第七十一話 影の渦を越えて
1.港を覆う黒霧
その夜、町の港は一面の黒霧に閉ざされた。
昼間まで魚を積んでいた船の帆も、倉庫に積まれた荷も、霧に飲まれて輪郭すら見えない。
波止場を踏みしめれば、ぐにゃりと柔らかな感触が足に伝わった。影が足元に絡みつき、こちらを海底へ引きずり込もうとしているのだ。
「……これは普通の霧じゃないな」
私は吐く息すら重く感じるほどの濃い気配に、思わず背筋を伸ばした。
リナは剣を抜き、刃にかすかに白い光を灯す。
「影の渦……裂け谷の残党が、ついに本気を出した」
リオは拳を握り締め、鼻息を荒くした。
「上等だ。大家、俺が一番に突っ込んでいいか?」
私は首を横に振った。
「突っ込むんじゃなく、守るんだ。港も、町も、みんなの暮らしも」
その言葉にリオは一瞬歯噛みしたが、すぐに笑みを浮かべて頷いた。
「……そうだったな。大家の言葉、町の掟みてぇなもんだ」
2.歌と布の灯り
港の広場では、すでに住人たちが集まっていた。
縫い子たちが作った小さな「心の布」が焚き火の周りに掲げられ、町の人々がそれに手を触れながら歌を響かせている。
「裂けぬ心、繕う絆……」
歌声は震えていたが、確かに闇に立ち向かおうとする意志があった。
マリエが針箱を胸に抱え、私の前に駆け寄った。
「大家さん! 霧が濃すぎて歌が届かない場所があるんです! 布をもっと掲げなきゃ!」
「分かった。俺も手伝う。リオ、リナ、護衛を頼む」
「おう!」
「承知した!」
私たちは心の布を町の灯台や倉庫の屋根に掲げていった。
すると布の縫い目が淡い光を帯び、影を押し返すように霧を裂いていく。
幽霊少女がその光を見上げ、ぽつりと呟いた。
「……あったかい。生きてた頃の家みたい」
私は少女の頭を撫で、笑みを浮かべた。
「ここがもう、お前の家だ」
3.影の首領の出現
だがその瞬間、港全体を揺らすような低い笑い声が響いた。
「人の裂け目を縫い合わせるなど、愚かなことだ」
霧の中心から現れたのは、背の高い影の男だった。
黒布の長衣をまとい、顔は仮面で覆われている。だが仮面の隙間から覗く瞳は赤く光り、まるで火のように燃えていた。
「裂け谷の首領……!」
リナが剣を強く握り締める。
影の男はゆっくりと歩みを進め、私たちを見下ろした。
「旗を守ったことは聞いている。だが所詮は布一枚。人の心は裂ければ戻らぬ。欲も恐れも、縫えはしない」
「縫えるさ」
私は一歩踏み出し、男を見据えた。
「心の布を見ろ。みんなで触れ、歌い、繋いでる。裂けても繕えるんだよ」
男は一瞬沈黙したが、すぐに笑い声を上げた。
「面白い。ならば、その心ごと引き裂いてやろう」
4.大家と住人の連携
影の男が両手を広げると、黒霧が渦を巻き、無数の影が生まれた。
漁師たちが恐怖に声を上げた瞬間、リナが前へ出る。
「怯えるな! 私たちがいる!」
その言葉に人々は再び歌い出した。
リオは影の群れに拳を叩き込み、叫ぶ。
「大家! 後ろは任せろ!」
マリエは布を掲げながら縫い目に糸を通し続けた。
「光が途切れないようにします!」
幽霊少女は人々の背中に寄り添い、冷たい手でそっと支える。
「大丈夫。怖くないよ」
私は全体を見渡し、声を張り上げた。
「倉庫を守れ! 灯火を絶やすな! 心を裂かせるな!」
住人たちは頷き、布を掲げ、歌を強めていく。
5.心の布の力
戦いが長引くほど、町の人々の心は疲弊していった。
それを見た影の首領は勝ち誇った声をあげる。
「ほら見ろ。裂け目は広がるばかりだ」
その瞬間、マリエが震える声で叫んだ。
「裂けても、繕えるんです!」
彼女は心の布を高く掲げ、針で縫い目を走らせた。
するとその布に触れていた人々の願いが糸に宿り、布全体が強い光を放った。
光は渦を裂き、影を弾き飛ばす。
人々は驚きながらも次々と布に手を重ね、祈りを込めた。
「家族を守りたい!」
「港を守りたい!」
「未来を繋ぎたい!」
願いは縫い目に重なり、やがて港全体を覆う巨大な光の布となった。
6.決着
影の首領は仮面の奥で目を見開いた。
「馬鹿な……人の心が、これほどの力を……!」
私は布の光の中で叫んだ。
「人は裂ける。でも、何度でも繕えるんだ!」
その瞬間、光の布が一斉に収縮し、首領を包み込んだ。
仮面が砕け、男の体は霧と共に消え去った。
港を覆っていた黒霧も嘘のように晴れ、夜空に星々が姿を現した。
7.余韻
人々は歓声を上げ、互いに抱き合った。
リナは剣を収め、静かに言った。
「裂け谷の脅威は去った。だが忘れるな。心が裂ける時、影はいつでも生まれる」
リオは港に腰を下ろし、大きく息をついた。
「疲れたが……悪くねえな。こうやって守れるのも」
マリエは布を抱きしめ、涙をこぼした。
「私……縫えてよかった。みんなの心を」
幽霊少女は夜空を見上げ、微笑んだ。
「この町、ずっと守りたい」
私は港を見渡し、深く頷いた。
「町は裂けても、繕える。だからこそ、ここからまた始めよう」
その言葉に人々は声を合わせ、再び歌った。
――裂けぬ旗よ、裂けぬ心よ。
港に新しい朝が差し始めていた。




