西日の差す喫茶店にて20-瞳-
昨晩から南風が強く吹き、まどろみの中にいたわたしの耳に、ガラス窓を強く叩く雨音が聞こえていた。
その音はやがてわたしを深い眠りに誘い、気が付くとカーテンの隙間から弱い朝の光が差し込んでいた。
とりとめのない夢を見た。
よく夢で見るあたたかな景色のなかで、懐かしい人たちが出てきたような気もするが、その顔貌はおぼつかなく、誰とどんな話をしたのか、その内容はまったく憶えていなかった。
駅前の桜は満開を過ぎ、水たまりの残る墨色の歩道一面に、薄いピンク色の花びらが散り敷いていた。
薄曇りの空は憂鬱な気持ちにさせるようだったが、喫茶店に入るといつものようにマスターが笑顔で迎えてくれた。
「店の中は冷えますか? 動いているとわからないのですが、寒いようでしたらストーブに火を入れましょうか」
どうやらコート姿のわたしを見て、マスターはそう気遣ってくれたのだった。
「いえ、今日はずいぶん暖かくてコートを着てきたのをちょっと後悔していたところなんです」
「そうですか。寒かったらおっしゃってくださいね。今日はコーヒーにしますか?」
「はい、ケーキセットでお願いします」
マスターは「かしこまりました」と軽くうなづくとカウンターの中に入っていった。見ると、白い花びらの桜の枝が花瓶に生けてあった。
わたしは窓際の席に座り本を開いた。ベストセラーとなった本が最近文庫になったもの。ほとんど読み終わっていて、ちょうど最後の1行を読んでいる時にコーヒーとケーキが運ばれてきた。今日はチョコレートケーキだった。
わたしは本を閉じてコーヒーの香りをいっぱい吸い込んだ。ひとくち飲んで目を閉じると、本の中の登場人物の姿がはっきりと思い浮かんだ。
店内には静かなピアノの曲が流れていた。さみしいけれど、陽の光に照らされたあたたかみのあるような曲だった。
ページをぱらぱらとめくり、本の内容を最初から思い出しながら読み返していると、隣の席から若い男女の会話が聞こえてきた。
「……元気でな」
「うん」
「いつでも遊びに来ていいんだからな」
「うん。ぜったい来るね」
「みんなで待ってるからな」
「うん。待っててね」
女はたどたどしいながらも、ひとつひとつの言葉を愛するように、ゆっくりと応えていた。
「ほんとに短い間だったけど、とても楽しかったよ」
「うん。わたしも」
「こんなに仲良くなるなんて思わなかったな」
「うん。なかよくできて、とても楽しかった」
「ちょっとさみしくなるな」
「うん。でも楽しかったからそれでいい」
「そうだな」
とても親しく初々《ういうい》しい雰囲気が伝わってきた。
「ねえ、最初に会ったときなんて言ったかおぼえてる?」
「俺、なんか言ったっけ?」
「うん。わすれちゃったの?」
「ごめん。忘れた」
「ほんとにわすれちゃったの?」
「うん」
「ひどいよ」
女は非難のことばを口にしていたが、その声色はとても楽しそうで、思わずわたしは顔を上げて彼女を見てしまった。
思った通り彼女はほんとうに楽しそうな表情をしていて、いたずらっぽく小首をかしげるとその黒いポニーテールが揺れた。
無邪気な笑顔とはこんな表情のことをいうのではないだろうか、そう感じさせる笑顔だった。
「ごめん」
男はそう謝ったが、ほんとうはこの状況を楽しんでいるのではないかと思った。
「じゃあおしえてあげる。あのね。あなたのそのかっこう、すごくにあってますねって言ったのよ」
「俺、そんな恥ずかしいこと言ったっけ?」
「うん、言った。わたし、このしごと好きだったから、とってもうれしかったのよ」
「だったらよかった」
「こんど会ったらまた言ってね」
「憶えてたらな」
「うん。おぼえててね」
「……わかった、憶えとくよ。だから、またいつでも来てくれよな」
「うん、ぜったい来る……。あのね、手紙書いてあげるね」
「手紙?」
「うん。書いたら送るね」
「わかった。じゃあ、俺も頑張って返事を書くよ」
「ありがとう。楽しみにして待ってるね。あっ……」
窓の隙間から強い風が吹き込み、ふいに彼女がこちらを向いた。
ふんわりと微笑んだ彼女の、薄いフレームの丸いガラス越しに見えた瞳。
そのふたつの眼は、どこまでも澄んでいて、純粋なたましいそのものを映し出しているようだった。
わたしは我を忘れてその光に惹き込まれた。
彼女はわたしと目が合ったことに気が付くと、ひとを疑うことを知らないような、こちらが心配になるほど無垢な笑顔を向けてきた。
わたしははっとして目をそらしてしまった。
ひとを疑うことを知らない……?
わたしはたったいま何気なく頭に浮かんだことを思い返した。
…………違う、疑うことを知らないんじゃない。
彼女はひとの穢らわしいところ、醜いところ、美しいところ、いとしいところ、そのすべてを知っていて、それでもなお、ひとの純粋な心を信じて疑わないのだ。わたしはそんなことを思った。
彼女と目が合ったのはほんの一瞬のことだったが、その笑顔を見ていると、わたしの心の中の汚い部分を見透かされたような気がして、けれどそれでもすべてを包んで許してくれるような気がして、なんだか涙があふれてきそうだった。
わたしは彼女のように純粋な心を信じて生きていけるだろうか……。
そう自分に問いかけながら口にしたチョコレートはとても苦く感じられた。
そして、コーヒーの最後のひとくちを飲み干した。
窓には散り始めた桜と彼女の瞳が映っていた。
外に出ると、ほんの小さな雨粒たちが、いつまでもやまずに吹き続けている風に乗り、パラパラと音を立ててコートの表面を叩いた。
わたしは右手でそれを払い、ふと空を見上げると、雲間から澄んだ青空が覗き、白い桜の花びらがいくつも舞い降りてきた。




