうどよかった。

 どう切り出そうか、迷っていたから。


「ごめん、それはちょっと」

「だ、だよね! じゃあ今年も2人でやろっか」

「あのね、華南」


 ん? と楽しそうな面持ちでこちらを見てくる華南に心を痛めながら、私は本題を切り出した。


「クリスマスパーティ、出来ないんだ」

「え、あ、そっか。残念だな……あ、初詣は?」

「それも、無理なの」


 どうやって言おうかとずっと考えていたのに、上手く話し出せない。

 現実は上手く行かないなって、涙が出そうになる。

 机の上に視線を落として唇を噛み締めていると、華南は不審に思ったのか顔を覗き込んできた。


「……どうかした?」

「……私ね、華南」


 大きく息を吐いて、顔を上げる。

 どう思われても仕方ない、そう覚悟は決めたつもりだ。

 嫌われても、軽蔑されても……今まで言えなかった私が悪いから。


「学校、辞めるんだ」


 アメリカに行く、と小さく付け足す。

 華南は一瞬目を大きく見開いて、そして戸惑ったように笑い出した。


「何、それ? 全然笑えない冗談だよ」

「本当だよ」

「なんで……っ! いつから? いつ、それ決めたの?」


 ガタン、と音を立てて立ち上がった華南は、詰め寄るように顔を近付けてくる。

 それに怯まないよう言い聞かせながら、私は口を開いた。


「私が郁や三井くんと距離を置きたいって言った日」

「もう1ヶ月も前じゃない。どうして……なんで、もっと早く」

「ごめん、ね」


 華南は辛そうに顔を歪めて、下を向いた。

 肩が震えてるから、泣いているのかもしれない。

 ……そんなはずないか。

 自嘲気味に笑っていると、華南はゆっくりと私と目を合わせた。


「もう、決めたんだね」


 声が震えている。

 ……目に涙が浮かんでいる。

 華南は……どうして私にそんな表情をしてくれるのだろう。

 ずっとずっと黙っていたのに。

 怒られると思っていた私は戸惑いを隠せないまま、華南を見ていた。


「郁はどうするの? もういいの?」

「……うん、もういい」

「いつ、帰ってくるの?」

「わからない。もしかしたら、帰ってこないかもしれない」

「そっか……」


 それっきり華南は何も聞いてこなかった。

 静かな教室は、私の心を傷付ける。

 でも今はその痛みが心地よい。

 これでいいんだ。

 ……これで、いいんだよ。


「帰ろっか」

「うん」

「このこと、誰にも言わないでね」

「え……でも」

「お願い、ね?」


 念を押すように言うと、納得がいかないような表情を見せながらも渋々頷いてくれた。

 華南以外に報せるつもりも知ってもらうつもりもない。

 ……特に郁には知らないままでいてほしい。


 ☆


 暗い気持ちのまま家に着くと、玄関前にトラックが止まっていた。

 中から段ボールを抱えた人が出てくる。

 そっか……今日荷物を出す日だったんだ。

 もう、後戻りは出来ない。

 どんなに辛くても、私には行くという選択肢しか残されなくなる。

 荷物を運び出す邪魔にならないように家の中に入ると、お母さんが笑顔で出迎えてくれた。


「お帰り、帆夏」

「ただいま。荷物、順調?」

「えぇ、もうほとんどトラックに詰め終えたわ」

「そっか」


 ガランとした家の中を見渡して、私は頷く。

 もう本当に必要最小限しか残されてないここに、生活感はない。

 何とも言えない気分になっていると、荷物を運び終えた宅配の人がお母さんに駆け寄ってきた。

 その人に小さくお辞儀をして、私は自分の部屋に駆け込む。

 ……お別れだ。

 本当に全部。

 長年住み慣れたこの家も、郁のお隣さんも幼馴染も全部手放すんだ。


「あはは……寂しいな、やっぱ」


 閉ざされたままのカーテンの向こう。

 いつかまた、きっと影を見つけ出せると思ってた。

 向かい合わせで、あの頃みたいに星を見上げて。

 ……流れ星を探して。

 見つからなかったら、瞬く星に願いを呟いて。

 でも、もうその先に誰かを見ることは、ない。


「い、く……」


 もう、郁を見ることはないんだ。


 ☆


 そして、華南ともギクシャクしたまま迎えた最後の日。

 担任に頼んで、まだクラスには何も報せてない。

 最後の日をいつも通り笑って過ごしたいから。

 涙なんて見たくないから。

 担任には少し変な顔をされたけど、ただそれだけだった。


「最後、だね」

「……華南」

「あのさ。放課後、ちょっとだけ残ってくれない?」

「うん……いいよ」


 よかった、とほっとしたような華南と微笑み合う。

 これももう最後かもしれないと思うと、とても胸が苦しくなった。

 溢れそうになる涙を堪える。

 ちょっとだけ目が赤い華南も涙を拭った。


「なーんかおかしいよね、私たち」

「なんで?」

「だって永遠の別れじゃないんだし。頑張れば、会いに行けない距離でもないし」

「確かに、ね」


 そうだよ、何も死にに行く訳じゃない。

 生きているんだから、絶対に会えないことなんかない。


「絶対会いに行くから、帆夏も会いに来てね」

「……うんっ」


 約束、と小指を絡ませて笑い合う私を、苦々しい表情で見ている人がいるなんて気付きもしなかった。


 ☆


 華南は意地悪だ。

 あの日の約束を……聞き入れてくれなかったんだから。

 何も知らない私は何の疑問もなく、言われたように教室で華南を待っていた。

 しばらくして、ドアがゆっくりと開かれる。

 華南だと思ってそちらに視線をやり、私は目を見開いた。

 ……そこに立っていたのは、華南じゃなくて、郁だった。

 慌てて郁から視線を外し、鼓動を早くした心臓を落ち着かせようと大きく息を吐いた。

 忘れ物でもしたんだろう。

 彼が来た理由をそう解釈した私は、今郁が目の前に来たことに戸惑いと焦りを感じている。

 廊下側の席の郁が、教室の真ん中辺りの私の席を通り過ぎることはない。

 私の目の前にいるということは、私に用があるということ。

 顔を上げると、そこには苦々しい顔をした郁が私を見下ろしていた。


「……んで」

「え?」

「なんで……っ!」


 肩をグッと掴まれ、無理矢理立たされる。

 突然の郁の行動に抵抗する間もなく、抱き寄せられた。

 そして、息が出来ないくらいきつくきつく抱き締められる。

 上手く回らない頭の片隅で、私は何となく状況を理解する。

 私を教室に残らせたのは、華南のためじゃない。

 他でもない、郁のため。

 言わないでねって言ったのに、知られたくなかったのに。


「行くなよ……」


 郁の苦しそうな声が耳元で聞こえる。

 私の胸もそれに同調するように、ギュッと縮む。

 ……だから、嫌だったのに。

 だから、言いたくなかったのに。

 知って欲しくなかったのに。


「……ほ」

「離してくれないかな……葛城くん?」

「の、か……?」


 腕に力を入れて郁の胸を押すと、思ったよりも簡単に離れてくれた。

 傷ついたような顔。

 結局、私は郁を苦しめることしか出来ない。

 言っても言わなくても、私は郁を傷つけた。

 改めてそう感じて、悲しくなる。

 幸せには出来ないんだね、この手では。

 郁を、笑顔には出来ない。


「帆夏、って呼べないんじゃなかったっけ?」


 それなら、思う存分に傷つけよう。

 嫌いになればいい。

 私を憎むくらい、嫌いになればいい。

 そうすれば、郁は私から離れて、幸せになれる。

 幸せになって、郁。

 痛いのは、苦しいのは、私だけでいいよ。

 だから、そんな顔しないでよ……。


「っ……俺は」

「てか、行くなって何のこと? 私は何処にも行かないけど」

「……華南から、聞いた。アメリカ、行くんだろ?」


 やっぱり言ったんだ、華南は。

 その優しさを初めて憎く思う。

 この調子なら、三井くんも璃那ちゃんももう既に知ってるんじゃないだろうか。

 わかってる。

 全部私のためにしてくれてるって。

 私が後悔しないように、言ったんだって。

 でも、今だけはその優しさに甘えることは出来ないんだ。

 ごめんね……華南。


「……だったら、何? 葛城くんには関係ないと思……っ」


 郁の手が頬に触れる。

 優しく撫でる仕草に、私は言葉を繋げられなくなる。

 もどかしい痛みだけが心を占めていく。


「郁って呼べよ……あの頃みたいに」

「は? ……あの頃って何のはな」

「俺を葛城なんて、よそよそしく呼ぶな」


 そう言って、再び私を腕の中に収めた。

 今度は緩く優しく、脆く壊れやすい硝子に触れるかのように。

 ……苦しい。

 何も締めつけるものはないのに、苦しい。

 私は、弱くない。

 そんな脆いものじゃない、よ……。


「ごめんな、帆夏」

「……っ」


 少しだけ抱き寄せられて、私は一瞬息を止めた。

 触れるか触れないかの微妙なラインで、腰から背中に郁の片手が動き、肩を柔く掴んで、また引き寄せられる。

 抵抗、しなきゃ。

 この中にいちゃいけない……。

 そう思うのに、体は言うことを聞いてくれない。

 いつか望んだ瞬間に、身を委ねてしまう。


「……ごめん」


 ただただ、郁の言葉を聞き入れることしか出来なかった。


 ☆


 ようやく解放されたときは教室の暖房も切られ、冷たい風が何処からか教室に入り込んで体温を奪っていた。

 すっかり冷えてしまった手を擦り合わせていると、骨張った大きな手がそれを優しく包む。

 顔を上げると、郁が申し訳なさそうな表情を浮かべた。


「冷えたな。暖房……何処か効いてないかなぁ」

「図書室とか、保健室なら、夕方までつけてるって聞いたけど」

「じゃあ保健室、でいい?」


 小さく頷くと、ほっとしたように郁は小さく笑って、私の手を離した。

 あ、と思う間もなく、片手が郁と繋がる。

 そして、空いた方の手は既に私の鞄が握られていた。


「鞄は?」

「もう寮の部屋に置いてきたから」


 行こう、と手を引かれて、私は歩き出した。

 教室を出るとき、少しだけ涙が出た。

 ……もう、この教室を使うことはない。

 なんだか寂しい。

 毎年教室を変わっているはずなのに、今日はとても切ない。


「……帆夏?」

「何でもない。行こう」


 覗き込んでくる郁から逃げるように、顔を背ける。

 郁の心配そうな視線を振り切って、1歩前へ踏み出した。

 だけど、2歩目は出なかった。

 出せなかった。

 それは、郁の手によって。


「一人で泣くなよ?」

「泣いて、ないし」

「なら、いいけど……」


 繋がれたままの手に力が込められる。

 目が合うと、郁は優しく笑った。

 あの頃の面影を少しだけ映して。

 今、更。

 郁から視線を外して、そう思う。

 今更、見たかった表情が見れるなんて。

 遅すぎるよ……遅すぎる。

 もう会えないのに。

 もう、会わないと決めたのに。

 忘れようって、新しい道を歩こうって決めたときに、ずっと癖のように呟いていた願いが叶うなんて。

 意地悪だ、お星様は。

 私は今この時のために願ったんじゃないのに。

 ……あの頃よりもバカだね、お星様。

 私も、たぶん君も。


 ☆


「俺は……逃げたんだ」


 自動販売機で温かい紅茶を買ってもらって、私と郁は誰もいない保健室に入った。

 先生は何処かに出ている模様。

 あまり長くはいられないと分かっているからか、すぐに郁は口を開いた。

 私は紅茶を飲むのを止めて、郁を見る。


「帆夏から、逃げたんだ。母さんにさ、見られちゃって。……帆夏の願い事を叶えようとしてるとこ」


 気付いてたよな? とつけ加えられ、私は頷いて答えた。


「"このままじゃ、帆夏ちゃんの未来をダメにしちゃうよ"って言われてさ。……そんなつもりはなかった。ただ帆夏の笑顔が見たくて、帆夏に1番近い人間になりたくて。でも……帆夏の未来を潰すかもしれないって言われて、怖くなったんだ」


 幼心に思い付いた、幸せにする方法。

 それが不幸を呼び寄せているとは思わなかった。

 ……気付いてはいたんだと思う。

 気付かないフリをしていただけで。

 願い事が叶い始めて、変わっていった。

 願えば叶うから、努力しなくなった。

 それ以上、叶え続けたらもっとダメになっていく。


「一応、私立は腕試しに受けてたから。合格通知が来たとき、迷わずにそこに行くことにした。……これ以上、帆夏の隣にいちゃいけないと思ったから」


 追いかけてくることはないけど、言えなかった。

 だから、突然消える形になった。

 そう、郁は続ける。

 私はまだ温かい缶を握り締めて、ただその声を拾いあげることに専念する。

 消えてしまいそうな、声だった。


「高等部に上がったとき、帆夏がいて心底驚いたんだ。それで……ちゃんと元の帆夏に戻ってて、よかったと思った。外部入学なんて、相当頑張らなきゃ無理だろ? ……ちゃんと頑張ったんだなって安心したんだ」


 それでも、また自分が近くにいれば、同じことを繰り返すかもしれない。

 そう思うと、知らないフリしか出来なかった。

 怖くて、ただ怖くて、そうするしかなかった。


「でも、昔からの知り合いに無視される方が辛かったよな。ごめんな、帆夏。……弱い、俺で。本当、ごめん」

郁は残っていた紅茶をぐいっと一気に飲み干し、私から逃げるように俯いた。


 その表情は見えない。

 ただ影を落とした郁が、あの頃よりも小さく見えた。


「……んで」


 ……あの頃、私は郁の帰りをずっと待っていた。

 学校が違うことは仕方ないから、せめて休みの日だけでも会えないかなって。

 ……ずっと待っていたのに。


「なんで……あんなこと言ったの? "お星様に大きな声で願い事を言えば叶えてくれる"なんて!」


 叶えてくれないじゃない。

 叶えてたのは、お星様じゃなくて郁だったじゃない。

 郁が、自分を犠牲にして。


「……っ、叶えるんだったらね、全部叶えてから消えなさいよっ」

「……え?」


 郁が不思議そうな表情で、顔を上げる。

 それを見て、私は確信した。

 涙が視界を覆っていく。

 ゆらゆら揺れる中の郁は、あの頃の郁と何ら変わらない。

 確かに、郁は全部叶えたんだ。

 私が郁の隣で言った願い事は、全部。


「あんな嘘、とっくに気付いてたよっ」


 気付いたのは郁がいなくなったからじゃない。

 それよりもずっと前に、私は知っていた。

 ただ信じたくなかっただけで。


「郁の嘘つき。願い事なんて、叶えてくれないじゃない。……郁と一緒にいたいって言ったのに……郁は適当に言った男の子との仲を取り持とうとした、しっ」

「……っ、うそ、だ」

「郁がずっと、好きだったのに……!」


 言うつもりのなかった言葉が出て、溢れ出した涙が郁を隠す。

 見えない、郁がどんな表情かなんて、見れない。

 私は両手で顔を覆った。

 揺れる、揺れる。

 ……お母さん、ごめん。

 夢、叶えられそうにもないよ。

 私は……ここに、郁の近くにいたい。

 郁とそういう仲になれなくても、ここで彼を見ていたい。

 ギシ、と音が立ち、覆っていた手を外して顔を上げた。

 その瞬間、私は心地よい温もりに包まれた。


「帆夏……っ」


 強く回された腕に応えるように、私も腕を伸ばす。

 やっと、触れた君の温もり。

 私はきっと離せない。

 もう、離さない。


「好き、だ。俺もずっと好きだった」

「い、くっ」


 郁は力を緩めると、私の顔を見下ろした。

 涙を拭わないままの顔に気付き、慌てて離れようとするが、優しい腕に拒まれる。


「泣き虫なのは変わらないな、帆夏」

「な、何言ってんのよ。泣き虫じゃ、ないしっ」


 頬を伝う手に、また溢れてくる。

 こんなんじゃ、私はからからに枯れてしまうかもしれない。


「泣き過ぎだよ、お前」


 何処か嬉しそうな郁に、何も返せなくなる。

 何も、いらない。

 ただこの瞬間が1秒でも長くあれば、いい。

 でも。

 タイムリミットは刻一刻と迫ってくる。

 今更、変えることなんて出来ない。

 変えられない現実。

 別れは必ずやってくる。

 どんなに願ったとしていても。

 ……本当に、遅かったね。

 もう少し私に勇気があれば、もっと君といられたかもしれないのに。

 郁とずっといられたかもしれないのに。

 郁のお母さんが察したように、私は郁の言葉に頼りすぎて、ダメになってしまった。

 気付いてたのに、自分からダメになってしまった。

 お星様に願って、祈って、ただそれだけ。

 ……それだけ。

 本当に叶えたい願いも叶えられないまま。


「……そろそろ、帰らないとな」

「うん……」


 名残惜しさを感じながら、私たちはお互いを離した。

 空いてしまった距離は、たぶんもう縮まらない。

 保健室を出ようとして、ドアに手を掛けたとき、郁がぽつりと呟いた。


「俺、頑張って帆夏を迎えに行くから」

「え?」

「また待たせることになるけど……それまで、迎えに行けるときが来るまで、俺を待っててくれないか」


 約束しよう、と小指を立てる郁。

 つられるように私も絡める。

 ギュッと絡められた指に、また涙が出そうになる。


「また、会おう。約束だ」


 私の知らない郁が、力強くそう言った。


 ☆


 ふとさっきよりも外が暗くなっているような気がして、足を止める。

 隣を歩いていた郁も少し遅れて立ち止まった。


「……雪?」


 窓に近付いて灰色に覆われた空を見上げると、白いものがちらちら降ってくるのがわかった。

 なんだか嬉しくなって窓を思い切り開けると、冷たい風が勢いよく流れ込んできた。


「うわっ、寒いって」

「あ、ごめん……て、あれ?」


 慌てて閉めようとした手を止めて、外を凝視する。

 校門から続く道に見慣れた姿を発見して、私は首を傾げた。


「どうした?」

「……お母さん、とお父さんっぽい……」

「はぁ!?」


 郁も慌てて駆け寄って、窓から身を乗り出す。

 2人の姿を見つけたのか、小さく舌打ちをした。

 苦しげな表情が、郁に戻る。

 ……それにしても。

 もうこの学校に用はないはず……なのに、何故。

 そのとき、ふと顔を上げたお母さんが私に気付き、こちらに駆け寄ってきた。


「やっぱり学校にいたのね? あら。あなたは……」

「お久し振りです。隣の、郁です」

「まぁ! お父さんっ、やっぱり予想通りみたいよーっ」

「ちょっと、お母さんっ」


 予想通りって、何を予想してたんですか。

 それに、そんな大声で叫ばれたら恥ずかしい。

 いくら下校時間は過ぎているとはいえ、残ってる人は残ってるし、先生は確実にいる。

 お父さんはそんなことも気にしない様子で、ただ苦笑いしながらお母さんの隣に立った。


「あぁ、君が。大きくなったな」

「こ、こんにちは」


 緊張しているのか郁の声は震えていた。

 にじんだ汗に、納得して頷く。

 お父さんと面識があると言っても、最後に会ったのは十年近く前。

 初めて会うのと何ら変わらない。

 ましてや、いつかは対峙するかもしれない相手……になったらいいなと思うけど。


「あ、丁度よかったわ。今から挨拶に行くんだけど、あなたたちも一緒に来なさい」

「え……郁も?」

「えぇ、そうよ。じゃあ、そこで待ってて」

「そうよって……ちょ、待ってっ」


 引き止めようと手を伸ばすも、するりとかわしてお母さんは歩いて行く。

 お父さんも少し呆れたに肩を竦めてから、それに続いた。

 呆然と二人を見送り、姿が校舎に隠れた後、郁と目を合わせた。


「なんで、俺?」

「いや、私が聞きたいんだけど」


 何だろう、嫌な予感がする。

 あの何かを企んだような顔が怪しすぎる。


「……なぁ」

「ん?」

「俺、やっぱり頑張ってみよっかな」

「へ、な、何を?」

「……帆夏のこと、手放したくねーし」


 ぷいっと顔を背ける郁。

 でも短い髪から見える耳が、少しだけ赤いのは隠せなくて。

 ……夢、かもしれない。

 最後の最後に、お星様がくれた幸せの夢。

 何も、叶えられないから。


「帆夏? おばさん、来たみたいだけど」

「え……あ、うん」

「大丈夫か?」


 心配そうに見てくる郁に、何もない、と小さく首を振って、私は歩き出した。

 もし、これが夢だったとしても、それでもいい。

 私は今、確かに幸せだから。

 もし今、目が覚めてしまっても、最後に郁に会いに行く勇気くらい、残っているだろうから。


「郁ーっ、はーやーくー」

「ははっ、こけんなよ?」


 振り返ると、呆れたように笑う君。

 優しい眼差しに、心は温かくなる。

 ……ね、私、郁が好きだよ。

 郁が、大好き。


 ☆


 お母さんたちと合流して、向かったのはもちろん職員室。

 担任を呼ぶと、すぐに誰もいない指導室に通された。

 担任が不思議そうに郁を見つめているのは……気のせいじゃない。

 確かにおかしいよね。

 大して仲が良かった訳じゃないし。


「いつもお世話になってます」


 初めて入る指導室を見渡していると、お父さんがそう言った。

 お母さんと頭を下げたのを見て、慌てて頭を下げる。

 郁も隣で頭を下げたのが見えた。


「こちらこそ、お世話になってます。それで、今日は?」

「明日、ここを発つので、最後に挨拶をと思いまして」


 ……挨拶。

 そのために、お父さんははるばるアメリカから?

 ……何か、おかしい。

 そう思うのは、私だけ?


「明日、ですか。それでは、今日からこちらに入りますか?」

「はい。よろしくお願いします」


 入る? って何。

 訳が分からない。

 郁も同じようで、考え込むように顔を伏せている。

 お母さんを見ると、悪戯な笑みを浮かべてこちらを見ていた。


「よかったわね」

「な、何が?」

「郁くんと離れなくて済むじゃない」


 どういう、こと。

 離れるじゃない。

 だって、発つのは明日。

 迫るタイムリミットは止まらないし、長くもならない。

 変えられない、はず。


「それって……帆夏はここに残れるってことですか?」


 合流してから一言も喋っていない郁がそう尋ねると、お母さんは嬉しそうに頷いた。

 お父さんも私を見て小さく微笑む。

 ……まさか。

 郁の言葉が私の中を駆け巡る。

 私……ここにいられるの?

 郁の隣にいてもいいの?

 でも。

 でも、そんなことしたら。


「家族みんなで暮らす夢が、叶わないよ?」

「あら、そんなことより帆夏の方が大事に決まってるじゃない。心配いらないわよ。今じゃない、いつかに叶えてもらうから」


 郁くんと一緒にお願いするわ、と付け加えながら、優しく頭を撫でる。

 思わず涙が溢れてきて、お母さんは困ったように笑った。

 そして、その温かい腕で抱き締めてくれた。


「帆夏は優しい子ね。その優しさでちゃんと郁くんを守ってあげるのよ」

「郁を、守る……?」

「おい、帆夏に守られてちゃ、郁くんが面目ないだろうが」


 お父さんが呆れたように言った。

 郁も小さく、そうですよ、と呟く。

 お母さんは私を離すと、ダメねぇ、と呆れたように首を左右に振った。


「女は守られるだけじゃなくて、守ってもあげたいのよ?」

「それはお前だけだろう? ……帆夏。帆夏はここに残って、ちゃんと最後まで勉強しなさい。アメリカに来るのはそれからでもいい。もちろん、ずっと日本にいてもいいしな」


 郁くんと、とつけ加えられ、顔が赤くなる。

 っていうか、私の気持ちってただ漏れだったのだろうか。

 いや……違う。

 この間帰ってきたときに、お母さんが意味深なことを言ったから!


「……一生の不覚だ」

「そんなに嫌なら、アメリカ行けば?」


 何を勘違いしたのか、郁がそっぽを向いて拗ね始める。

 担任が心底迷惑そうに私たちを見ていた。

 ……担任、いるの忘れてたし。

 てか、まだいたんだ。


「い、郁……?」

「……ま、無理矢理でもさらいに行くけどさ」


 ぼんっ、という効果音が相応しい具合に、一気に顔が熱くなる。

 郁から視線を外して小さく手で仰ぐが、熱は一向に治まる様子は見せない。

 ……どうして、そんな恥ずかしい台詞をここで言っちゃうのかな。


「はははっ、さすが郁くん。強引なところは変わってないな」

「あはは、みたいですね」

「あぁ、葛城の例の彼女は水城だったのか」

「何ですか、それ」

「三井が言ってたんだよ。葛城が……」

「あーっ、それ以上喋るな! 分かったからっ」


 ……うわー、帰りたい。

 置いて行くのもものすごく不安だけど、一刻も早く帰りたい。

 頬を引きつらせてその様子を見ていると、不意にお母さんと目が合った。


「という訳だから。大変だろうけど、頑張ってね」

「う、うん。頑張る」


 何はともあれ、残れることになった私は、少しの喜びと大きな不安を感じて、大きくため息を吐いた。

 残れるのは嬉しいけど……あぁ、華南に合せる顔がないや……。

 がくっと落とした肩がとても重く感じられた。


 ☆


 お母さんがお父さんとアメリカに旅立った翌日。

 私は小さな部屋に押し込まれて、着るのも躊躇するようなレースたっぷりのドレスを着せられる。

 着てきた服はきちんと畳まれて、紙袋の中に詰められてしまった。

 着替えよっかな、とそれに手を伸ばしたとき、ドアがガチャリと開いた。


「そろそろ……って、何着替えようとしてんだよ」

「ななな、そんな滅相もないっ」


 不自然に紙袋に伸びた手を引っ込めて、私は慌てて首を勢いよく振った。

 不機嫌そうな郁の眉間には、深い皺が寄っている。


「ま、いいけど。……似合ってんのに、もったいないことすんなよ」

「にっ」


 絶対キャラ変わった!

 絶対コイツ変わりやがったっ!

 これだけは自信持って言える……気がする。


「みんな、待ってるから」

「う、ん」


 今日はクリスマスパーティ。

 私に断られた華南も参加するらしい。

 朝早く叩き起こされて、会場の一室に押し込まれた私には確認する術がない。

 てか、男子禁制の女子寮に、堂々と入ってきた郁が未だに信じられない。


「ちゃんと許可証もらったし」

「……何の」

「帆夏の部屋に勝手に入って、入り浸ってもいい許可証」

「……誰に」

「おじさんとおばさんと担任。すげーよな、お前の親」


 俺には真似できないよ、と感心したように郁は頷く。

 いや、そこは感心するところじゃない。

 逆に引いてほしいところなんだけど。

 というか、引いてくれ。


「てかさ、こんなところでクリスマスパーティするの? レンタル料、高そう」


 広すぎる廊下を見渡しながら、私は郁に尋ねた。

 普通の家にしては広すぎるし、借りたにしても装飾が豪華すぎる。


「いや、俊晴の別荘みたいなもんだから、無料だよ。イベントがある度にここで騒いでる」


 ということは。


「三井くんの家の別荘?」

「いや、俊晴の」

「う、嘘だぁ」

「いや、今嘘ついてもしょうがないだろ」


 三井くん、お金持ちの坊ちゃんだったんだ……。

 子どもに1軒家を与えられるくらいの……すごさが想像できない。

 電車通学だし、持ってるものも普通だったし、昼休みごとに学食に走ってたし……。


「全くそんなオーラが感じられないんだけどな」

「だな。俺も最初は驚いた」


 そう頷いて、郁は足を止めた。

 目の前には扉。

 この奥にみんながいる。


「行くぞ」

「……うん」


 華南にはまだ伝えていない。

 ここに残ること。

 もちろん三井くんも、璃那ちゃんも知らない。

 郁が考えたサプライズプレゼントだけど、正直怖かった。

 華南に拒否されたらどうしよう……。

 そんなことを考えているのを知ってか知らずか、郁は思い切り扉を開いた。

 中で談笑していた3人がこちらに振り向く。

 3人とも正装を着ていて、着替えさせられた意味が何となく分かった。

 ……こんな中に、セーターとジーパンは変だよね、確かに。


「郁、遅すぎ……って、帆夏ちゃんっ?」

「帆夏!?」

「は、はろーえぶりわん」

「ぶはっ」


 郁が隣で勢いよく吹き出した。

 ……そこまで笑わなくても。

 そう思うほど、郁は笑っている。

 呆れたようにそれを見ていると、華南が駆け寄ってきて、私に飛びついた。


「わわっ」

「アメリカ、行ったんじゃなかったの!?」

「う、うんまぁ、これには色々事情があり、ま、して」


 詰め寄る華南の顔が怖い。

 っていうか、首絞まってる……。

 華南に便乗して顔を近付けてくる三井くんと璃那ちゃんは、違う意味で怖かった。

 近付きすぎた三井くんは、郁によって離されたのでよかったけど。


「えっと……」

「どういうことよ、騙してたの? ドッキリ?」

「そんなんじゃ」

「……そんなに帆夏に詰め寄ったら、話したくても話せないだろ」


 呆れたようにそう言った郁が、私と三人の間に割り込む。

 それを見て、三人は目を丸くした。


「帆夏って呼んでる……」

「うっそん」

「どういう心の変化……?」

「う、うるせー。別に関係ないだろ」


 一気に勢いを無くした郁は3人に詰め寄られ、タジタジになっている。

 ……あれ、私を助けに来たんじゃなかったっけ?

 自らやられに来たの?

 小さく首を傾げていると、袖を軽く引っ張られた。

 横に向くと、そこには知らない女の子が柔らかい笑顔を浮かべて、私を見上げていた。

 その後ろには嘘臭い爽やかな笑顔を浮かべた男もいる。

 キラキラと輝いた目に戸惑っていると、女の子が口を開いた。


「あなたが水城……帆夏さんですか?」

「え、あ、はい。そうですけど……」

「うわあっ、郁ちゃんの言ってた通り、お綺麗ですね!」

「ほんと、郁ちゃんにはもったいないね」

「お前……呼んだ覚えないけど」

「縡子の彼氏だもん、呼ばれなくても来るし」


 縡子?

 何処かで聞いたことがある名前。

 ……あ、郁が娘のように可愛がってた人だ。

 この人が、縡子さん。

 小さくて、可愛い、人。

 確かにこの中では娘みたいな存在かもしれない。


「あ、私は神楽縡子って言います。こちらは、神祇苑さん」

「よろしくね、帆夏ちゃん」

「水城帆夏です」


 慌てて頭を下げようとすると、郁の手に阻まれた。

 不思議に思って郁を見ると、不機嫌そうに神祇くんを睨んでいる。


「こんな奴に下げる頭なんかない」

「でも」

「郁ちゃんは意外と嫉妬深いんだね」


 でもって、神祇くんは鼻で笑いながら郁を挑発している。

 仲悪そうだな……。

 縡子さんが困ったように神祇くんの腕を引っ張った。


「苑、喧嘩しないでください。せっかく郁ちゃんの恋が叶ったのに」

「……そうだね。ごめん、大人気ないよな」

「わかってくれたらいいですよ」


 縡子さんにさとされた神祇くんは、郁……というか私たちの存在を忘れたのか、縡子さんと甘い雰囲気をかもし出している。

 私と郁にはないそれを見ていられなくて、目を逸らした。


「ったく。あれでいい奴だから、ふざけんなって感じだよな」


 郁は何処か安心したような表情で、縡子さんを見つめていた。

 ……それが、何故かもどかしい。

 郁は私を見てくれていると信じてるけど、怖い。

 いつか、が知らないうちにやってきそうで。

 思わず両手で郁の目を覆った。


「へ? ……ほ、帆夏?」


 郁の変な声に我に返った私は、その手を慌てて外した。

 何やってんの、私。

 なな何やったの、私っ。


「……ふぅん、やってくれるねぇ。見せつけ、どーもありがとさん」


 背後でいつもより低い三井くんの声がして、軽く肩を叩かれた。

 振り返ると、不敵な笑みを浮かべた三人が仁王立ちしている。


「ちゃあんと、説明してくれるよね。郁、帆夏?」


 華南の低く怒りを顕にした声色に、私は頷くしか出来なかった。


 ☆


 取り敢えず椅子に座り、私と郁で一昨日のことを話す。

 大方、郁が話を省いて説明していた。

 保健室のところなんて、きれいさっぱり抜かされていた。

 ……確かに話しにくいところだけど。

 ちょっと複雑なのは何故だろう。

 ……うん、複雑だ。


「ふーん、帆夏のご両親って、なんかすごいよね。許可証出すとか、強すぎる」


 華南が呟くと、他の4人も同意したのか頷いた。

 そして顔を合わせると、怪しい笑みを浮かべて、こちらを見てくる。


「な、何だよ。その目は」

「いやぁ? 名前は無理とか俺にほざいてたのに、名前だなぁって」

「郁ちゃんって、変なところで見栄張るんだねー」


 神祇くんは口に手を当てて、にこっと微笑んだ。

 ……それが、悪魔の笑みに見えたのは私だけじゃないと思う。

 彼の隣で縡子さんも焦ってたし。

 私の隣も呆れたようなため息を零したし。


「郁ー、それで昨日は見送りの後、やったの?」

「や……やる? 何を?」


 璃那ちゃんが目をキラキラさせて郁に詰め寄る。

 体を反らして逃げる郁は、何処となく情けなく見えた。

 璃那ちゃんには弱いらしい。

 あと縡子さんと。

 近くにあったジュースを手に取り、口許に運びながらそんなことを思っていた。


「んなの決まってんじゃん。大人の営み? 奪っちゃったー、みたいな」


 ぶ……っ。


「帆夏ちゃーん、図星?」

「みみ三井くんっ!? ななっ」

「……おい、俺は別にいいけど、帆夏はからかうな」

「嫉妬マン郁ちゃん発動ー」

「苑!」


 ハンカチで吹き出したものを慌てて拭いながら思う。

 もう私帰りたい……っ!

 しばらくそうしていたら、横から手が伸びてきて、ドレスに別のハンカチが当てられた。

 顔を上げると、郁と目が合う。


「何々、視線で交信中? てか、郁って意外と世話好き?」

「……俊晴、埋めるぞ」


 汚れを撫でるように落としながら、郁は私から視線を外した。

 ……てか、そこは汚れてないんだけどなぁ。

 そんなことを必死で手を動かしている郁には言えなくて、気の済むまでやらせておくことにする。


「じゃあ、帆夏は寮生活なんだ?」

「うん、まあね」


 また遊びに来てね、と華南だけに言ったつもりだったのに、何故か他の4人も頷いた。

 郁の手がピタリと止まる。


「い、郁?」

「止めとけ。こいつら呼んだら、部屋ん中が荒れるぞ」


 家宅捜索される、と言った郁の表情は苦々しい。

 たぶん、体験済みなんだろう。

 それも相当なものを。


「遊びに行った方が身のためだよ」

「……そうする」

「そうしちゃダメだよー」


 ねー、と璃那ちゃんは同意を求める。

 当然のように頷く友人たちに、終わったな、と苦く呟く郁に。

 彼らに囲まれた私は郁よりも、運がないような気がした。


 それから他愛のない話をして……というか、無理矢理その話から反らしていたら、いつの間にか外は闇に包まれていた。

 今日はここでお泊まり大会らしく、誰も帰る気配がない。

 何度も話を持ちかけたが、全く聞いてもらえないところからして、私も頭数に入っているらしい。

 お泊まりセットどころか、着替えすら持ってないんだけどな。

 あ、普通の服ならあるか。


「……俺の、貸すし」

「え」

「郁ちーん、変態ー」


 ノンアルコールのはずなのに、酔った様子の三井くんの頭を郁が容赦なく殴る。

 便乗して、璃那ちゃんも叩いた。

 郁はそれを見つつ、縡子さんに手招きする。


「……縡子、何か貸してやってくんね?」

「もちろんいいですよー。でも華南ちゃんの方がいいんじゃないですか?」

「アイツは変なもん着させるからダメ」

「変なもん、ですか」


 ……郁の中の華南はどんな人なんだろ。

 少なくとも私の中では、そんなこと……しそうかも。

 いや、する。

 郁の困りそうなことなんて、容易くやってのける。


「ひっどいな。親友なのに」


 華南の言葉にドキッとした。

 まさか、私、口に出してた? と冷や汗をかいたが、華南は郁に言っていたようで、ホッと胸を撫で下ろす。

 ふと視線を感じて首を横に向けると、神祇くんと目が合った。


「帆夏」

「……へ?」


 突然そう言われ、私は言葉を失う。

 神祇くんは笑みを浮かべると、向こうを指差した。

 思わず振り返ると、郁が不機嫌そうな顔で神祇くんを睨んでいる。

 神祇くんは何がおかしいのか、声を出して笑い出した。


「くくっ……じ、地獄耳」

「えっと、神祇くん?」


 前にも聞いたな、その言葉。

 それも、同じような状況で。


「……っ、帆夏ちゃん、郁ちゃんがどうして帆夏って呼べなかったのか、知りたくない?」


 途端に郁が神祇くんの口を塞ごうとしたが三井くんに取り押さえられる。

 それを助けるように璃那ちゃんがその口を塞いだ。

 にこにこと私を見ている辺り、彼らは理由を知っているらしい。

 郁が目で何かを訴えているが、好奇心に勝つことも出来ず、大きく頷いた。


「知りたい」

「んんんーっ」

「……教えて、くれる?」


 真っ青な郁を無視して、神祇くんに向き直る。

 神祇くんは満足したように一度頷く。


「いいよー。……縡子に聞いたんだけどさ」


 背後が一段と騒がしくなる。

 ちらりと振り返ると、郁が逃れようと暴れていた。

 ……余程の理由、なのかな。

 私に知られたくないくらいの理由。

 そう考えたら、もっと聞きなくなった。

 ……郁には悪いけど。


「寝言」

「え?」

「学校違ったから、詳しくは知らないんだけどさ。中等部の宿泊訓練のとき、寝言で帆夏ちゃんの名前言っちゃったんだって。それで相当しつこくからかわれたみたいで、帆夏って呼ばなくなったらしいよ。だよね、縡子」

「え、あ、はい。それまでは普通に呼んでたんですけど……やっぱり3年間からかわれ続けたので、名字で呼ぶしかなかったんだと思います」

「3年間もからかわれたんだ? 初耳」

「はい。主に俊くんに」


 ……三井くん。

 あの時の申し訳なさそうな表情はこのことも含まれてたんだろうか。

 あれがなくても、結局三井くんのお陰で悩む羽目になってたってこと、か。

 にしても……郁のバカ。

 何よ、その理由。

 アホらしいくらい、小さすぎる。


「ま、大分参ってたらしいから、許してやってよ」

「……てめーに言われたくねーし」

「帆夏さんのこと、ずっと心配してたのは本当ですから! ずっと……想っていたことも。いっつも写真片手に勉強してましたよ!」

「縡子、それフォローになってねーから……」


 っていうか、恥ずかしいことをこれ以上バラすんじゃねぇ、と顔を手で覆いながら呟いた。

 その耳が、赤い。

 たぶん、私も負けないくらい赤くなってると思う。

 ……だって恥ずかしすぎる。

 私がいない間にそんなことをしていたなんて。

 寝言にしても、写真にしても、恥ずかしすぎる。

 き、消えたい。

 切実にそう思った。


「あーもう、俺死にそう。絶対死ぬ」

「……私だって、今すぐここから消えたいくらいだよ……はぁ」


 大きくため息を零し、2人でその場にしゃがみ込んで、視線を合せる。

 そして、笑いを堪える様子もない彼らに、もう一度ため息をついた。

 ……本当、遠慮なく笑うよね、この人たち。


「……ごめんな、帆夏。本当、ごめん」

「もーいいよ。……これからは、呼んでくれるよね?」

「ん、努力する」


 頷いて苦笑いを浮かべる郁。

 高等部は内部生がほとんどだから、このことを知っている人がたくさんいる。

 それが郁の苦い表情を生み出しているのだろう。

 また自らからかわれに行くようなものだから。


「やっぱり、名字でもいいよ」

「……心配すんな。俺が呼びたくて、帆夏って呼ぶんだから。大丈夫」

「でも」

「帆夏も郁って呼んでくれるんだろ? なら、大丈夫だから」


 優しく笑って、私の髪を梳く。

 私は小さく頷いた。

 ……呼ぶよ、ちゃんと郁って。

 君が帆夏と呼んでくれる限り。

 でも……本当に窮屈、だな。

 ……特に彼らに囲まれていると。


「華南っ、璃那ちゃん、三井くんに神祇くんっ! もう、笑いすぎだよっ」


 強めにそう言うと、少し笑いが収まった。

 収まったのに。

 ……収まったのに……っ!


「そうですよー、郁ちゃんも帆夏さんへの想いを伝えようと必死だったんですからっ」

「ぶはーっ、あはははっ」


 縡子さんの余計な一言に、再び3人は噴き出した。

 せっかく収まった笑いも、元通り……というか、前よりも大きくなっている。

 もーっ! と縡子さんは頬を膨らませているが、全く効果なし。

 隣で郁が沈み込む。

 膝に顔を埋めて、何かに耐えるように震えていた。

 小さく、縡子はちょっと黙ってくれ、と呟いたのが聞こえた。


 ☆


 ドレスから今朝着て来た服に着替え、寒い夜道を歩く。

 右手には郁の手。

 はぁ、と息を吹けば、白く染まった空気が2つ浮かぶ。

 温かい右手に込み上げる嬉しさを堪えながら、何度も白く染め上げた。

 郁もそれに付き合うように、息を大きく吐く。


「つか、なんで、俺らが買い出しなんだよ? あれだけ食べたのに、まだ食うのかよ……アイツら、どんな胃してるんだ?」

「あはは、まぁいいじゃん。クリスマス、なんだし? ……私もちょっと気分転換したかったしっ」

「それは、俺もだけど。あんな笑われる場所にいられねーし」

「なら、文句言わなーい」

「……ハイハイ」


 仕方なく頷いた郁から視線を外す。

 澄みきった空を見上げて、散らばる星を見つめた。

 今日も、あの日2人で見たときのように、綺麗な星空。

 吐き出される白に隠れながらも、輝いている。


「……これからは、一緒にいられるよね」

「え?」

「ううん……よしっ」


 私は郁の手を振り切り、早足で郁の前に立った。

 驚いて目を丸くする郁に、ふわりと笑みを浮かべる。

 ……夢、じゃない。

 ただ願っていた、あの頃の夢なんかじゃない。

 君がここにいて、私がここにいる。

 それはごく簡単なことなはずだったのに、私たちは遠回りを繰り返して、自分で難しくしていた。

 でも、それも昨日までのこと。

 今は……たぶん明日も、その先も違う。

 やっと辿り着いたね。

 あの頃のように、2人で願おう。

 そして、約束、しよう。

 この満天の星空に。

 これからの2人を。


「これからは、ずーっと一緒にいようねっ」

「……あったり前だろ。嫌でもいてやるし」


 ずっとこれからも星は瞬く。

 そして、照らす2人の未来を。

 願い事と、一緒に。

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