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運命を紡ぐ

西日の差す喫茶店にて20-瞳-

作者: 蓮見庸
掲載日:2026/04/10

 昨晩から南風が強く吹き、まどろみの中にいたわたしの耳に、ガラス窓を強く叩く雨音が聞こえていた。

 その音はやがてわたしを深い眠りにいざない、気が付くとカーテンの隙間から弱い朝の光が差し込んでいた。

 とりとめのない夢を見た。

 よく夢で見るあたたかな景色のなかで、懐かしい人たちが出てきたような気もするが、その顔貌がんぼうはおぼつかなく、誰とどんな話をしたのか、その内容はまったく憶えていなかった。


 駅前の桜は満開を過ぎ、水たまりの残る墨色の歩道一面に、薄いピンク色の花びらが散り敷いていた。

 薄曇りの空は憂鬱ゆううつな気持ちにさせるようだったが、喫茶店に入るといつものようにマスターが笑顔で迎えてくれた。

「店の中は冷えますか? 動いているとわからないのですが、寒いようでしたらストーブに火を入れましょうか」

 どうやらコート姿のわたしを見て、マスターはそう気(づか)ってくれたのだった。

「いえ、今日はずいぶん暖かくてコートを着てきたのをちょっと後悔していたところなんです」

「そうですか。寒かったらおっしゃってくださいね。今日はコーヒーにしますか?」

「はい、ケーキセットでお願いします」

 マスターは「かしこまりました」と軽くうなづくとカウンターの中に入っていった。見ると、白い花びらの桜の枝が花瓶に生けてあった。

 わたしは窓際の席に座り本を開いた。ベストセラーとなった本が最近文庫になったもの。ほとんど読み終わっていて、ちょうど最後の1行を読んでいる時にコーヒーとケーキが運ばれてきた。今日はチョコレートケーキだった。

 わたしは本を閉じてコーヒーの香りをいっぱい吸い込んだ。ひとくち飲んで目を閉じると、本の中の登場人物の姿がはっきりと思い浮かんだ。

 店内には静かなピアノの曲が流れていた。さみしいけれど、陽の光に照らされたあたたかみのあるような曲だった。

 ページをぱらぱらとめくり、本の内容を最初から思い出しながら読み返していると、隣の席から若い男女の会話が聞こえてきた。

「……元気でな」

「うん」

「いつでも遊びに来ていいんだからな」

「うん。ぜったい来るね」

「みんなで待ってるからな」

「うん。待っててね」

 女はたどたどしいながらも、ひとつひとつの言葉を愛するように、ゆっくりと応えていた。

「ほんとに短い間だったけど、とても楽しかったよ」

「うん。わたしも」

「こんなに仲良くなるなんて思わなかったな」

「うん。なかよくできて、とても楽しかった」

「ちょっとさみしくなるな」

「うん。でも楽しかったからそれでいい」

「そうだな」

 とても親しく初々《ういうい》しい雰囲気が伝わってきた。

「ねえ、最初に会ったときなんて言ったかおぼえてる?」

「俺、なんか言ったっけ?」

「うん。わすれちゃったの?」

「ごめん。忘れた」

「ほんとにわすれちゃったの?」

「うん」

「ひどいよ」

 女は非難のことばを口にしていたが、その声色はとても楽しそうで、思わずわたしは顔を上げて彼女を見てしまった。

 思った通り彼女はほんとうに楽しそうな表情をしていて、いたずらっぽく小首をかしげるとその黒いポニーテールが揺れた。

 無邪気な笑顔とはこんな表情のことをいうのではないだろうか、そう感じさせる笑顔だった。

「ごめん」

 男はそうあやまったが、ほんとうはこの状況を楽しんでいるのではないかと思った。

「じゃあおしえてあげる。あのね。あなたのそのかっこう、すごくにあってますねって言ったのよ」

「俺、そんな恥ずかしいこと言ったっけ?」

「うん、言った。わたし、このしごと好きだったから、とってもうれしかったのよ」

「だったらよかった」

「こんど会ったらまた言ってね」

「憶えてたらな」

「うん。おぼえててね」

「……わかった、憶えとくよ。だから、またいつでも来てくれよな」

「うん、ぜったい来る……。あのね、手紙書いてあげるね」

「手紙?」

「うん。書いたら送るね」

「わかった。じゃあ、俺も頑張って返事を書くよ」

「ありがとう。楽しみにして待ってるね。あっ……」

 窓の隙間から強い風が吹き込み、ふいに彼女がこちらを向いた。

 ふんわりと微笑ほほえんだ彼女の、薄いフレームの丸いガラス越しに見えた瞳。

 そのふたつのまなこは、どこまでも澄んでいて、純粋なたましいそのものを映し出しているようだった。

 わたしは我を忘れてその光にき込まれた。

 彼女はわたしと目が合ったことに気が付くと、ひとを疑うことを知らないような、こちらが心配になるほど無垢むくな笑顔を向けてきた。

 わたしははっとして目をそらしてしまった。

 ひとを疑うことを知らない……?

 わたしはたったいま何気なく頭に浮かんだことを思い返した。

 …………違う、疑うことを知らないんじゃない。

 彼女はひとのけがらわしいところ、みにくいところ、美しいところ、いとしいところ、そのすべてを知っていて、それでもなお、ひとの純粋な心を信じて疑わないのだ。わたしはそんなことを思った。

 彼女と目が合ったのはほんの一瞬のことだったが、その笑顔を見ていると、わたしの心の中の汚い部分を見透かされたような気がして、けれどそれでもすべてを包んで許してくれるような気がして、なんだか涙があふれてきそうだった。

 わたしは彼女のように純粋な心を信じて生きていけるだろうか……。

 そう自分に問いかけながら口にしたチョコレートはとてもにがく感じられた。

 そして、コーヒーの最後のひとくちを飲み干した。

 窓には散り始めた桜と彼女の瞳が映っていた。


 外に出ると、ほんの小さな雨粒たちが、いつまでもやまずに吹き続けている風に乗り、パラパラと音を立ててコートの表面を叩いた。

 わたしは右手でそれを払い、ふと空を見上げると、雲間から澄んだ青空が覗き、白い桜の花びらがいくつも舞い降りてきた。

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