第六十六話 夜襲
1.静けさの裏に
その夜の町は、妙に静まり返っていた。
昼間の市場の喧騒が嘘のように消え、波の音すら抑え込まれているようだった。
下宿の窓から港を見下ろしながら、私は背筋を伸ばす。
「来るな……」
直感がそう告げていた。裂け谷の一族は、旗ではなく歌を狙っている。ならば人々が眠りに落ちたこの時こそ、襲撃の機会だ。
リナは既に剣を膝に置いて座しており、リオは手に縄を巻いて気合を入れている。
マリエは縫い子たちを寝かしつけ、自分は下宿の広間に布を広げて待っていた。
トルクは木槌を握り、玄関口に陣取っている。
緊張が町全体を包み込んでいた。
2.影の侵入
夜半を過ぎた頃だった。
旗が不意に大きくはためいた。風はない。なのに旗が震えたのだ。
「来る!」
私の叫びと同時に、闇の中から複数の影が町に忍び込んできた。
屋根を駆け、路地を走り、倉庫や家々の隙間から這い出してくる。
「警鐘だ!」
リオが鐘を打ち鳴らし、金属音が夜を裂いた。
町のあちこちから灯りがともり、人々が飛び起きる。
だが影は速かった。狙いはやはり広間に集められた歌い手たち――縫い子や吟遊詩人。
3.広間の戦い
「ここは通さない!」
リナが剣を抜き、影の刃を受け止めた。火花が散り、金属音が響く。
リオが飛び出して拳を振り下ろし、一体を地面に叩きつける。
トルクは木槌を振るい、影を壁ごと粉砕した。
だが影は煙のように形を崩し、再び立ち上がる。
普通の敵ではない。打ち倒すより、縫い止めるように封じなければならない。
「歌を!」
私はマリエに叫んだ。
彼女は恐怖を押し殺し、布を胸に抱きながら歌い始める。
やさしく、温かな旋律が広間に広がり、影たちの動きがわずかに鈍った。
4.町全体の応戦
外でも戦いが始まっていた。
漁師たちが網を広げて影を絡め取り、商人たちが火を灯して闇を照らし、職人たちが鎚で地面を叩いて合図を送る。
町全体が一つの砦になっていた。
だが敵は多い。
広間の窓が破られ、二体の影が歌い手に迫る。
「させるか!」
私は木の椅子を掴み、全力で投げつけた。椅子は影の胸を打ち抜き、リナの剣がそこに突き刺さる。
影は苦悶の声を上げ、煙と化して消えた。
5.旗の揺らぎ
そのときだった。
丘の上の旗が、不意に大きく裂ける音を立てた。
「旗が……!」
人々の叫びが夜を揺らす。
影たちが一斉に動きを速めた。旗を裂くのではなく、旗を揺らして人々の心を裂こうとしている。
「怯むな!」
私は声を張り上げ、仲間と共に歌の輪を守った。
だが、裂け目の向こうからさらに濃い影が現れた。
その姿は人のようでありながら、目だけが赤く光っていた。
6.指揮者
赤い目の影は低い声で囁いた。
「……歌う者を絶てば、この町は裂ける」
その声に、影たちが一斉に動きを揃えた。まるで指揮者に操られる楽団のように。
リナが剣を振るうが、連携した動きに押されて後退する。
リオが拳を振るうが、数で圧される。
トルクが木槌を叩きつけても、すぐに別の影が穴を埋める。
私は歯を食いしばった。
「これが……一族の本当の力か」
7.歌の逆流
だが、マリエの声がそれを上回った。
恐怖に震えながらも、彼女は布を握りしめ、さらに強い声を響かせた。
「裂けぬ旗よ、裂けぬ心よ――!」
その声に、縫い子たちが続き、吟遊詩人が調べを重ねる。
歌声が重なり合い、広間を満たす。
赤い目の影がわずかにたじろぎ、影たちの動きが乱れた。
「今だ!」
リナが切り込み、リオとトルクが同時に叩きつける。
影の群れが崩れ、赤い目の指揮者が後退した。
8.決戦
私は飛び出し、指揮者の前に立った。
「この町は裂けない。大家として、そうさせない!」
影の刃が振り下ろされる。私は身をひねってかわし、倒れていた旗竿の一部を手に取った。
ただの木の棒。だが、町を支えた旗の欠片だ。
「これが町の証だ!」
私は力任せに振り抜き、赤い目の影を打ち据えた。
影は悲鳴を上げ、煙となって四散した。
9.暁
戦いは夜明けと共に終わった。
港に立ち込めていた闇は晴れ、人々の歌声が町を包んでいた。
旗には確かに裂け目ができていた。だがそれを見上げた人々は口々に言った。
「裂けても……また縫えばいい」
「旗は裂けても、心は裂けない」
マリエが涙をぬぐい、針を手に取った。
「私が必ず繕います。旗も、人の心も」
朝日が町を照らし、裂けた旗を黄金色に染めた。
その下で私は深く息をつき、心の奥で静かに誓った。
(俺は大家だ。この町を守り続ける)




