全否定と全肯定
「直人って、そういう話になると長いよね」
美咲はスマホから顔を上げずに言った。
俺は、玉ねぎを炒める時間のこだわりについて語っていたが、話を途中でやめた。彼女が食べているカレーに何が入っているのか聞いたので答えていたのだが、知りたかったのは材料の名前だけだったらしい。
「ああ、ごめん」
「別に怒ってないけど。作り方の講義まで頼んでないし」
向かいに座る美咲は、明るい茶色の髪を耳にかけた。小さな金色のピアスが揺れる。
付き合い始めた頃、その仕草が好きだった。俺が作ったものを食べて「お店みたい」と笑ってくれる顔も好きだった。
今も、笑ってくれれば嬉しい。
「今度の誕生日、どうする? 駅前に新しくできた店、まだ予約取れるみたいだけど」
美咲は指を止めて、少し考えた。
「そこ、人多そうじゃない? 家がいい。お店は予約しなくていいから」
「うち?」
「うん。前に作ったビーフシチュー、あれが食べたい。お肉はちゃんといいの買ってね。誕生日なんだから」
それなら、肉は前の日から準備したほうがいい。平日の夜では時間が足りないが、誕生日は土曜日だった。
「分かった。ケーキは?」
「駅ビルの、いちごのやつ」
「丸いのと、四角いの、どっち?」
「どっちでもいいよ。そんな細かく確認しなくても」
俺は口を閉じた。美咲の画面に、もう一度視線が落ちる。
「見て。千尋さんのバッグ、いくらするのか調べたら出てきた」
スマホを向けられた。白い小さなバッグだった。値段を見て、俺は少し目を見開く。
「高いな」
「でしょ。会社にこれ持ってくる? 見てほしいんだろうね」
立花千尋さんは、うちの会社の法人営業部にいる。
二十八歳。俺の二つ上で、営業推進部の美咲からも、開発部の俺からも、別の部署の先輩にあたる。
社内報で営業成績を紹介されたばかりで、会議では年上の社員にも意見を求められる。整った顔立ちもあって、他部署でも名前を知られていた。
「この前も、部長が千尋さんのこと褒めてた。顔がいいと得だよね。ちょっと何かするだけで、みんなが褒めてくれるんだから」
「仕事もできる人だよ。説明が分かりやすいし」
美咲の指が止まった。
「ほら、直人まで。男の人って、みんなあの人には甘いよね」
「そういう話じゃなくて、仕事で何度か一緒になったから」
「はいはい。美人で仕事もできて、すごいですね」
美咲は、俺の返事を待たずに画面を閉じた。
彼女が立花さんの話をする時は、いつも誰が褒めていたかまで詳しかった。
俺は水を飲んでから、誕生日の買い物を忘れないよう、頭の中で順番を並べ直した。
* * *
数日後、その立花さんが、俺の目の前で声を失った。
午後一時三十分。
取引先の会議室にある大型モニターには、接続できないことを知らせる短い英文が出ていた。
あと三十分で、物流会社への最終提案が始まる。
立花さんが半年近くかけて進めてきた案件だった。現場の担当者だけでなく、部長と、導入予算を判断する役員も来る。
俺は、倉庫内の在庫管理システムを実演するために同行していた。
「もう一度、試せる?」
立花さんの声はまだ落ち着いていた。
いつもの紺のジャケット。肩の下まである黒髪を後ろでまとめ、資料を押さえる指には、淡い色の爪が見えた。
俺は別の端末でも確認した。結果は同じだった。
通信回線を替えても改善しない。社内に問い合わせると、営業用のデモ環境そのものに障害が出ているという。
『原因を調べています。復旧時刻は、まだ何とも』
通話を終えると、立花さんが聞いた。
「間に合う?」
「今の環境が戻るのを待つと、厳しいです」
彼女はすぐ、先方の担当者へ電話をかけた。
冒頭の説明を長めに取れないか。技術的な確認の順番を変えてもよいか。言葉を選びながら、使える時間を探している。
俺は端末のログを保存し、鞄からもう一台のパソコンを出した。
開発部から持ち込んだ、ネットにつながなくても動く試験用のものだ。仮の商品名や個数を入れて、操作を試せる。ただし、取引先のシステムに接続して、実際の在庫情報を取り込むことはできない。
「開始時刻は動かせないって」
電話を切った立花さんが言った。
「役員の方が、次の予定までしかいられない。今日の結果で、候補を二社に絞るから……」
彼女は資料を一枚めくり、すぐに戻した。
相手が迷えば、必要なページを迷いなく開く。こちらの説明が長くなれば、要点を拾って会話を前に進める。鮮やかに動く手際の良さを隣で見ていた。
その手が今、同じページの端を触っている。
「先週、必ず動くところを見てもらうって約束したの」
俺はパソコンを起動しながら、先方の評価項目を開いた。
「立花さん。先方の部長、在庫の数が合わなくなると、原因を探すだけで半日かかるって言ってましたよね」
「うん。その間、ほかの作業まで止まるから、何とかしたいって」
俺は、起動したばかりのパソコンを彼女へ向けた。
「それをどう解決できるかなら、こっちで見せられます」
「でも、それ、仮のデータしか使えないんじゃ……」
「はい。先方のシステムから、本物の在庫情報を取り込むところは見せられません。でも、数が合わなくなった時に、どこを調べて、どう直すか。その操作は、仮のデータでも同じです」
立花さんの目が、画面へ移った。
「……操作は今日見てもらって、先方のデータを取り込む確認だけ、別の日に?」
「はい。その進め方でいいか、相談しましょう」
「今日、候補を絞るのに、待ってもらえるかな」
「お願いするしかないです。でも、何も見せずに終わるより、使えるかどうかを判断してもらえます」
立花さんの資料と、評価項目を横に並べた。
倉庫で何が起きて、誰が困っているか。それをどう変えるか。導入までに何をするか。彼女が現場へ足を運んで作った説明は、画面が動かなくても使える。
「先に、現場の運用を説明してもらえますか。俺はその間に実演を切り替えます」
「技術の説明は?」
「俺からします。立花さんがまとめた提案まで、ここで止める必要はないです」
彼女は一度だけ目を閉じた。
開いた時には、資料を押さえる指が止まっていた。
「分かった。最初の十五分、私が話す。画面を見せるところで、佐伯さんに振ればいい?」
「はい。データの違いは、最初に俺から説明します」
「追加確認の候補日、開発部に確認してもらってもいい?」
「今、連絡します」
立花さんは資料の順番を替え、先方の担当者を呼びに行った。
始まった打ち合わせで、俺は最初に障害の状況を伝えた。
今日見せられるものと、見せられないものも説明する。先方の部長は、当然、いい顔をしなかった。
「つまり、うちのデータがちゃんと入るかどうかは、今日は分からないと」
「この場での接続確認はできません。先週いただいたデータで行った検証の結果はお見せできますが、同じ確認として扱っていただくつもりはありません」
喉が乾いていた。手元の水を飲む時間はなかった。
「まず操作をご覧いただいて、連携部分だけ、来週火曜の午前に改めて確認させていただけないでしょうか。そちらは開発の責任者も同席できます」
立花さんが続けた。
「御社の比較表で未確認になる項目は、こちらになります。今日の説明で不足していた部分は打ち合わせ後資料を送らせていただきます」
部長が役員のほうを見た。
短い相談のあと、「では、それで」と言われた。
立花さんが説明を始める。
現場の人が困っている順番で話していた。俺たちが作った機能の順番ではない。部長が身を乗り出す場所も、質問する場所も、彼女は分かっていた。
その間に俺は仮の在庫を作り直した。先方の倉庫に近い品目数に合わせ、入庫から差異の確認までを短く見せられるようにする。
彼女がこちらを見た時には、画面は動いていた。
「ここで一つ、数を間違えて登録します」
俺はわざと入力を変えた。
間違いがどこに影響し、どこにその情報が表示され、どれだけ簡単に直せるかを見せると、黙っていた現場担当者から質問が出た。
そこから先は、使った時の話ができた。
予定の時間が終わる頃、役員は資料を閉じた。
「連携の確認、来週火曜ですね。その結果まで含めて判断します」
契約が決まったわけではない。
それでも、今日で候補から消えることは避けられた。
先方が退室し、片づけを始めたところで、立花さんがペンを落とした。
拾おうとした指先が、小さく震えている。
俺は机の下に転がったペンを拾い、彼女の資料の上に置いた。
「……まだ、手が震えてる」
立花さんは自分の指先を見て、困ったように笑った。
「俺も、かなり緊張してました」
「佐伯さんも?」
「はい。先方の返事を待ってる間なんて、死にそうでした」
「そんなふうには見えなかった」
彼女は息を吐いて、椅子に座り直した。
さっきまで背筋の伸びていた肩が、少し下がる。
「本当に、駄目だと思った」
俺は返事を急がず、ケーブルをまとめた。
「立花さんが質問を整理してくれたから、俺も説明できました。現場の人が何を気にしてるか、あれで分かったので」
「でも、私、最初……」
「最後の条件を詰めてくれたのも、立花さんです。あそこで終わりにされなかったのが、大きかったですね」
彼女は膝の上で手を重ねた。
少しして、顔を上げる。
「佐伯さんが一緒で、本当によかった」
いつもの「助かりました」とは、少し声が違った。
俺がうなずくと、彼女は何かを言いかけ、やめた。そのまま水のキャップに手をかける。
キャップを回す指先は、もう震えていなかった。
* * *
翌週、追加の確認も無事に終わり、契約条件の協議へ進むという連絡が来た。
立花さんは、その日のうちに俺たちの部署へ顔を出した。
「佐伯さんと、美咲さん。今度、三人でお疲れさまの食事に行かない?」
ちょうど美咲も、手配書類を届けに来ていた。
あの商談では、美咲が社内の日程や貸出機材を調整している。急な追加確認の時も、会議室と機材の手配をしてくれた。
「行きたいです」
美咲が、俺より先に答えた。
「千尋さん、お店選んでくれるんですか?」
「落ち着いて話せるところを探そうと思って。来週の金曜はどう?」
「私は大丈夫。直人も空いてるよね」
「ああ、大丈夫」
立花さんはうなずいてから、俺を見た。
「じゃあ、来週の金曜で」
「楽しみにしてます」
「……うん」
少し間があった。
美咲が別の店の話を始めると、彼女はいつもの調子で答えていた。
* * *
その日の昼休み、開発部の松田と休憩スペースで弁当を食べていると、立花さんが空いた席に来た。
「ここ、いい?」
「どうぞ。立花さん、今日もパンだけですか」
松田が言うと、彼女は紙袋を少し持ち上げた。
「今日はスープもあるから」
「昨日も言ってましたよ」
「昨日はサラダ」
話しながら、彼女は俺の弁当に目を留めた。
「それ、手作り?」
「はい。昨日の残り物を詰めただけですけど」
「だけって内容じゃないよな」
松田が俺の弁当を指した。
「佐伯、週末もなんか作るんだろ。昨日、肉屋調べてたし」
「美咲の誕生日だから。ビーフシチューが食べたいって」
「いい彼氏だねえ。うちにも来てよ」
「食材買っておいてくれたら」
「やった。肉、何買えばいい?」
「煮込むなら、すね肉とか。赤ワインに一晩漬けると――」
そこで、美咲に「そういう話になると長いよね」と言われたのを思い出した。
松田が知りたいのも、肉の種類だけかもしれない。俺は、続けかけた説明を飲み込んだ。
「まあ、店で聞けば分かる」
「急に雑だな」
松田は笑った。
立花さんは紙袋の端を折っていた。
「……美咲さん、喜ぶだろうね」
「だといいんですけど」
彼女はうなずいた。
俺の弁当を見ていた視線が、ゆっくり手元のスープへ戻る。
松田が午後の予定を聞くと、立花さんはすぐに時間を答えた。
* * *
誕生日の土曜日、美咲は七時に来ることになっていた。
六時五十分に、シチューの火を止めた。
サラダのドレッシングは別の容器に入れてある。パンは来てから温めればいい。小さなケーキの箱を冷蔵庫の奥へ寄せて、二人分の皿を出した。
七時十分。
駅を出たか聞くと、既読がついた。
七時四十分。
仕事で何かあったのかと思い、電話をかけた。出なかった。
八時を少し過ぎて、『もうちょっと』とだけ来た。
俺は一度椅子に座った。
鍋の蓋を開けると、表面に薄い膜ができていた。かき混ぜて、ごく弱い火をつける。
美咲が来たのは、九時前だった。
玄関のドアが開いた瞬間、甘い香水に混じって酒の匂いがした。
「ごめん、遅くなっちゃったー」
「何かあったのか?」
「同僚と飲んでた。もう一軒行こうってなって」
美咲は靴を脱ぎ、部屋へ入った。
「七時の約束だっただろ。電話もしたんだけど」
「見たよ。でも、盛り上がってる時に電話しづらいじゃん」
「だったら、遅れるって一言送ってくれれば」
「直人なら、待っててくれると思ったんだもん」
美咲は、何がおかしいのかという顔で俺を見た。
「待たせていいってことにはならないだろ」
「もう、分かったって。誕生日なんだから、機嫌直してよ」
機嫌を悪くした俺が、せっかくの誕生日を台無しにしているような言い方だった。
俺は台所へ戻った。言いたいことはあったが、まず食事を出そうと思った。昼から準備したものを、このまま冷ましてしまうのが嫌だった。
「あ、そんなにいらない。向こうでも食べたから」
皿を置いたところで、美咲が言った。
俺は返事をせず、自分の皿を運んで向かいに座った。
美咲は食べる前にスマホを構え、写真を撮る。そのまま何か打ち込み、少しして笑った。
「何送ってるの?」
「さっきの子たち。誕生日、彼氏と何するのって聞かれてたから」
美咲が、まだ笑いながら画面をこちらへ向けた。
シチューの写真の下に、『彼氏が一日張り切った結果がこれ笑』と書き込まれていた。
「……何だよ、それ」
「だって。誕生日のディナーって聞いたら、普通もっとすごいの想像するじゃん」
彼女は画面を動かし、別の写真を見せた。夜景と、花と、細い脚のグラスが写っている。
「沙耶はホテルのレストランだって。私、何て返せばいいの」
「家がいいって言ったのは、美咲だろ。店を予約しようかって聞いた時、しなくていいって」
「それはそうだけど。ほら、こうやって並べると地味だなってだけ」
「自分で頼んだものを、人に送って笑いものにするなよ」
美咲は笑うのをやめた。
「大げさ。ただのネタじゃん。いちいち本気にしないでよ」
「俺は嫌だって言ってる」
「じゃあ、何? 頑張ったねって褒めてほしかったの?」
彼女はスプーンで肉を崩した。口には運ばず、ソースの中で小さくする。
「直人、私のためにこういうことするの、好きでしょ。自分が好きでやったことで、あとから文句言わないでよ」
俺は彼女の顔を見た。
何時間もかけて作ったことも、二時間待っていたことも、全部分かっている。そのうえで、好きでやったのだから何を言われても構わないはずだと、俺に言っていた。
「そんな言い方は流石にないだろ」
「また怒るの? ほんと、だるい」
いつもだったら、言い方がきつかったと謝っていた。
美咲がまた機嫌を直してくれれば、それでいいと思っていた。
けれど、今日は謝れなかった。
「俺が嫌だって言ってることくらい、やめてくれよ」
美咲は俺を見た。少し待っても俺が何も付け足さないと、スプーンを皿の縁に置いた。
「もう、いいや。だったら別れよ」
換気扇の音が、急にはっきり聞こえた。
「……それ、本気で言ってる?」
「優しくしてくれるから付き合ってたのに。こんなにいちいち怒るなら、直人といる意味ないし」
美咲はスマホを伏せた。さっきまで画面ばかり見ていたのに、今は俺の返事を待っていた。
俺はしばらく、皿を見た。
崩された肉の横で、上に散らしたパセリが、湯気の消えた表面に貼りついている。
謝れば、食事は続くのかもしれなかった。
また彼女の機嫌を取って、何もなかったことにすれば。
「分かった。別れよう」
美咲の指が、スマホの角で止まった。
「……本当に、それでいいんだ?」
「俺も、こんな扱いをされるのは嫌だ」
声に出すと、胸の奥が痛んだ。
それでも、取り消そうとは思わなかった。
「あっそ。あとから謝ってこないでよ」
美咲は俺の顔をもう一度見てから、椅子を引いた。
「じゃあ、帰るね」
「ケーキ、買ってあるけど」
さっきまで二人で食べるつもりだったから、つい口に出た。
「だから、もう帰るってば。そういうのが重いって言ってるの」
美咲は呆れたように眉を寄せた。引き留めたつもりはなかったが、そう聞こえたらしい。
俺は「分かった」ともう一度言った。
彼女はバッグを持って玄関へ向かった。その途中で、台所のカウンターに置いたケーキ店の紙袋に目を留め、足を止めた。
「……ケーキって、駅ビルの?」
「うん。頼まれてた、いちごのやつ」
「じゃあ、それはもらって帰る。私の誕生日用に買ったんでしょ」
俺はすぐには答えられなかった。
美咲はカウンターの紙袋を取り、俺へ差し出した。俺が箱を持ってくるのを待っている。
俺は紙袋を受け取った。もう言い合いを続ける気力はなかった。冷蔵庫を開け、箱を取り出す。
店員に聞かれて入れてもらった、細いろうそくが横に貼ってあった。剥がし、箱を紙袋に入れて渡した。
美咲は紙袋の中をのぞき、箱がまっすぐ入っているのを確かめた。
「じゃあね」
ドアが閉まり、鍵の音が消えた。
俺は皿を二枚とも台所に運んだ。
美咲の皿には、肉がほとんど残っていた。自分のぶんも同じくらい残っている。
鍋の中身を保存容器に移し、冷蔵庫の、ケーキが入っていた場所へ置いた。
水に浸けたスプーンが触れ合って、軽い音を立てた。
俺は二本とも洗って、いつもの引き出しに戻した。
* * *
火曜日の昼、美咲からメッセージが来た。
『この前ネットで買った靴、返品したいんだけど』
『手続き分かんないから、土曜に来てやって』
『午後は出かけるから、午前中にお願い』
俺は通知を閉じ、レビュー中の画面へ目を戻した。
少しして、もう一件来る。
『見てる?』
以前なら、帰りに寄ると返していた。
美咲の家まで行き、説明を読んで、集荷の日時を決める。それが終われば一緒に夕飯を食べる。そういう週末は、何度もあった。
『もう付き合ってないんだから、自分でやって』
送信して、スマホを伏せた。
返事はすぐ来た。
『別れた途端それ?』
『まだ私のこと好きなんでしょ?』
『会う用事作ってあげてるんだから、来なさいよは』
最後の一行を、もう一度読んだ。
俺は会いたいとは言っていない。頼み事を断っただけだ。それが、会わせてもらう機会を俺から捨てたことになっていた。
仕事では、できないものはできないと言える。
でも、美咲が相手だと、断るだけで、自分がひどい人間になったような気がする。
それでも引き受けなかった。
『会いたいとは言ってない。返品方法は購入履歴から見られるはず。自分でやって』
少し時間が空いた。
『まだ怒ってるんだね』
『落ち着いたら連絡して。返品の期限、日曜までだから』
俺は画面を消した。
怒っていないわけではない。ただ、もう彼氏ではなかった。
* * *
金曜の食事について、立花さんから店の連絡が来たのは、その日の夕方だった。
俺と美咲の入った三人のグループに、住所と予約時間が送られてくる。
事情を説明して断ることも考えた。
けれど、仕事の礼として誘ってくれた人に、別れ話の後始末までさせたくなかった。食事の間、普通にしていればいい。
美咲から個別に連絡が来た。
『金曜は来るよね? 千尋さんの前で暗い顔しないでよ』
『私が悪いことしたみたいになるから』
『行くよ』
それだけ返した。
* * *
店は、会社から二駅離れた通りにあった。
細い階段を上がった二階で、木の扉の脇に小さなメニューが掛かっている。
案内された個室は、四人掛けのテーブルが一つ置かれた、こぢんまりした部屋だった。
立花さんが先に来ていた。
ジャケットは椅子の背に掛けてあり、落ち着いた青のブラウスを着ている。いつもまとめている髪が肩へ落ち、耳元の銀色の飾りが、顔を上げると一度光った。
「お疲れさま。仕事、大丈夫だった?」
「はい。ちょうど区切りついたので」
俺は向かいの席に座った。
少し遅れて入ってきた美咲は、俺の隣を引く。
立花さんのブラウスから耳元へ、美咲の視線が動いた。
「素敵なお店ですね。千尋さん、こういうところ慣れてそう」
俺と話す時より、少し高い声だった。
飲み物を選んだあと、立花さんは改めて頭を下げた。
「二人とも、本当にありがとう。追加確認の日も、美咲さんがすぐ機材を押さえてくれて助かった」
「いえ、私は全然。千尋さんの案件ですし、何とかしなきゃと思って」
「佐伯さんにも。あの日、あの場で説明の順番を変えられたの、大きかったと思う」
美咲が俺を見た。
「仕事の時は頼りになるんですよね。細かいこと、好きだから」
「好きっていうか、担当だったし」
「ほら。こういう感じなんです」
何が「こういう感じ」なのか分からなかった。
立花さんは笑わず、俺に聞いた。
「予備のデータ、今後もあの構成で使える?」
「はい。倉庫の規模だけ変えれば。営業から使えるように、手順をまとめてます」
「嬉しい。来月の訪問でも相談していい?」
「もちろんです」
美咲はグラスを回した。
「本当に、あんたは仕事の話だとよくしゃべるわよね」
その時、前菜が運ばれてきた。
小さなキッシュと、野菜のマリネ。店員が出ていくと、扉が静かに閉まった。
「ここの料理、佐伯さんが好きそうだと思ったんだ」
立花さんはそう言ってから、美咲へ顔を向けた。
「そういえば、誕生日のビーフシチュー、どうだった?」
俺のフォークが止まった。
美咲は、少しだけ口角を上げた。
「あ、それが。もう別れたんです」
「……え?」
立花さんの手も止まる。
「先週。私から。優しいのは楽なんですけど、ずっと一緒にいると飽きちゃって」
俺はフォークを皿の脇へ戻した。
美咲は、俺が隣にいることを確かめるように一度こちらを見て、話を続けた。
「誕生日にシチューが食べたいって言ったら、本当に何時間もかけて作っちゃって。私がちょっとからかったら、すごい顔で怒るんですよ」
「美咲。その話は、あとにしてくれ」
ここで誕生日の夜のことを説明し始めたら、立花さんを巻き込んでしまう。
美咲は俺を一度見たが、すぐに立花さんへ顔を戻した。
「千尋さんなら分かりますよね。何でもしてくれるのは便利ですけど、彼氏として好きかどうかは別じゃないですか」
立花さんは、美咲に合わせて笑わなかった。
「……便利っていう言い方は、したくないな」
それから、俺へ目を向ける。
「知らなくて、誕生日のこと聞いちゃった。ごめんね」
「いえ。こっちこそ、言ってなくて」
彼女は小さくうなずき、皿の脇へ置いていたフォークを持った。
「千尋さんは、直人のいいところしか知らないから、そう言えるんです」
美咲が続けた。
「料理の話とか、こっちがスマホ見てても延々とするんですよ。黙って作ってくれるだけでいいのに」
あの夜と同じ言い方だった。
俺は水をひと口飲んだ。立花さんは、俺の手元から顔へ目を移した。
「私は、続きが聞きたかった」
「え?」
「お昼に話してた、ビーフシチュー。お肉を漬けるところで、佐伯さん、やめちゃったから」
立花さんが俺を見る。
「ワインに漬けたあとは、拭いてから焼くの?」
「……はい。水分がついてると、焼き色がつきにくいので」
「なるほど。私はそのまま鍋に入れてた」
「それでもできます。肉の表面を焼くと、香りが変わるんです」
「その焼く匂い、絶対おいしいやつだ」
彼女の口元が緩んだ。
「そうなんです。煮込む前から、けっこう腹が減って」
「それは、待つのつらいね」
立花さんが笑った。俺も少し笑ってから、自分が普通に料理の話をしていたことに気づいた。
美咲がグラスを置いた。
「千尋さんも、お料理好きなんですね。でも、褒めると毎回張り切って、面倒ですよ」
「張り切ってくれたら、私は嬉しいけど」
「最初はそうなんです。でも、何食べたい、何時がいいって、全部こっちに合わせてくるから。私が呼べば来るのが普通になっちゃって」
立花さんは、テーブルの上で指を重ねた。
「……私は、羨ましかったよ」
「何がですか?」
「美咲さんが」
美咲は少し顎を上げた。さっきまで尖っていた口元が緩む。
「誕生日の話をしてた時、佐伯さん、すごく楽しそうだったから。ちゃんとおいしく作りたいって、肉屋さんまで調べてて」
俺は昼休みのことを思い出した。
紙袋の端を折りながら、彼女は黙って聞いていた。
「食べたいって言ったものを、そこまで考えて作ってもらえるのは、嬉しいことだと思うよ」
立花さんは俺を見て、少し笑った。
あの時、話を途中でやめなくてもよかったのかもしれない。
そう思うと、胸の奥が少し楽になった。
「……料理を作ってもらえるくらいで、そんなに?」
美咲が言った。
「ちゃんと話を聞いて、覚えててくれたってことでしょ。私は嬉しい」
美咲はグラスへ目を落とした。
「でも、何でもこっちに合わせてくるのは。こっちが少し怒れば、いつも折れるんです。自分がないっていうか」
「私は、困った時にちゃんと決めてくれる人だと思ってる」
立花さんの声は、さっきと変わらなかった。
「あの商談で、私、次に何をしたらいいか分からなくなったの。佐伯さんは、何を見せれば話を続けられるか考えて、先方への説明まで引き受けてくれた」
「それは仕事ですよね」
「うん。一緒に仕事をして、頼れる人だと思った」
美咲が黙った。
「でも、いつも自分で決めて押し切る人でもない。私がどう説明したいかは聞いてくれたし、先方が困ってることも、ちゃんと聞いてた」
立花さんは俺を見た。
「決められるのに、相手に聞いてくれる。私、そういうところが好き」
不意に、返事が出なくなった。
仕事ぶりや、相手への接し方の話だ。それは分かっている。
それでも、ずっと悪いところのように言われてきたことを、この人は見てくれていた。
「……ありがとうございます」
立花さんの目元が柔らかくなった。
美咲が、小さく息を吐く。
「あんまり褒めると、勘違いしますよ」
「本当にそう思ってるから、言ってるの」
立花さんはそれだけ答え、料理へ目を戻した。
「そろそろ冷めちゃうね。食べようか」
俺もフォークを持った。
彼女は俺の返事を待たず、キッシュにフォークを入れた。
* * *
温かい料理が運ばれてきて、会話はいったん途切れた。
立花さんは店員の説明にうなずき、俺はナイフを持ち直した。
美咲は、しばらく皿を見ていた。
俺が料理の感想を言うと、立花さんが顔を上げる。
そこから店の話になり、近くの商店街の話になった。美咲が知っている店の名前を挙げれば、立花さんはそちらにも顔を向けた。
俺も、気になっていた洋食屋の話をした。
「駅の反対側の、ハンバーグが大きいところ?」
「そうです。まだ行けてないんですけど」
「私も。前を通ると、いつもいい匂いがするんだよね」
言いながら、立花さんが少し笑った。
話題を変えたほうがいいか、長すぎないか。そんなことを考えずに話していた。
食事が終わり、席を立つ時、美咲が小さな声で言った。
「直人。帰り、少し話したいんだけど」
「分かった。店を出てから」
今後のことを、一度はっきりさせておきたかった。
会計のあと、三人で階段を下りた。
店の前で、立花さんが俺たちへ向き直る。
「今日はありがとう。二人とも、また来週ね」
「こちらこそ、ありがとうございました」
俺が頭を下げると、美咲も笑顔を作った。
「ごちそうさまでした。お疲れさまです」
立花さんは小さく手を振り、先に駅へ向かった。
俺は、その姿が角の向こうへ消えるのを見送った。
* * *
店の入口をふさがないよう、俺たちは少し離れた路地の手前へ移った。
立花さんの姿は、もう見えない。
美咲はさっきまでの笑顔を消し、バッグを肩に掛け直した。
「で、明日は何時に来る? 返品、午前中に終わらせたいんだけど」
「行かないよ。火曜に断っただろ」
「まだ怒ってるだけだと思ったから」
「んなわけないだろ」
美咲は唇を尖らせた。
「今日もさ。千尋さんの前で、あんな冷たい顔しないでよ。私が悪いことしたみたいになるでしょ」
「笑いものにされて、一緒に笑えっていうのか」
「大げさ。ただの冗談じゃん」
「俺は嫌だって、誕生日にも言ったよな」
美咲は俺を見た。
「自分で頼んだ料理を、人に送って笑って。今日も、それで俺が怒ったことを笑い話にしただろ」
「だから、さっきも言ったけど、そんな本気にしなくても」
「美咲が冗談のつもりでも、俺は嫌だった。それを分かってて続けるのは、やめてほしい」
通りを歩いていた人の足音が遠ざかった。
美咲は小さく息を吐く。それから、少し甘い声を出した。
「もういいって。私だって、直人がちゃんと謝ってくれれば、戻ることくらい考えるから」
美咲は俺を見て、ほんの少し笑った。
待たせたことも、料理を笑ったことも、彼女は謝っていなかった。俺が謝れば、また付き合ってやってもいいということだ。
「戻るわけないだろ」
美咲の口元が止まった。
「……意地張らなくていいって」
「意地じゃない。こうやって二人で会うのも、今日で最後にしたい。返品の手続きも、ほかの頼み事も、自分でやって」
「千尋さんに褒められて、いい気になってるだけでしょ」
「美咲の頼み事を断ったのは、火曜だろ」
「でも、さっき千尋さんと料理の話してた時、ずっと笑ってたじゃん」
美咲の声が尖った。
「私といた時には、そんなふうに楽しそうに話さなかったくせに」
「最初は、美咲にも話してたよ。料理の話も、行ってみたい店も。長い、つまらないって言われて、やめたんだ」
美咲は俺から目をそらした。
少しして、また俺を見る。
「……直人、私のこと好きなんでしょ」
「好きだったよ」
「だったら――」
「だから待ったし、頼まれたものも作った。でも、もう無理。戻らないし、もう戻りたくない」
美咲は唇を結んだ。
俺の返事を待っていた時の笑みは、もうなかった。
俺は続きを待たずに言った。
「美咲とは、もう終わりにしたい」
美咲はバッグの持ち手を握った。
しばらく待っても、返事はなかった。
「じゃあ、帰るから」
俺は通りへ出て、駅へ向かった。
彼女の機嫌を直すための言葉は、もう探さなかった。
* * *
あの夜、立花さんには、料理の話を聞いてもらえて楽しかったとメッセージを送った。
『私も。続き、また聞かせてね』
その返事を、翌日も読み返した。
一週間後の金曜日、退勤して会社を出たところで、俺から声をかけた。
「この前の洋食屋、二人で行きませんか」
「行きたい」
立花さんはすぐに答え、それから俺の顔を確かめた。
「……でも、この前のことで気を遣ってるなら、無理しなくていいからね」
「また会いたいんです。仕事のお礼じゃなくて、デートに誘ってます」
彼女の指が、バッグの紐をぎゅっと握った。
「……よかった。私だけかと思ってた」
うつむいた口元が、笑うのをこらえきれずに緩んだ。
俺まで嬉しくなって、予定を開く。
「来週の土曜なら――」
「今週は?」
目が合った。
「あ、ごめん。空いてたらで」
「明日でも、大丈夫です」
「じゃあ、明日」
また早かった。彼女は頬を赤くしながら、もう隠さずに笑った。
待ち合わせを決めて別れようとすると、呼び止められた。
「明日は、千尋って呼んでもらってもいい?」
「はい。じゃあ、俺も直人で」
「……直人さん」
自分で呼んで、自分で照れている。
明日まで待つのが惜しくなった。
* * *
翌日、駅で待っていた千尋さんは、白いニットに緑のスカートを合わせていた。
「似合ってます。きれいです」
そう言うと、彼女はほっと息を吐いた。
「よかった。三回着替えたから」
言ったあとで、口元を押さえる。
「……今のは、言わなくてよかった」
「聞けて嬉しいです」
「そういう返事、ずるい」
会議でどんな質問にも落ち着いて答える人が、俺から目をそらして、なかなか戻してくれなかった。
洋食屋では、二人ともハンバーグとオムライスの盛り合わせを頼んだ。
俺が家でハンバーグを作って崩してしまった話をすると、千尋さんはスプーンを止めた。
「それで、どうしたの?」
「煮込みハンバーグにしました。最初からそういう料理だったことにして」
「ごまかしたんだ」
「食べたの、俺だけですけど」
「じゃあ、ばれてるじゃん」
彼女が笑って、俺も笑った。
店を出る頃には、もう次の土曜日に観る映画が決まっていた。
映画の帰りに寄った雑貨屋では、千尋さんがマグカップを二つ並べて迷った。次に会った時もまだ気になると言うので、また一緒に見に行った。
仕事が終わると連絡を取り合った。休みの日に会っても、帰ってから話の続きを送った。俺の知らなかった彼女の話も、少しずつ増えていった。
三度目に会った帰り、駅までの道で足を止めた。
「千尋さん。俺と付き合ってください」
「はい」
返事をした彼女が、俺より驚いた顔をした。
「……もう少し、落ち着いて答えるつもりだったのに」
「考えてたんですか」
「考えるよ。今日、言ってもらえなかったら、私から言おうって」
俺は、彼女の手を取った。
指がすぐに握り返してきた。千尋さんはつないだ手を見て、それから俺を見上げる。
「今、すごく顔が緩んでる気がする」
「俺もです」
「うん。知ってる」
彼女は嬉しそうに笑って、俺の隣へもう少し近づいた。
* * *
翌週の金曜日、美咲は仕事帰りの駅前で直人を見つけた。
声をかけようとして、足が止まった。
隣には、千尋がいた。
信号待ちの間、二人は手をつないでいた。千尋が何か言い、直人が笑う。千尋はつないだ手を軽く揺らし、肩を寄せた。
美咲は、少し離れたところからその横顔を見た。
仕事でも容姿でも、誰かが千尋を褒めるたび、気に入らなかった。あの人だって大したことはないと、直人の前で何度も言った。
その千尋が今、直人に見上げるような笑顔を向けていた。
あんな顔をする人だとは、知らなかった。
直人も、美咲が少し機嫌を損ねただけで浮かべていた、困ったような笑い方をしていない。
信号が変わった。二人は手をつないだまま歩き出した。
こちらには気づかなかった。
美咲は駅へ入らず、近くの店の壁際でスマホを出した。
直人とのやり取りは、返品を断られたところで止まっていた。
『まだ私のこと好きなんでしょ?』
自分の送った言葉が、画面に残っている。
あの食事の帰り、もう戻らないと言われた。それでも、本当にほかの誰かを好きになるとは思わなかった。
少し放っておけば寂しくなって、直人から連絡してくる。
そう思っていた間に、あの二人は付き合い始めていた。
『今、千尋さんと付き合ってるの?』
打ってから消した。
そんなことを聞きたいのではなかった。
『あの日は言いすぎた。ごめん。もう一度、やり直せない?』
送信する指が震えた。
帰りの電車でも、部屋に戻ってからも、美咲はスマホを手放せなかった。
返事が来た時、反射的に起き上がった。
『やり直すつもりはない。今は立花さんと付き合ってる。もう、こういう連絡はやめてほしい』
短い文章を、何度も読んだ。
謝ったのに。
美咲はそう思い、すぐに、自分がまだ許してもらえるつもりだったことに気づいた。
「……振ったの、私なのに」
声にした途端、涙が落ちた。
別れると言えば、引き留めてくれるはずだった。自分だけがやり直したいと頼んで、断られることになるなんて、思っていなかった。
直人に大事にされていたのは自分だった。食べたいものを覚えてもらって、何時になるか分からなくても待ってもらっていた。
それを千尋が羨ましいと言った時は、自分のほうが上に立てた気がした。
今は、直人が誰のために休みの予定を空けるのか、聞くことさえできない。
写真を遡ると、あの日のビーフシチューが出てきた。
笑いものにするために撮った写真だった。向かい側にも皿があって、真ん中にはパンの籠が置かれている。
自分が来るまで、直人も食べずに待っていた。
七時に行けばよかった。
温かいうちに食べて、おいしいと言えばよかった。
別れるなんて、言わなければよかった。
「戻ってきてよ……」
もう一度頼む文章を打とうとして、指が止まった。
画面の最後には、連絡をやめてほしいと書かれている。
美咲はスマホを握ったまま、顔を伏せた。
泣いても、いつものように困った顔をして、隣へ来てくれる人はいなかった。
* * *
土曜日の夕方、千尋さんがうちに来た。
約束の五分前だった。手にはケーキの袋を持っている。
「デザート、買ってきた。冷蔵庫、借りてもいい?」
俺が袋を受け取ると、彼女は台所をのぞき込んだ。
「もうできてる?」
「シチューは。サラダを作ったら食べられます。座っててください」
千尋さんは少しだけ唇を尖らせ、バッグからエプロンを出した。
「……一緒に作りたくて、持ってきたんだけど」
「じゃあ、サラダ、お願いしていいですか」
「うん」
返事と一緒に、もう俺の隣へ来ていた。
二人分の場所を空けて、トマトとチーズを出した。切り方を相談しながら鍋をかき混ぜると、千尋さんが横からのぞく。
「味見していい?」
小皿によそった肉を食べて、彼女は目を閉じた。
「……おいしい。もうちょっと」
「今、盛りますから」
「うん。待つ」
そう言いながら、小皿は差し出したままだった。
俺が笑うと、千尋さんも笑って、ようやく皿を引っ込めた。
二人で料理を運び、温めたパンを真ん中に置いた。
向かいに座った千尋さんが、食べる前にスマホを出す。
「写真、撮ってもいい?」
「どうぞ」
画面が、俺のほうにも向いた。
「俺も?」
「うん。直人さんも、一緒に写ってほしい」
俺が少し背筋を伸ばすと、彼女は笑った。
「そんな、証明写真みたいな顔しなくても」
つられて笑ったところで、シャッターの音がした。
千尋さんは写真を確かめて、嬉しそうにスマホをしまった。
「いただきます」
「いただきます」
皿からは、まだ湯気が上がっていた。
千尋さんは一口食べて、さっき味見をしたばかりなのに、また目を細めた。
作ってよかったと思った。
「明日は、何か予定ある?」
千尋さんが尋ねた。
「特にないです。千尋さんは?」
「私もない。だから……」
彼女はスプーンを置き、俺を見た。
「今日、泊まっていってもいい?」
言い終わると、頬が赤くなった。
「まだ、帰りたくなくて」
「もちろん。俺も、一緒にいたいです」
千尋さんはほっとしたように笑った。
「じゃあ、朝ごはんは私が作るね」
「一緒に作りましょう」
「うん」
明日の朝に何を食べるか話しながら、二人で温かいシチューの続きを食べた。
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