剣聖 序章 2026/01/17 19:22
剣聖連載始まりました!
争う理由、人々の思想が、物語が進むごとに激しく、
世界を歪ませるまでに発展していきます。
ぜひ、楽しんでください!
神は沈黙している。
だが、誓いが交わされた瞬間だけ、世界は神に見られる。
その視線から逃れたものはーーいない。
それが勝負であり、神から与えられた唯一の形式だった。
それでも人々は、今日も剣をとり続けている。
「真剣勝負か。」
月が天頂にあり、街は不自然に静まり返っていた。
街路の上に、二人の青年が向かい合わせに立っている。
夜明け前。
空はまだ青にすらなりきらず、東の端だけがかすかに白み始めていた。
戦国大名・細道の屋敷は、静まり返っている。
豪奢ではあるが、どこか息の詰まる造りだった。 同盟国を従え、富を集め、力を誇る者の屋敷に特有の重さが、空気の中に沈んでいる。
その一室で、藤山は正座していた。
探偵を生業とする藤山は、今日も仕事でこの国を訪れていた。
依頼主は細道。 内容は単純で、しかし不穏だった。
―― 金が盗まれた。
しかもただの盗難ではない。 夜の警備をすり抜け、金庫に触れ、痕跡を残さず消えた忍がいるという。
さらに悪いことに、その忍はすでに隣国・桂へ逃げたという情報が入っていた。
細道と桂は同盟国だ。 だが、その関係は決して対等ではない。 貿易も、条約も、常に細道が主導し、桂はそれを飲まされ続けている。
藤山はその事実を、探偵として、そして一人の人間として知っていた。
しかし、そんなことはどうでも良かった。
やがて藤山は屋敷を後にし、装いを変える。 模様のない、くすんだ灰色の小袖に、下は紺青色の袴を履いた。 髪には泥をつけ、あえて手入れをせずに、荒れさせた。
藤山は南東へ向かって走り、日が中天に差しかかる頃、ようやく桂の国へ辿り着いた。
桂に入った藤山は、桂の屋敷の外から内部を探る。
視線を研ぎ澄ませて、他のすべての五感を閉じ切った。屋敷の中には、何人かの武士が出歩いている。
しかし、屋敷の中に、明らかに異質な気配が一つだけあった。
周囲と比べる必要すらない。桁が違う。
藤山は息を殺し、視線を走らせる。
――いた。
一人の男。 何気ない立ち姿。 だが、そこに在るだけで、空気が歪んでいる。
次の瞬間。
その男が、ゆっくりと振り返った。
誰も気づいていない。 護衛も、家臣も、気配を察した様子はない。
だが、その男だけが、藤山のいる外を見ていた。
そして、唇だけを動かす。
「待て」
それだけだった。
藤山の背に、冷たいものが走る。
まるで―― 今は、触れるなと言うように。
藤山は唾を一飲みして、その場を立ち去った。
やがて夜が訪れる。 藤山はただ一人、住宅地より少し離れた街路に立ち尽くしていた。
月は高く、雲一つない空に冷たい光を落としている。 人の気配はなく、家々の灯りも遠い。
自分の呼吸さえもうるさく感じた。
少し強い風が、路地を抜けて吹いた。
次の瞬間、藤山の視界の先に――あの男が、立っていた。
いつ現れたのかは分からない。足音も、気配も、なかった。気づいた時には、すでにそこにいる。
男は小柄だった。身長は藤山より低く、せいぜい百六十五ほどだろう。 だが、その印象は体格とは噛み合っていない。
鋭い目つき。感情の読めない顔。 そして、どこの国にも属していないような、簡素で実用一点張りの装い。
忍びとも、武士とも、言い切れない体型。
腕は細く、わずかに長い。対して脚は、太さはないのに、異様な張りを帯びていた。
走るため、跳ぶために作られた身体――そう言われれば納得できるが、人としてはどこか歪だ。
沈黙を破ったのは、男の方だった。
「よお」
軽い声だった。 場に似合わないほど、気の抜けた挨拶。
そして、続けて断言する。
「外でコソコソしてたのは、お前だな」
藤山は答えず、男を見据える。
男は気にする様子もなく、顎をわずかに上げた。
「名前は?」
藤山は一拍置いてから、口を開いた。
「藤山透だ。」
男は短く頷き、自分も名乗る。
「杉本。……杉本翔」
その名を聞いた瞬間、藤山の中で何かが静かに引っかかった。
だが、今は掘り下げる気はなかった。
藤山は本題に入る。
「細道の金を盗んだのは、お前か」
「ああ」
即答した。
「返してもらえるか」
藤山の言葉は淡々としていた。 願いでも、命令でもない。これはただの確認である。
杉本は首を横に振る。
「無理だな」
「理由は」
「もう桂に渡した」
それだけだった。
藤山は小さく息を吐く。
「……そうか。」
仕事としての選択肢は、もう一つしか残っていない。
「なら、次は俺が奪い返すだけだ。」
そう告げ、藤山は踵を返した。
その瞬間。
「待て」
背後から、声がかかる。
昼と同じ言葉。 だが、今度は声として、はっきりと。
藤山は振り返らずに言った。
「止める理由はなんだ。」
杉本は答える。
「行かせたくない」
「桂への同情か」
藤山は淡く言い捨てる。
「そんなものは捨ててしまえ。」
再び足を踏み出した、その時だった。
月光が街路を薄く照らしている。 雲はなく、夜は澄み切っていた。
杉本が静かに告げる。
「真剣勝負をしよう。」
杉本翔のその一言で、空気が変わった。 音が消えたわけではない。
ただ、世界が一段、深く沈んだような感覚だった。
藤山透は、ゆっくりと振り返る。
「……真剣勝負か」
その言葉の意味を、二人とも理解している。 神が沈黙を破り、勝敗だけを“見る”形式。 一対一。逃げ場はない。
「勝ったらどうなる」
藤山が尋ねる。
「一つだけ、命令をさせてもらう。」
杉本はそれだけ答えた。
「敗北条件は?」
「どっちかが、負けを認めた時点だ」
藤山は小さく息を吐いた。
「……いいだろう」
藤山は続ける。
「俺が勝ったら、お前は俺の邪魔をするな」
藤山は腰に手をやった。
杉本は一瞬も迷わず頷いた。
「俺が勝ったら」
杉本は藤山をまっすぐ見据える。
「俺の話を聞け。興味が湧いたら、俺に協力しろ」
藤山はその条件の重さに、まだ気づいていなかった。
「……分かった」
誓いは交わされた。 その瞬間だけ、月明かりが戦場を示しているかのようだった。
杉本が、静かに刀を抜く。
金属音は小さい。 だが、その直後、杉本の身体から何かが溢れ出した。
『気』
生き物が等しく持つ力。
それを操作することで、肉体は本来の限界を超える。
藤山も同じように気を纏った。
地を蹴る音が遅れて聞こえた。
次の瞬間、杉本は藤山の目前にいた。
首元を狙った一閃。
藤山は後方へ跳ぶ。
紙一重。
刃が風だけを切り裂いた。
藤山の手が、懐に伸びる。指先に挟まれたのは、細い針。
ただ、投げただけで、針は異様な速度で飛んだ。
物体は、藤山の気が注がれていた。
杉本は刀で弾く。 だが、完全には防ぎきれなかった。
微かな感触。 足の甲に、鋭い痛み。
杉本は間合いを切り、即座に地を踏みしめる。 刀を振るうと同時に、圧が走った。
見えない斬撃が藤山を襲う。
藤山の身体は宙を舞い、地面に叩きつけられた。
息が詰まる。
その時、杉本の足に異変が走った。
痺れ。 さきほどの針に混じっていた毒だ。
杉本の体勢が、一瞬だけ崩れる。
藤山はそれを見逃さない。 だが、次の瞬間には理解した。
――来る。
藤山は受けの体制に入る。
杉本は大きく踏み込んでくる。 痺れを力でねじ伏せ、全力で。
速さの次元が違っていた。
藤山はすでに小刀を構えていた。 来る場所も、角度も、読めている。
それでも――
反応できなかった。
気づいた時には、冷たい刃が首元にあった。
藤山は、動きを止める。
「……俺の負けだ」
その言葉と同時に、世界の重さが解けた。
二人は同時に武器を収める。
夜の街路に、再び風が流れ始めた。
藤山は一歩下がり、淡々と確認する。
「約束だ。話を聞こう。」
杉本は頷き、そして口を開く。
「俺は――剣聖になる」
藤山は思わず目を見開いた。
その言葉には、誇示も、迷いもなかった。
剣の頂。 天下を統べる者。
勝利を積み重ね、神の定めすら踏み越える存在。
藤山は、ようやく理解する。
この男は、同情で動いていたわけではない。
桂を救うためでもない。利用しているのだ。世界そのものを。
そして、この自分をも。
「……そうか」
藤山は、静かに言った。
少し間を置き、続ける。
「もう少し、話を聞かせてくれ。」
夜は、まだ終わらない。




