第二十七話 裁縫部屋の灯り
1.朝の針音
マリエがアパートに来てから一週間。
まだ彼女は町へ戻る勇気を持てずにいたが、それでも少しずつ笑顔を見せるようになっていた。
その朝、廊下を歩いていると、ひと部屋からカタカタと軽やかな音が聞こえてきた。
覗いてみると、マリエが机に布を広げ、針を動かしていた。
窓から差し込む光に照らされ、彼女の指先は迷いなく布を縫い合わせていく。
その姿は、怯えてここに来たときとは別人のようだった。
「おはようございます、大家さん」
マリエは少し照れながら顔を上げた。
「眠れなくて……針を動かしていたら落ち着くんです」
「とてもきれいな縫い目ね」
私が感嘆すると、マリエの頬が赤らんだ。
「子供の頃からずっとやってきたことだから……。でも、褒めてもらえるの、久しぶりです」
彼女の声には、ほんの少し自信が戻り始めていた。
2.ほころんだ靴
その日の昼、リオが片足を引きずって庭から戻ってきた。
「大家さーん、靴が……!」
見ると、靴のつま先がぱっくり割れている。
畑仕事で泥にまみれ、糸が切れてしまったのだ。
「リオ、大丈夫?」
「うん。でも歩きにくい……」
すると、マリエが声をかけた。
「私が直しましょうか?」
彼女は慣れた手つきで靴を受け取り、針と糸で破れを繕っていく。
リオは興味津々でその作業を覗き込んだ。
「すごい! 魔法みたいに早い!」
「ふふ……ただ縫っているだけよ」
ものの一刻で靴は見事に直り、リオは嬉しそうに飛び跳ねた。
「ありがとう! マリエさん!」
その光景を見ていたミナがぼそりと呟く。
「悪くねえな……」
3.修繕の波
それをきっかけに、住人たちは次々とマリエに頼みごとをするようになった。
リナは古くなったマントを差し出し、
「魔法の書を運ぶときに使ってきたものなの。ほつれを直せる?」
トルクは破れた作業用の手袋を持ってきて、
「この革、まだ使える。捨てるのは惜しいんだ」
幽霊少女は意外にも、淡い布をそっと差し出した。
「これは……私が覚えている最後の布。縫い合わせて……枕にしてほしい」
マリエは一つ一つ丁寧に針を進めていった。
その部屋はいつしか「裁縫部屋」と呼ばれるようになり、針の音がアパートの日常に溶け込んでいった。
4.リオの服
ある晩、マリエが食堂に大きな包みを持って現れた。
「みんなに見てもらいたいものがあって……」
包みを開くと、中には新しく仕立てられた子供服が入っていた。
柔らかな布で作られ、色鮮やかな刺繍が施されている。
「リオ君、よかったら着てみて」
リオが目を輝かせて服を手に取り、急いで着替える。
その姿に皆が思わず息を呑んだ。
まるで町のお祭りに出かける子供のように、明るく華やかな姿。
「わあ……すごい! こんな服、初めて!」
リオがくるくる回ると、幽霊少女が小さく拍手した。
ミナが鼻を鳴らしつつも笑う。
「似合ってんじゃねえか」
マリエの頬には、自然な笑みが浮かんでいた。
5.灯りの下で
その夜、私は廊下を歩いていて、ふとマリエの部屋から漏れる灯りに気づいた。
中を覗くと、彼女は一人机に向かって針を動かしていた。
「もう遅いわよ」
私が声をかけると、マリエは少し驚いた顔をして微笑んだ。
「でも、こうしていると心が落ち着くんです。昼間、みんなが笑ってくれるのを思い出して……」
彼女は針を止め、窓の外を見やった。
「町にいた頃は、もう笑えないと思っていました。壊されるのが怖くて……。でもここでは、縫ったものが誰かを喜ばせてくれる。それが嬉しいんです」
私はそっと頷いた。
「それなら、この部屋はあなたにとっての工房ね。灯りを消さずにいられる場所」
マリエの目が潤み、やがて深く頭を下げた。
「……ありがとうございます、大家さん」
6.町からの依頼
数日後。
門の外に立っていたのは、町からの商人だった。
彼は布の束を抱え、興奮した様子で言った。
「マリエさんの腕前が町でも噂になってましてね! ぜひ仕立てをお願いできないかと!」
マリエは驚きで言葉を失った。
恐れて逃げてきた町から、再び声がかかるとは思っていなかったのだ。
住人たちも集まってきて、口々に励ます。
「いい機会じゃないか」
「無理に町へ戻らなくても、ここで注文を受ければいい」
「俺たちが守る。安心しろ」
マリエはしばらく沈黙した後、ゆっくりと頷いた。
「……やってみます。ここで、ここから」
その言葉に、皆の顔がほころんだ。
7.灯りは消えず
夜。
裁縫部屋の窓から、遅くまで灯りが漏れていた。
針の音が規則正しく響き、そのたびに布が形を変えていく。
私は庭からその灯りを見上げ、胸の奥が温かくなるのを感じた。
恐怖に怯えていた彼女が、今は自分の手で未来を縫い直そうとしている。
「……いい灯りだわ」
その呟きに応えるように、幽霊少女が隣に現れた。
「ここに来て、みんな変わっていくね」
「ええ。アパートがあるからこそ、変われるのよ」
星空の下、裁縫部屋の灯りは揺らめきながらも、決して消えることはなかった。




