第六十二話 裂け谷への道
1.北への旅立ち
朝霧に包まれた港町をあとにして、私たちは北へと進んだ。
裂け谷の神殿――石板に刻まれた紋章が指し示した場所。
そこには旗を狙う一族の痕跡、あるいは影の本拠があるに違いない。
リオは大声で歌を口ずさみながら、行進のように歩いている。
マリエは旗の端布を抱き、慎重に道を確かめながら進む。
トルクは荷車を押し、リナは剣を腰に静かに周囲を警戒していた。
私はふと、背後の町を振り返った。
広場にはまだ人々の歌声が残響のように響いている気がした。
「……旗を裂かせない。それが俺たちの務めだな」
誰にでもなく呟くと、リナが小さく頷いた。
2.森を抜けて
町を離れて三日。道はやがて険しい森へと続いた。
樹々の枝葉が陽を遮り、昼でも薄暗い。鳥の声はなく、代わりに低いうなりのような音が耳にまとわりつく。
リオが肩を竦める。
「なぁ大家さん……なんか、森が生きてるみたいだぞ」
「柱の残り香かもしれん」
私は斧を構えつつ進んだ。
やがて、黒ずんだ樹皮の木々が並ぶ一角に出た。
幹には古代文字が刻まれている。裂けたような線が連なり、不吉さを際立たせていた。
吟遊詩人が囁く。
「これは……“裂けよ”の印。石板の歌と同じだ」
マリエが怯え、布を握りしめる。
だがリナは剣を引き抜き、鋭く言った。
「恐怖に呑まれるな。斬り伏せればただの木だ」
そう言って幹を斬ると、黒い木は音もなく崩れた。
その瞬間、森のうなりが少し弱まったように感じた。
3.裂け谷の入口
五日目、ついに谷の縁に辿り着いた。
巨大な裂け目が地平を断ち切るように走り、その底は暗黒に沈んでいる。
岩壁には無数の亀裂が広がり、まるで大地そのものが裂けているかのようだった。
トルクが息を呑む。
「すげぇ……これが“裂け谷”か」
谷を渡る唯一の吊り橋は、古びた縄でかろうじて繋がっていた。
下を覗くと、霧の中から時折呻き声のような風音が上がってくる。
リオが顔をしかめた。
「落ちたら終わりだな」
「落ちないように渡るしかない」
私は深呼吸し、仲間に順番を決めて橋に足をかけた。
4.吊り橋の試練
橋は思った以上に揺れた。
板はところどころ欠け、縄は湿気で軋んでいる。
下から吹き上がる風が体を揺さぶり、視界を奪った。
先頭を進むリナは冷静だったが、リオは声を張り上げた。
「うわぁ、やっぱり嫌だこれ!」
マリエは震える手で布を抱きしめ、祈るように歩いている。
私は背後から声をかけた。
「大丈夫だ。旗を守るための道だ。恐怖は裂けさせない」
その言葉に、彼女は小さく頷いた。
だが途中で、縄が突然切れた。
リオがバランスを崩し、危うく落ちかける。
「うおおっ!」
私は咄嗟に腕を掴み、全身で引き上げた。
全員が息を整えたとき、橋の先に光が見えた。
そこには巨大な石の門がそびえていた。
5.石の門
門には巨大な紋章が刻まれていた。
それは石板と同じ“裂け”の印。だが中央にもう一つ、見慣れぬ模様が加えられている。
吟遊詩人が目を凝らす。
「……これは“封じ”の紋だ。裂けを押さえ込むためのもの」
つまり、この門は単なる入口ではなく、封印の役割を持っているのだ。
リナが剣を抜き、慎重に言った。
「開ければ封印を解くことになる。だが進むには……」
私は頷いた。
「避けては通れん。だが無闇に壊すのではなく、方法を探そう」
6.石板の答え
私は荷から石板を取り出した。
刻まれた歌を吟遊詩人が再び唱える。
「裂けよ、旗よ……」
だが途中で、幽霊少女が割って入った。
「違う……。裏に、もうひとつ言葉がある」
彼女の指先が石板の裏をなぞると、見えなかった文字が浮かび上がった。
それは“裂けを縫え、旗を守れ”という反対の句だった。
私たちは顔を見合わせた。
「封印を開くには、この“縫え”の句を唱える必要がある」
吟遊詩人が静かに結論を告げた。
7.門の開放
全員で声を合わせた。
「裂けを縫え、旗を守れ!」
石の門が震え、亀裂が光に満たされていく。
やがて重々しい音を立てて開いた。
その向こうには、地下へと続く階段が口を開けていた。
冷たい風が吹き出し、まるで底から誰かの囁きが響いてくるようだった。
リオが唾を飲み込む。
「……いよいよ本番だな」
私は仲間たちを見渡し、力強く言った。
「ここからが裂け谷の試練だ。恐怖に裂かれるな。共に進もう」
8.決意
階段を降りる足音が、谷に反響した。
誰も口を開かなかったが、それぞれの表情に決意が刻まれていた。
旗を裂かせないために。
町を守るために。
そして、古代の闇を終わらせるために。
私は胸の奥で誓った。
(大家として――仲間と町を必ず守り抜く)
闇の底へ続く階段を、一歩ずつ踏みしめていった。




