第九十五話 深淵への扉
1.戦いの後
港町を包んでいた黒い影が消えてから、まだ一日も経っていなかった。
だが、人々の心には何日も何週間も経ったような疲労と虚脱感が残っていた。
倒壊した家々は布で仮に繕われ、瓦礫の下からはまだ時折、呻き声や泣き声が聞こえてくる。
それでも誰一人、立ち止まってはいなかった。
裂光の余波で壊された場所に布をかけ、灯りをともす。
歌を口ずさむ者もいれば、静かに祈る者もいた。
私は大家として、戦場となった港の中央に立っていた。
布の束を脇に抱え、人々の声を聞きながら、遠くの空に漂う黒雲を見上げていた。
「深淵は、まだ開かれたままか……」
その黒雲は渦を巻き、ゆっくりと町の外れに漂っていた。
近づけば吸い込まれるように裂け目の奥へと引きずり込まれるだろう。
そこが首領の退いた先、そして次なる戦場であることは、誰の目にも明らかだった。
2.リナの決意
リナが剣を布で包み直しながら、私の隣に立った。
「大家さん……私はもう迷いません」
彼女の眼差しは鋭く、だがどこか澄んでいた。
「この剣が裂けても、何度でも繕います。それが私の役目だから」
私は頷いた。
「お前は強くなったな。迷いを抱いたままでも、歩み続けられるのが本当の強さだ」
リナは少し笑って答えた。
「迷いごと剣に込めます」
3.リオの不安
リオは拳を見つめていた。
「なぁ……深淵に入ったら、俺の怒りも……もっと大きくなるんじゃねぇか?」
私は正直に答えた。
「そうかもしれん」
リオは苦く笑った。
「だろうな。でも……俺は殴るためだけじゃなく、繋ぐために拳を使うって決めたんだ」
拳に布を巻き直すと、彼は空に向かって拳を突き上げた。
「裂けても繕う! それは俺にもできる!」
4.マリエの歌
マリエは人々の間で布を配り、歌を紡いでいた。
その声は港の瓦礫の隙間に響き渡り、涙を誘い、同時に笑顔も生んだ。
やがて彼女は私のもとへやってきた。
「大家さん……歌うのが怖くなくなりました」
「怖くなくなった?」
私は問い返す。
「はい。歌えば……みんなの裂け目が見えるんです。でもそれを繕う光も見える。だから、もう迷わず歌えます」
彼女の声は小さいが確かな力を帯びていた。
5.幽霊たちの選択
夜が来ると、再び幽霊たちが現れた。
かつて家を守れなかった住人たち。
彼らは淡い光の布を掲げ、私に告げた。
「大家よ。我らは深淵には入れぬ。だが、この町を守るためなら留まれる」
「町を……?」
「そなたらが深淵に挑む間、この町を影から守る。繕いの歌を絶やさぬように」
私は頭を下げた。
「頼む。俺たちが戻る場所を……守ってくれ」
幽霊たちは静かに微笑んだ。
6.深淵の前に
翌朝。
町の外れ、黒雲が渦巻く場所に人々が集まった。
そこは地面が大きく裂け、闇の渦が地平を飲み込むように広がっていた。
裂け目からは冷たい風が吹きつけ、心の奥を震わせる囁きが聞こえてきた。
「お前は守れなかった」
「お前は欺いた」
「お前は裂けたままだ」
人々は身をすくめたが、布を握ると震えが和らいだ。
マリエの歌声が広がり、皆の心を繕っていく。
リナが剣を、リオが拳を掲げる。
私も布を高く掲げ、声をあげた。
「深淵に入るのは、俺たちだけじゃない! この町の心ごと共に行く!」
7.扉の開放
黒雲の渦が轟音をあげ、中央に巨大な裂け目が開いた。
そこはどこまでも深い闇。
しかし布を掲げると、ほんのわずかに光の道が差し込んだ。
「これが……深淵への扉」
リナが剣を構え、リオが拳を握る。
マリエは歌を強め、光の道を支える。
私は一歩踏み出し、布を闇の中へ伸ばした。
「さぁ行こう。俺たちの繕いを、深淵に刻むんだ!」
光が裂け目を照らし、道が開けていく。
8.住人たちの見送り
町の人々が布を掲げ、口々に叫んだ。
「裂けても――繕える!」
「裂けても――繕える!」
その声が背中を押した。
私は胸の奥で強く誓う。
――必ず戻る。この町を、住人を、未来を繕うために。
光の道を踏みしめ、私たちは深淵の中へと足を踏み入れた。




