第五話-大敗
戦いに負け、逃げに徹した最後の賭けとは。
この戦いで二人が学んだこととは。
お楽しみに。
まだ、雨は降り続けている。朝日は雲に隠れていた。
湖を迂回して、まっすぐに進んでいく。
「どこに、行くんだ?」
杉本が問う。
「桂山脈だ!」
藤山が声を張った。
ドチャ ドチャ
いつもの軽快な馬の足音は、重たく、沈み込むようだった。
桂山脈が見えてくる。 霧に包まれた稜線は高く、切り立ち、逃げ場というよりは断崖だった。
背後では、まだ追撃の気配が消えていない。 泥を蹴立てる騎馬の影が、視界の端にちらついている。
藤山は一瞬だけ振り返り、すぐに杉本へとロープを投げた。
「山に登ったらこれを掛けろ。ここを越えられなければ、終わりだ。」
杉本は無言で頷いた。
馬を止める暇はない。 合図もなく、全員が一斉に馬から飛び降りた。
手綱を放たれた馬たちは、嘶きながら散っていく。 桂へ戻れるかどうかは、誰にも分からない。 だが、もう振り返る者はいなかった。
「山に登れ!」
杉本が声を張った。
兵たちは山へと取りついた。 ぬかるんだ斜面に手を突き、爪を立て、必死に身体を引き上げる。
一か八か、鎧を脱ぎ捨てるものもいた。
足を滑らせた者は、そのまま下へ消えていった。
敵も味方も、同じ泥に足を取られ、同じように落ちていく。 叫び声は雨と風にかき消され、次の瞬間にはなかったことになる。
濡れた山は、いつ崩れるかわからない。
杉本は一歩踏み外し、身体が宙に浮いた。 その瞬間、誰かが足元に滑り込む。
「――お登りください」
一人の武士が、身を投げ出すように足場となった。
杉本は歯を食いしばり、その背を蹴って跳ぶ。
武士はそのまま落下していく。
直後、下から矢が飛んだ。
武士の体に刺さる。 武士の身体が震え、力が抜け、そのまま泥の中へ沈んでいく。
杉本は振り返らなかった。
いつもの強気な目は、今だけは眉が下がり、弱々しかった。
異能を解放し、無理やり高度を稼ぐ。 足が焼けるように痛み、ぴくぴくと震える。 それでも、手は岩を掴んだ。
藤山もまた、異能を用いて斜面を駆け上がる。 泥に沈む寸前の兵を引き上げ、押し、叩き、前へ進ませる。
やがて、二人は山道へと転がり込んだ。 息を整える暇もなく、杉本はロープを垂らす。
一本、また一本。 必死にしがみつく手を、上から引き上げる。 助かった者もいれば、途中で力尽きた者もいた。
追ってきていた敵兵は、やがて足を止めた。 これ以上の追撃は不利だと悟ったのだろう。 山の下で動きが止まり、やがて姿を消した。
静寂が訪れる。 残った者たちは、泥にまみれたまま、ただ、道を歩いていた。
雨は降り続けている。
勝つために選んだ作戦だった。 だが、その判断が、多くを切り捨てた。
それでも、城は落ちていない。 何一つ、得られてはいなかった。
山道に残ったのは、 敗北と、拭いきれない悔しさだけだった。
武士たちは、その後、一言も交わさぬまま桂の国へと戻った。
誰の顔にも生気はなく、ただ敗北感だけが隊列の上に重くのしかかっていた。
杉本と藤山は、杉山屋敷へ戻ると、そのまま上の服を脱いだ。 露わになった身体には、無数の擦り傷と打撲の痕が残っている。
戦の激しさよりも、逃げ延びた証のようだった。
沈黙が落ちる。
「……雨に助けられたな。」 藤山が、ぽつりと言った。
「山に登らなければ、いずれ追いつかれてやられていただろう。」
「……わかってるさ。」
杉本は低く答えると、壁に拳を叩きつけた。
「俺のせいだ。」
声が震える。
「俺が、みんなの実力を見誤った。」
藤山は首を振る。
「それを言うなら、俺が悪い。」
「戦を……甘く見すぎた。」
「俺のせいで……」
杉本は歯を噛みしめる。
「みんなを、無駄死にさせちまった。」
「ちくしょー……」
掠れた声が、部屋に落ちた。
その時だった。 障子が、乱暴に開かれる。
「何をクヨクヨしているのですか。」
小林だった。
「小林……」
藤山が名を呼ぶ。
小林は一歩踏み出し、はっきりと言った。
「このままじゃ、次はうちが攻められます。」
「でも……」
杉本が言いかけた、その瞬間。
乾いた音が部屋内に響いた。
小林の手が、杉本の頬を打っていた。
「私たちは!」 小林は声を荒げる。
「あんたが細道殿を殺した時から、あんたたちに尽くすって決めたんだよ!」
「今さら、何にビビってるんだ。」
「こんなの、わかっていたことでしょう!」
杉本は、ただ黙って見つめていた。
小林は息を整え、続ける。
「殿は若い……戦経験なんて、ほとんどない。」
「こうなることだって、薄々、皆気づいていた。」
「それでも。」
小林の声は、静かだった。
「皆、殿についていっている。」
「その意思を、棒に振っていいのでしょうか。」
「ずっと、終わったことを悩み続けていて、いいのでしょうか。」
杉本と藤山は顔を見合わせた。
そして、同時に立ち上がる。
「……んなわけねえだろ。」
杉本が、ゆっくりと顔を上げた。
「会議開くぞ!」
拳を顔の前に持ってくる。
「ぜってえー許さねえ!」
その言葉を聞いて、小林は小さく微笑んだ。
「……承知しました。」
そう言って、部屋を後にする。
雨音だけが、静かに屋敷を打っていた。
このあと二人に待っているのは
2度目の敗北か、勝利か。
次回もお楽しみに!




