十話 ローラ
美女、おいでませ。
無意識に打った頭に手をやる。たん瘤はできていないみたいだ。少し意識が飛んだ気がする。
今日はよく身体を打つ日だな、とかすれた意識の中でミュンはそんなことを思う。もしかしたら身体のあちこちに痣ができているかも。
千切れた触手すぐに再生した。再生した触手はぐったりと座り込んだミュンではなく、サラの方へ向かっていく。どうやら、サラを先に始末しようとしているらしい。
迫り来る触手にサラはまた弓を払い、弦で弾き抵抗する。サラが圧されている。背中が樹にぶつかった。もう時間の問題だ。
どうしよう!?サラが危ない。何とかしなきゃ、何とかしなきゃ。何か、何か!わたしに何が出来る?
何度も瞬きをして視界をはっきりさせる。キョロキョロと辺りを見回し、何かを探す。何を探しているのか自分でも解らない。
一本の触手がサラの弓を掻い潜り腕に巻き付いた。動きが鈍ったところへさらに二本、三本と絡み付く。
「くっ」
首にも触手が伸びてきてサラの首を絞める。首に巻かれた触手を取ろうともがくサラ。しかし、腕に巻き付いた触手が邪魔をする。
何かないかと辺りを見回すミュンの目に画集が映った。五〇サンチほど離れている。黒水の魔物に捕まった時に落としたらしい。画集は開かれた状態で地面の上に落ちている。急いで駆け寄る。これで何が出来るのか?
「かはっ」
サラの首を容赦なくキリキリと締め付ける。あれでは息ができない。
開かれた画集のページには一人の女性が描かれている。
サラが危ない。
ミュンは無我夢中で画集のページに目を走らせる。隅の方に『ウンディーネ』そう記されている。
(お願いっ!助けて!サラが……)
「水のウンディーネ。お願いローラ、サラを助けて!」
無意識に口をついて出てきたその名に画集が反応した。
湿った風が頬撫で、次の瞬間ドサッという音とともにサラが地面に倒れた。サラを捕らえていた触手は途中で切断されていた。しかし、すぐに再生し今度はミュンの方へ伸びてくる。
「あら、それはいけませんわ。お喚びになりまして?姫様」
触手がミュンに届く前にまた切断された。それとミュンの左斜め前に人が立っていることに気がついたのは同時だった。
「あらあら。サラが珍しくしくじりましたのね」
右手に鞭を持ち、左手を形の良い唇に当ててその女性――ローラが言う。
こちらを向いた。
「私を喚んでくださるなんて、とても賢明ですわ。アレは水を媒体にしたものでしょう?サラには少々分が悪いですわ」
ですから私の出番、と呟きにっこり微笑む。
サラとはまた違った意味で美人だ。波打つ髪は瑠璃。その髪を後頭部でかるく結い上げている。首に落ちる後れ毛が艶かしい。しかし、厭らしくはない。少し垂れぎみの瞳は空の色。すっと高い鼻に形の良い唇。その微笑みは妖艶だ。しかし、厭らしくはない。露出部分が多く、身体の線がはっきりと分かる衣服を見事に着こなしている。しかし、厭らしい感じは少しもしない。
「ロー……ラ?」
「はい、姫様。少々お待ちくださいね。……切っても切ってもすぐに再生して、面倒臭いですわ」
美しい顔をしかめてローラが言う。
新しい人物の登場に黒水の魔物は戸惑うような仕草を見せた後、またその触手を伸ばしてきた。だが、今度は巻き付けるためではではなく突き刺すためだ。先端が鋭く、硬質で先ほどのしなやかさが嘘のようだ。
槍のような触手をローラは鞭を巧みに操って弾く。弾く、弾く、弾く。
「次から次へと馬鹿の一つ覚えのようですわ」
何本もの鋭い触手がローラを襲うが、それらを全てローラの鞭が叩き落す。
(核はどこだろ?)
ミュンは黒水の魔物に額を見やる。しかし、そこに赤い石はあるはずもない。
触手は全部ローラに集中している。ミュンは震える足を叱咤し、そろりそろりと立ち上がる。ローラは余裕で対応しているが、このままでは埒が明かない。はやくアレを倒してサラの手当てをしたい。
サラは触手から解放された時のまま、うつ伏せの状態で動かない。辛うじて肩が上下しているので息はあるようだ。
黒水の魔物がローラに気をとられている間に核の場所だけでもわからないだろうか、と遠回りするように黒水の魔物の周りを歩く。
額にはなかった。でも、必ず身体のどこかにあるのだとサラは言っていた。
目を凝らしてじっと観察する。頭の天辺から順に見ていく。……どこにもない。あんなに目立つものが身体のどこにも見当たらない。
(何で!?どうして!?)
焦るミュン。危険を承知でもう少し近づいて、もう一度よく観察する。……やっぱりない。い……いや、黒水の魔物の丁度中心部分に赤黒く光るものがある。見つけた!身体の中に隠していたのだ。
「ローラ、身体の真ん中を狙って!そこに核があるから!」
はやく報せなくてはと、気持ちが焦り大声でローラに叫ぶ。
「承知しましたわ」
ニヤリと笑うとローラは左の手のひらを上に向けた。何もない手のひらの上空に爪ほどの滴が現れ、それが徐々に大きくなりローラの手と同じ大きさくらになる。更にピシピシと音を立てながら、今度は凍り始めた。最終的にそれは氷柱のような形になった。
ミュンの存在に気づいた黒水の魔物がミュンにも触手の槍を伸ばしてきた。
「きゃっ!」
自身を庇うように両腕を顔の前にもってくる。思わず目を瞑るミュン。
「ですから、それはいけないと先ほども言いましたでしょう?」
迫る触手の槍。しかし衝撃がこない。怖いもの見たさで、ミュンは目を開け、顔の前にある腕の間から様子を見る。
触手の槍はミュンに届く一歩手前で停止していた。
ローラの手の氷柱が消えて黒水の魔物の丁度中心部分、ミュンが叫んで知らせた場所にそれは刺さっていた。
核にひびが入り……砕け散る。そして、黒水の魔物は霧散して消えた。
「はあぁーーーー」
すとん、とミュンが腰をつき、長く息を吐く。しかし、すぐに立ち上がりサラに駆け寄った。
「サラっ!サラっ!」
動かしていいものかどうか悩んで呼びかけるだけにとどめる。先ほど同様肩が上下しているので息はある。
「しばらくは休ませたほうがいいようですわね。サラ、サラ、聴こえまして?」
ローラもサラの傍に来て言った。
「ん……うっ……」
少し反応した。
長い白銀の髪が肩から落ちて、首が覗いた。細いサラの首筋にくっきりと締められた痕が残っていた。他のところはどうだろう?サラは厚手で落ち葉色の外套を身につけているのでわからない。
それに比べてローラは薄着だ。露出部分がかなり多いその服装は周りの景色から浮いている。と言うよりも完全に季節を無視している。寒くないのだろうか?いやいや、それよりも今はサラのことだ。
「そうだ!はやく手当てしなきゃ!あっ、ここから離れるほうが先?でも手当てがサラを!えっ?えっ?」
かなりテンパっている。
「そうですわね。ではまず、落ち着きましょうか。姫様」
混乱しているミュンにゆっくり三回深呼吸をさせる。
「落ち着きまして?……では、まず移動しましょう。サラの事は心配なさらなくて結構ですわ」
「えっ?でもサラまだ歩ける状態じゃないよ?っていうか意識があるかすら怪しいよ」
「あら、解ってらっしゃるかと思ってましたけどそうではなかったのですわね?」
何が“解ってない”のだろう?ローラの言っている意味か分からなくて眉を寄せる。
「姫様、画集についてはサラから説明されてますわね?もしくはもう知ってらっしゃる?」
「サラから聞いたけど……」
「では、私も含めてですけどサラが何者かも解っていらっしゃいますわね?」
「うん……一応」
完璧に理解はしてないけど。
「私達は本当は先ほどのように喚ばれてから出てくるものなのですわ。姫様に喚ばれたら姿を現す、これが原則なのですわ。けれど、サラは特別なのですわ。サラは精神的に不安定になる姫様への説明係りも担ってますから」
サラは特別過保護なのですわ、とローラが言う。
過保護、過保護、過保護。うーん、なんとなく分かる気がする。
「このままサラを連れ歩くのは無理ですわ」
「それじゃ、どうするの?」
「サラを画集の本体に戻しましょう。自らの意思で出てきたのですから自らの意思で戻るべきなのでしょうが、これでは不可能ですわ。ですから、姫様が戻して差し上げてほしいのです」
「……どうやって」
「うーん、それは姫様しかわからないのですわ。インスピレーションで何とかなりませんの?」
え?超適当!
人差し指を唇に当て、困ってなさそうに困ったと言う。なんか、ローラの性格が見えてきた。
「サラに休んでほしいのでしょう?その考えが伝わればいいのですわ」
結構無茶苦茶なことを言う人だなと思いながら、少し考えてサラに思ったことを口にしてみる。聞こえるかな?
「サラ、ありがとう。ゆっくり休んで、ね?」
森が動いた。そんなふうに思った。
枝に積もっていた雪がミュンの頬に落ち、冷たいと思った次の瞬間にはすでにサラが居なくなっていた。慌てて画集を開いてみると、美しいエルフの女性が以前と違わず何の変化もなく描かれている。
これでよかったのだろうか?成功したのだろうか?そんな意味も込めてローラに視線を向けると、洗練されたとさえ言えるような妖艶な笑みを浮かべ
「サラがいない間は私が共に参りますわ」
と言った。
歩き始めてからまだそれほど時間は経っていない。前言の通り、サラに代わりローラがミュンと共にもの森の道を歩いている。
きっと全身打ち身だらけのミュンを気遣いながら進むところはサラと同じだ。違うのは、時折道に迷うような仕草をするところだ。不思議に思いローラに訊いてみたら、森が自分の領域だと言ったサラとは違いローラは森のことはあまりよく解らないのだそうだ。ローラが得意とするのは水に関するものらしい。それについては、先刻倒した黒水の魔物の時にミュンも見ているのでわかった。
ならどうやって進んでいるのかと言うと、最初に黒水の魔物が現れた小川を基点として森の中を歩いているらしい。ローラは水を感知する能力に長けているらしい。
詳しいことは解らない。ホントに理解するとか無理だから。話を聞いていて途中でミュンは理解することを断念した。それを察したローラは怒るどころか笑っていた。
だんだん歩みが遅くなるミュンにローラは
「もう暗くなってきましたわ。今日はこの辺りで休みましょうか?」
と言った。
もともと仄暗くて気づかなかったが、言われてみればいつの間にか暗くなってきている。逃げ回っている間にずいぶんと時間が経ってしまったようだ。
冬の夜は暗くなるのがはやい。ここは日の光が届きにくいから月光だってそうだろう。じきに真っ暗になってしまうだろう。
適当な所に腰を下ろすとローラがその向かい側に座った。
「申し訳ないのですけど、火を使うのは控えていただきたいのですわ。見つかる可能性を少しでも低くしたので」
「昨日もサラが同じこと言ってたよ。仕様がないよね」
今夜も火を使わない食事で済ませなくちゃいけないみたいだ。昼を食べ損なってお腹が空いている。少しはやいけどご飯にしよう。昨晩と同じメニューに加え、今日は乾燥させたロッカの実もかじる。
「ローラは何食べる?」
ロッカの実をくわえながらミュンが訊いた。
「私達は食物を摂取する必要がありませんので、お気持ちだけいただきますわ」
ありがとうございます、とローラ。彼女等の事は未だに謎が多い。
もしかしたらミュンとは身体の造りが違うのかもしれない。本に住んでいるのだからそれはそれで納得だ。
「ねえ、ローラ。わたしさっきからずっっっと気になってることがあるんだけど」
向かいに座るローラに話しかける。
「何でしょう?姫様」
「ほらまた、何でわたしのこと“姫様”って呼ぶの?」
「あら、意外な質問ですわ」
驚いたようにローラが言う。少しわざとらしい。構わずにミュンは続ける。
「あと、画集についても知りたいんだけど。これ、誰が描いたの?サラ、教えてくれなくて」
いずれ分かるとサラは言っていた。でもいずれっていつ?こういう事ってはやく知っておいた方が良いんじゃない?とミュンは思う。
「そーですわねぇ……画集の作者については私もサラと同意見ですわ。サラはいずれ分かると言いませんでしたか?」
「うん、言った」
何で分かるんだろう?
「やはり時を待つべきですわ。他人から聞くよりご自分で知った方がいいと思いますの。それはそうと……最近何か夢をみませんか?」
「は?ゆめ?」
いきなり話がとんだ。
「ええ、朝起きたとき嬉しかったり、楽しかったり、悲しかったり、辛かったり……懐かしかったりしませんか?内容を覚えていらっしゃらなくてもそんな想いが残っていたりしませんか?」
何でいきなり夢の話を?疑問に思いながらも記憶を探る。
「うーん……確か今朝夢をみたと思ったような思わなかったような……」
ひどく曖昧だ。そんなこといきなり言われても思い出せるわけないのに。第一、何でいきなり何の脈絡もなく夢の話になるのか……。完全にローラのペースにはめられている。
夢なんてみても大抵は覚えていない。今朝だって、半覚醒の状態でなんとなく“みた”と思っただけだ。
瞼が重い。ミュンの意思を無視して瞼が下がる。何度か抵抗を試みるも睡魔には敵わず敗北。ミュンの意識は緩やかに眠りに落ちていった。
ミュンの質問にローラは顔にこそ出していなかったが困惑した。
ローラを喚んだ時点ですでに記憶が戻っているのもだと思っていた。しかし、その後の態度や、言動からそうではないとことは分かった。だが、ローラがミュンのことを“姫様”と呼んだとき、自分のことだと理解していた。なのに、改めて訊かれるとは思わなかった。
ミュンは樹の根元に背を預け眠っている。寝られる時に寝ておくべきだとローラは思う。体力は温存しておくべきだ。今後何があるか分からない。
「サラ、サラ。聞こえていますわね?」
画集はミュンの膝の上にある。ローラはミュンを起こさないように小声で画集に向かって呼びかける。かなり滑稽だ。
「聞こえています。ローラ、そちらはどうですか?」
姿は見えず、声だけが返ってくる。
「サラ……まず自分の心配をしなさいな。貴女こそどうなんですの?身体の調子は?」
「問題ありません。私に身体の調子を尋ねるのは些かおかしいですね。画集に戻ってしまえばほぼ問題ないのは貴女もご存知でしょう?」
「姫様があんまり貴女の事を心配するものですから」
妬けますわ、と悪戯っぽくローラが言った。
「それで、そちらの状況は?」
「貴女が倒れた所からあまり動いていませんの。森は私の領域ではありませんので。闇雲に歩き回らない方がいいかと思いまして」
「そうですか、さすがローラ。明日の朝には代わります」
「わかりましたわ。今夜一晩はゆっくり休みなさいな。姫様もそれをお望みですわ」
「はい。それにしても……ここは月明かりが少ないですね」
「この密林さながらの場所を選んだのは貴女でしょう?姫様の安全には代えられませんわ」
「分かっていますよ。では、お願いしますね」
「承知しましたわ」
サラの声が途絶え、辺りは暗闇と静寂に包まれる。そして、しばらくして夜行性の鳥の鳴き声が聞こえ出す。まるで、森全体がローラとサラの会話に聞き耳をたてていたかのようだ。
「……」
「姫様?」
今、ミュンが何か喋った気がしてローラはミュンを呼んでみた。 もしかして起きていた?
「……」
しかし、返事はなくミュンの規則正しい寝息だけが微かに聞こえる。空耳だったようだ。
「姫様、どうかご無事で。今度こそ絶対、私達はしくじりませんわ」
手を組み、祈るようにローラが呟く。それは誰に聴かれることもなく、夜の闇と冬の寒さの中に沈んで消えた。
ローラ登場です。前回名前だけでたローラです。
リーヌのドレスデザイナー兼お針子?でしょうか。
閲覧ありがとうございました。
次回に。




