悪役令嬢が描けない!
「悪役令嬢なのに悪いことができない? そんな悪役令嬢がいますか。もう一度、よく考えてきてください」
担当者に原稿を突き返され、私の足取りは重かった。
「あ~。困ったな……」
歩道橋をゆっくりと上りながら、担当者の言葉を思い返す。
「悪役令嬢なのに悪いことができない?」
「翼……。私、やっぱり漫画家に向いていないのかもしれない」
漫画家である私、月城千佳子(ペンネーム:ちか子)は悪者が描けない。
誰かが苦しみ始めると、私まで辛くなって描けなくなってしまうからだ。
「クララを悪役令嬢にしないと……」
頭上では、太陽がさんさんと輝いている。
六月の梅雨時だというのに、雲一つない。
珍しくて、私はさらに空を仰いだ。
(クララを悪役令嬢にしなくちゃ、悪役令嬢にしなくちゃ……)
◇
悪役令嬢にならなくちゃ!!
心に強く決意しながら、私、クララ・レイヴンは目を開きました。
「あら? あらあら?」
見渡せば、いつもの天蓋付きのベッドの中。
レースのカーテンからは、陽光が差し込んでいます。
部屋のドアから、ノックする音が。
「クララお嬢様。起きていますか?」
「あっ!」
私は思わず大きな声で、「入って頂戴」と返答しました。
ぼーっとしている時間はありません。
今日から私は、王立魔法学院の生徒になるのです!
由緒正しきレイヴン侯爵家第一子、クララ・レイヴン。
それが私。
今日は学院の入学式です。
私が通う学院は、貴族のみが入学を許される魔法学校。
将来は立派な魔法使いとなり、国政の要となることが約束されています。
真新しい制服に身を包み、革製のスクールバッグを自ら持ちます。
あら、けっこう重いわ。
王立魔法学院は自立心を育成する場所でもあります。自分のことは自分でやらなくてはいけません。
「ごきげんよう、クララ」
校門をくぐったところで、一人の令嬢が私に話しかけてきました。
同じ制服に身を包んだ、品性のある佇まい。私の金色の髪と同じくらい艶のある紫髪は、私よりも上品で爵位が高く見えます。
「ごきげんよう、ラーナ」
この令嬢ラーナは、私の幼馴染です。
親の爵位も同じで領地も近いため、昔からよく遊んでおりました。
「いよいよ入学式ですわね」
「ふふふ。緊張でよく眠れませんでしたわ」
「でも、優秀なあなたのことですもの。すぐに学院に馴染んで、三年後には代表生として「秘史典」を開くのでしょうねぇ」
ラーナは目を輝かせて、うっとりと明後日の方を見つめています。
彼女の頭の中では、私が祭壇に上り、秘史典を開く様子を妄想しているようです。
なぜかは存じ上げませんが、ラーナは昔から私を褒め、過剰に持ち上げる癖があります。可愛いですけれど、暴走するのが玉に瑕ですわ。
「秘史典って、卒業式に卒業生の前で開かれる古文書のことですよね? あれに触れることが出来るのは、選ばれた代表生のみという……」
我が学校には、昔から伝わる古文書「秘史典」があります。卒業式の日、代表生だけがそれに触れ、内容を卒業生たちに読み聞かせる任務を果たすのです。
「ええ。我が代の代表生はクララだと、私、信じておりますの!」
まだうっとりしています。
ラーナだって優秀です。私よりも勘が鋭く、行動力もあり、親の事業へ助言もしていると聞いておりますのに……。
「見て。クララ」
突然、先ほどまで和やかだった空気が一変しました。
周囲の生徒たちは歩みを止め、一人の女生徒に注目しています。
その女生徒は、明らかに品性がありませんでした。
ラーナが私に耳打ちします。
「彼女ですわよ。庶民ですけど、優秀だから、特別に入学が認められたという特待生は」
そう、彼女は貴族ではないのです。
栗色の髪の毛は乱雑にまとまっているし、視線は地面を見ていて、少し猫背です。
本来なら、学生同士。仲良くするのが筋でしょう。けれど、初めての「特待生」に、誰も彼もが彼女を遠巻きに見ております。
「っ!」
その途端、私は全身が痺れました。
頭の中で、誰かが叫びます。
「彼女をいじめなさい!」
私は混乱しました。
この声、何!?
「いじめなくちゃ……」
声を絞るようにして、私はささやきました。
私の発言に、ラーナは息を呑みます。
「今、何て?」
「私は、彼女を傷つけなければなりません!」
「な、何故ですか!?」
「わかりません。でも……」
私はラーナを見据えて、きっぱりと公言しました。
「どうしても、やらなくてはいけないのです! どんな困難があろうとも! レイヴン家の名にかけて!!」
「まあ、クララ様……」
何に感動したのか知りませんが、ラーナは目を潤ませてこちらを見つめています。
もちろん、これは良いことではありません。でも、悪者になるために、やるしかないのです!
「とくとご覧あれ。一人の女生徒に意地悪する私の雄姿を!」
数多の視線を気にもせず、私は庶民出身の女生徒の前に立ちふさがりました。
私の登場に、場の空気が変わります。
「あなたですわね! 貴族でもないのに、入学してきた優等生は!」
「あ、はい。アリエル・マーロウと申します! あの、よろしくお願いします!」
……ん?
ん~~!
あら! なんて可愛らしいお嬢さん!
緊張と興奮で、顔が真っ赤。よく見たら、耳まで赤くなって……。
まあ、まあ、背丈が小さいので、まるで小動物のようですわ~!
「っ! いけない!」
私は思いっきり自分の頬をひっぱたきました。
バチーンと鋭い音が校門に響きます。
「ひぃっ!」
「なに!?」
「やべっ!」
周囲の生徒たちは明らかに引いています。
ふんっ。引いている者は引いていればいいのです。
「やりますわね。アリエルさん。私に魔法をかけるなんて……」
「は、はあ……?」
大きな瞳を瞬きして、アリエルさんは首をコテンと傾けました。
か、かわいい……。まるで天使みたい。
え、これって無自覚なの? 魔法、使ってないの?
「クララ様? 大丈夫ですか?」
内心、舞い上がる私に、ラーナが声をかけてきました。
私は我に返り、慌てて「こほん」と咳ばらいをします。
「い、いいですこと! アリエル・マーロウさん! 私はあなたを認めませんわ!」
姿勢を正し、鋭い目つきで、アリエルさんを睨みつけます。
かなりいい感じですわ。
これぞ悪者! これぞ、悪役令嬢!!
「全く美しくない身のこなし。この学院にふさわしくありません! よって、私が徹底的にいじめて、しごいて……」
そこまで言って、私の思考は止まってしまいました。
いじめて、しごいて……。
それから、どうするの?
まさか、彼女を学院から追い出すの!?
庶民で、国立魔法学院を入学したのは彼女が初めて。
たくさんの人の期待を背負ってきたのは、想像に難くありません。
追い出すなんて、可哀相じゃない!
そこで、私はこう宣言してやりました。
「立派な淑女になるように、教育します! 覚悟なさいませ!!」
ビシッと人差し指で彼女を指します。
この威圧的な態度、立派な悪役令嬢ですわ。
さぞ、皆さま恐怖におののいているに違いません。
しかし、私の期待とは裏腹に、周囲からは拍手喝采の嵐が巻き起こりました。
「おお! 素晴らしい!」
「なんと立派な令嬢だろう!」
「率先して、身分の壁を崩すとは……!」
あら? あらあら?
どう見ても、悪役令嬢に対する反応じゃないですわ。
いや。でも確かに、よく考えてみれば、あの宣言は私がアリエルさんの面倒を見ると言っているようなもの……。
「クララ、素敵よ。私、あなたの友達で良かった」
ラーナは、涙を流して喜んでいるし。
肝心のアリエルさんに至っては満面の笑顔を浮かべ、私に深々と頭を下げてきました。
「よろしくお願いします! クララ様!」
えーっと、
なんでこうなったの?
◆
困ったわ、悪役令嬢にならなくてはいけないのに。
どんどん離れているような気がします。
休み時間。私はアリエルさんが庶民であることを、みんなの前で馬鹿にしようとしました。
「あなた、授業の内容についていけますの? ノートを見せてごらんなさい。どうせ、落書きだらけで……」
アリエルさんのノートを奪ってみれば、そこにはびっしりと魔法学に関する記述が書いてありました。
「す、すごい……!」
特待生扱いされるだけのことはあります。
だって、授業で先生がおっしゃっていないことまで書いてあるじゃありませんか。予習、復習もバッチリ! 勉学に関しては何の不備もございません。
「なんて立派なの!? アリエルさん!」
「クララ様?」
「後で、このノートを見せてくださいませ。私、参考にさせていただきますわ」
「は、はい! 是非!」
目を輝かせて、私を見つめるアリエルさん。
かわいい。
いや、ダメ!!
ダメよ、クララ。
褒めて、どうするのよ!?
「クララ、どうしたの? 苦悶の表情を浮かべて」
ラーナが心配そうに声をかけてくれるけど、正直、構えません。
頭上からは、常に「悪者に! 悪役令嬢に!」と指示が出てきます。
「意地悪しなくちゃいけないのに……」
そんなある日、いい情報が入りました。
アリエルさんはお昼時、一人で食事をとっているらしいです。
そういえば、彼女はいつも私たちと行動しているのに、昼休みだけはどこか行ってしまいますわね。
まさか、悪いことを……!
私の目が、どす黒く光ります。
「チャンスですわ! 現場を抑えて、弱みを握りましょう!」
わあ、悪者っぽい。
でも。
結果から言うと、アリエルさんは悪いことをしていませんでした。
一生懸命、彼女は魔法の練習をしていたのです!
「ヘンゲヘンシンカワレカ……」
あの呪文は変身魔法。
一生懸命、ベンチの上にある羽ペンに手をかざしているところを見ると、羽ペンを何かに変えようとしているのね。
真面目か!
「アリエルさん!」
つい、芝に隠れていた私は飛び出してしまいました。。
一緒に来ていたラーナも後から飛び出します。
「クララ。身体中に葉っぱがついていますわよ!」
私の身体に、どれだけ葉がついていようと構いません。
私は感動しました。
こんな勤勉な生徒が、この世にいるなんて!
「なんてすばらしいの!」
「クララ様!?」
私がまさか芝から飛び出してくるとは思わず、アリエルさんは目を丸くしています。
私は感動のあまり、アリエルさんの手をとりました。
「いつも昼休みは、一人で魔法の練習を?」
最初は慌てていたアリエルさんも、観念したようでした。
ゆっくりとうなずきます。
「はい。私は最近、魔法の勉強を始めたばかり。皆様……、特にクララ様に迷惑をかけたくなくて、一人で練習を」
「まあ!」
私はレースのハンカチを取り出し、目頭を抑えました。
なんて健気なの!
「一人でなんて水臭いですわ。私たちがいるではありませんか。お手伝いします!」
「クララ様……」
貴族から、まさかそんな言葉をかけてもらうとは思わなかったのか。
アリエルさんは私の胸に飛び込んできました。
「私、嬉しいです!」
私もしっかりとアリエルさんの小さい肩を抱きしめました。
ああ、大丈夫ですわ。アリエルさん。
私が立派な魔法使いになれるよう、サポートしますからね!
……って。
「それじゃダメなのよ!!」
私はついに吠えてしまいました。
でも、今は放課後。
教室には誰もいません。
叫ぶには絶好のチャンスです。
「ああ、どうしましょう。いじめないといけないのに、ちっともアリエルさんを傷つけられない……」
窓枠に手をかけ、私は深いため息をつきました。
悪者に向いていない。そんなこと、私自身がよくわかっています。
それでも、私の頭に響く命令は止まりません。
「悪者に! 悪役令嬢に!」
途方に暮れている私の背後に、まさかラーナがいたなんて。
私は全く気づきませんでした。
「クララ……」
◆
ある日。
私たちが学院生活に慣れてきたころ、事件は起こりました。
「ラーナ様! どうされたのですか!?」
アリエルの声が教室から響きます。
私がちょっと席を外している間に、トラブルがあったようです。
急いで教室に戻ってみれば、教室には生徒たちが集まっていました。
その中心に、アリエルとラーナがいます。
ん? ラーナが持っているのはバケツ?
「いい加減に気付きなさい! あなたがどれだけクララに迷惑をかけていると思っているの!?」
「わ、私は……」
「言ってもわからないのかしら? なら、頭を冷やすために、この水をかけてさしあげますわ」
ラーナのバケツを持つ手に力が入ります。
中では、水が音を立てて揺れました。
まさか、本当にアリエルに水をかぶせる気!?
「ラーナ!」
信じられないとばかりに、私はラーナに近寄ります。
ラーナは嬉しそうに笑いながら、私の名前を呼びました。
「クララ。私、あなたの望みを叶えて差し上げますわ」
「え」
「最近、苦しんでいたでしょう? アリエルをいじめないと……って」
「……」
血の気が失せました。
アリエルと親しくなる度に、私が悩んでいたことがバレていたなんて。
いえ、勘の鋭いラーナなら察しても不思議ではありません。
「わかっているわ。何かアリエルにやられたのね? だから、仕返しをするのでしょう?」
「え? えっと……」
ここで、「その通りですわ、ラーナ」と嘘をつけば、立派な悪者です。
あとは一緒になって、アリエルを小突き、バカにし、笑い者にすればいいだけ。
頭の中の声も鎮まるかもしれません。
……そうですわね。
今こそ、楽になりましょう。
「ラーナ!」
私は覚悟して、ラーナを強く抱きしめました。
「っ!」
ラーナは一瞬、動きませんでした。
ですが、徐々に事態を把握し、身体をよじります。
「クララ、どうしたの?」
「ラーナ、あなたがやろうとしていることは悪いことよ! やっていけないことだわ!」
「え、でも……」
「そうよ。私がいけないの。ごめんなさい。私の苦悩がこんなことになるなんて! 二度と悩みませんわ! 頭に響く声にも耳を傾けません! だから、こんなことは止めて!」
私が決めたのは、頭の中に響く声を断ち切ることでした。
こんなことになるなら、初めからやれば良かった。
「そんな……」
茫然とするラーナを離し、私はアリエルに向き直りました。
アリエルの小柄な体が小刻みに震えています。
「アリエル。ごめんなさい」
「クララ様……」
私は優しく栗色の髪に触れました。
彼女の瞳がだんだん潤み始め、涙がこぼれ落ちてきます。
「クララ様。私……」
「あなたは悪くないわ。悪いのは、全部、私です」
その時。
先生の甲高い声が廊下から聞こえてきました。
「一体、何の騒ぎです!」
「……」
私は立ち上がると、教室のドアに向かって歩き出しました。
出る直前で踵を返すと、ラーナとアリエルに向かって笑みを浮かべました。
「あなたたちが心配することは、何もありませんよ」
そして、静かに教室から出ていきました。
私は全てを告白しました。
頭の中で響く奇妙な声のことも。
そして、私の行動がラーナを惑わせ、アリエルに迷惑をかけたことも。
私は学校を休み、しばらく通院することになりました。
まあ、停学ですわね。
その後、病院でのカウンセリングが効いたのか。
それとも、あの事件で踏ん切りがついたのか。
いずれにせよ、頭の中で響く声は、だんだん弱くなってきました。
しばらくして、私は復学。
意外にも皆、私を歓迎してくれたのです。
「おかえりなさい、クララ」
「待っていました。クララ様」
ラーナもアリエルも、今まで通り接してくれました。
私は、すぐに事件のことを深く詫びました。
二人は同時に、「もういいです! 大丈夫です!」と同じ言葉を口にしました。
それがあまりにも同じタイミングだったので。
つい吹き出してしまいました。
私がいない間、ラーナとアリエルはよく話し合い、和解し、以前より仲良くなったようです。
ラーナがやったことは許されることではありませんし、その原因を招いた私も許されないでしょう。
それでも、目の前の二人の笑顔を見て、私は幸せでした。
◆
それから、二年後。
ついに、卒業式を迎えることになりました。
復学してから、私も含めて周囲はどんどん幸せになっていきました。
まずラーナの実家が事業に成功し、莫大な利益を得ました。成果の陰にはラーナの助言もあったらしく、両親が事業の一部を彼女に譲りたいと申し出たそうです。
「女社長ですわね」
「社長姿のラーナ様、かっこいいでしょうね」
「からかわないでくださいませ。クララ、アリエル」
次にアリエル。
彼女は、なんと公爵令息から求婚されました。
「女なら誰にでも言い寄るプレイボーイ」かと、私もラーナも睨みをきかせていたのですが……。どうやら、公爵令息は本気とのこと。
「それで、どうしてもって……」
「はいはい。良かったですわね」
「ご馳走様ですわ」
あまり面白くありません。
アリエルの姿勢を正し、身だしなみを教え、立派な淑女に成長させたのは、私たちですのに……。
まあ、公爵令息なら「良し」としましょう。もし、泣かせたら、ラーナと一緒に殴り込みに行きますけどね。
そして。
私、クララ・レイヴンは……。
卒業式の「代表生」に選ばれました。
一年生の時に犯した事件を気にする声もあるようですが。
成績優良、事件後の落ち着いた振る舞い、積極的な学校行事への参加が評価され、代表生に選出されました。しかも、アリエルも同時に!
「うれしいわ! あなたと共に「秘史典」を開くことが出来るなんて!」
「クララ様、私も……。光栄です!」
卒業式当日。
私たちは期待を胸に、壇上に立ちました。
卒業生全員が私たちに注目しています。
あ、ラーナの姿が見えます。私がにっこり笑うと、笑い返してくれました。
「これより、秘史典を公開する!」
学院長の声とともに、秘史典がワゴンに乗って運ばれてきます。
上質な絹に包まれた秘史典が、ゆっくりとその姿を現しました。
羊皮紙を数枚まとめた貴重な文献。ボロボロでくすんではいますが、それがかえって価値を見出しているように見えます。
あら、表紙に何か書いてありますわ。
えっと……。
「ちか子」
……え。
え。
そ、そんなこと、あるわけありませんわ……。
私は一歩後ずさりました。
「クララ様?」
アリエルが声をかけてくれますが、私は気丈に振舞えませんでした。
だって、だって、おかしい。
ちか子って……。
私の名前なのに!!
どこかで、心電図モニターの音がします。
ラーナを含めた卒業生たちの輪郭がぼやけ、遠のいていきました。
代わりに、病室のベッドが一台。
ベッドの上には七歳の弟、月城翼が横たわっています。
周りには、お父さんとお母さん、そして高校生の私。
「嫌だ……! 逝かないで、翼!!」
クララ・レイヴン侯爵令嬢ではありません。
本当の私、月城千佳子です。
◇
そうだ。思い出した。
約束を果たしたかったんだ。
病弱な弟と交わした約束。
小さいころから絵を描くのが好きだった私は、漫画を描いては、入院している弟に読ませていた。
「お姉ちゃんの漫画、好きだよ、僕」
「本当?」
弟と会うのは、いつも病院だった。
毎日、学校の帰りに入院している弟の元へ通っていた。
「だって、悪い人、一人も出てこないんだもの」
「あー、そこが「つまらない」とよく言われるんだよね……」
「そうかな? お姉ちゃんの漫画読むたび、僕、早く元気になりたいって思うよ。外はこんなにも優しさで溢れているんだって!」
小柄な身体で目を輝かせる弟は、小動物のようで可愛かった。
まるで天使みたい。
「ねえ、漫画家になってよ!」
「え」
「きっと僕みたいに、お姉ちゃんの漫画を見て、元気になる人がいるはずだよ!」
「え~……」
目を宙に泳がせる。
漫画家か。厳しい世界だろうな。
でも、目の前の翼の期待する瞳を見たら、私はうなずくしかなかった。
「よし、なってみせましょう!」
「やった!」
「翼は元気になるんだよ。退院して、学校に行く! いいね!?」
「もちろん」
翼は「見て」とサイドテーブルに置いてあった筆記用具やノートや教科書を指した。
ノートは新しく書かれた文字が並んでいる。
「学校に通えるようになったのに、授業についていけないなんて、嫌だから。僕、毎日勉強しているんだ」
「真面目か!」
芸人っぽくツッコミを入れると、翼は嬉しそうに声を上げて笑った。
無邪気な笑顔に、私もつられて笑ってしまった。
「嫌だ……! 逝かないで、翼!!」」
私は壇上を下り、ベッドのそばに歩み寄った。
弟の病気は治らなかった。
もう動かない弟の前に、私は泣き崩れた。
「私、漫画家になる! 翼との約束、絶対に守る!」
当時を思い出し、辛すぎる過去に、私は目頭を抑えた。
この後、私は漫画家としてデビューする。でも、ヒット作に恵まれず。「悪役令嬢もの」の漫画を描こうとするも、上手くいかなかった。
私なんて才能がない。
悩んでいる最中、歩道橋から足を滑らせて……。
落ちた。
「クララ様」
私の後ろで、秘史典を持ったアリエルが屈託のない笑顔を浮かべている。
ああ、その可愛らしい笑顔。大好きだった。
「翼……だね?」
「うん!」
もう、そこにアリエルの姿はなかった。
あったのは、懐かしい少年の姿。
途端に、私の視界が霞んだ。
「翼!」
たまらず、私は翼を抱きしめた。
懐かしいぬくもり、懐かしい香り、懐かしい息遣い。
心の底から感情があふれ出して、涙となって落ちていく。
「お姉ちゃん」
呼びかけられて、私はゆっくりと両腕の力を緩める。
翼は持っていた「秘史典」を開いた。
「あ……」
思わず目を見張る。
それは漫画のネームだった。没になった私の原稿。
でも、その隅には血の跡が染みついていた。
「……」
そうか。そうなんだ。
頭の中で響いていた声は、私自身の声だった。
そして、目の前に死んだはずの翼がいるということは……。
「私は死んだのね」
私は学院の制服を着ておらず、黒く艶の無い髪に戻っていた。貴族令嬢ではなくなっていた。
翼は大きく首を振った。
「ううん。お姉ちゃんは死んでないよ」
「え」
「意識が朦朧としているだけ。だから、会えたの。でも、もうお別れ」
天井が明るくなってきた。
異変に気付き、ふと手をかざしてみれば、向こうにいる翼の姿が見える。
私、透けている!?
「お姉ちゃんの作品、僕好きだよ。だって、悪い人が出てこないんだもの」
いつか聞いた言葉が聞こえてくる。
「お姉ちゃんも、自分の世界、楽しかったでしょう? 元気出たでしょう?」
気付けば、弟の後ろには、この世界で出会った人たちが集まっていた。
学院長に公爵令息、クラスメートのみんな。
そして、ラーナも。
「僕以外にもそう思っている人、きっといるよ」
翼の小さな手が優しく触れ、ぬくもりが伝わってくる。
「それを伝えたかったんだ」
「翼っ!」
私が目を覚ますと、白い天井が見えた。
直後、お父さんとお母さんの顔が飛び込んできた。
「千佳子……。千佳子~!!」
「良かった。今、先生を呼んでくる!」
慌ただしいお父さんの足音が、どんどん遠ざかる。
耳元で、お母さんの嗚咽が聞こえた。
「……」
頭が痛い。
容易に動かすことは出来そうにない。
ああ。
私、歩道橋から落ちたんだっけ?
それから……。
サイドテーブルの上にある書類が視界の隅に入った。
「あ」
見覚えのある原稿。没になったネームだ。
あの異世界で、翼と過ごした生活が脳裏によみがえる。
「……翼……」
私はうずくまり、静かに枕を濡らした。
◇
数年後。
漫画家ちか子として、私はテレビの画面に映っていた。
「本日のゲストは、漫画家ちか子先生です。先生のエッセイ漫画。『悪者が描けない!』は、他界した弟さんとの思い出を背景に、漫画家までの険しい道のりを軽いタッチで描いたエッセイ漫画です。笑えて泣ける作風が多くの読者の心をつかみ、元気になると評判で……」
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。




