市場へ行こう
朝食を終えた大家たちは、港町の賑わう市場へと出かける準備を始めていた。
「市場なんて久しぶり!」
リオが大声を上げながら、すでに玄関で靴を履いている。元気すぎる足取りに、床板がぎしぎしと悲鳴を上げた。
「はしゃぎすぎだぞ。落ち着け」
リナが眉をひそめながらも、その口元は僅かに緩んでいる。戦いの頃には見せなかった柔らかな表情だった。
マリエは布の袋を抱え、「今日は何を買いましょうか」と考え込んでいる。刺繍に使う糸が欲しいらしい。幽霊少女はふわりとみんなの後ろに付き、まだ「買い物」という行為には加われないが、それでも楽しそうに目を輝かせていた。
大家は鍵をかけ、玄関を閉めた。
「さて、今日も良い買い物ができるといいねえ」
港町の市場は、戦いが終わってからというもの、以前にも増して活気を取り戻していた。色とりどりの布がはためき、魚を焼く匂い、香辛料の香り、子供たちの笑い声が入り混じる。
「わあ……にぎやかだね!」
幽霊少女が瞳を丸くする。彼女にとって「町の喧噪」はまだ新鮮で、胸をときめかせるものなのだろう。
「リオ、走るなよ!」
リナの声も虚しく、リオは果物の屋台へ突撃していった。
「すみませーん! これ、ひとつ!」
「はいはい、元気なお兄ちゃんだね」
屋台の老夫婦が笑いながら果物を渡す。リオは財布を取り出そうとして、うっかり小銭を床にぶちまけた。しゃがんで拾おうとするが、通りの人々に蹴られて転がっていく。
「ちょ、待って! 俺のお金~!」
「まったく……」
リナが素早く動き、床を転がる小銭を器用に拾い集めた。
「ほら。しっかりしろ」
「ありがとうリナ! さすが!」
「別に……」
少し照れるリナの横顔を、大家は目を細めて見守った。
一方マリエは、布屋の前で立ち止まっていた。壁一面に掛けられた色とりどりの布が風に揺れ、彼女の瞳に映る。
「きれい……」
「気に入ったのかい?」
「ええ。戦いの頃は、裂けた布を繕うことばかりでした。けれど今は……新しい布を選べるんですね」
大家は頷いた。
「そうさ。これからは繕うだけじゃなく、縫い始めることもできる。新しい一枚をね」
マリエは静かに微笑み、青い布を一反抱えた。
幽霊少女は、屋台の果物を指差していた。
「ねえ、あれ……すごくいい匂いする」
「りんごかい? 買っていこうか」
「うん!」
少女が食べられるわけではない。それでも彼女は「匂い」を楽しみ、「みんなが食べる姿」を一緒に味わっていた。屋台の女主人も、不思議そうにしながら微笑んで「おまけだよ」と余分に渡してくれる。
通りを進むと、魚屋の威勢のいい声が響いてきた。
「今日の鯖は脂がのってるよー!」
「おや、大家さん! 戦いを収めてくれたおかげで、また魚が取れるようになったんだ!」
漁師たちが笑顔で声をかけてくる。大家は少し照れながらも、魚を二匹ほど買った。
リオは興味津々に魚を眺め、幽霊少女は「ピカピカしてる」と目を輝かせる。リナは氷の上で光る鯖を見つめ、真剣に「どう料理すれば一番美味しいのか」と考えている。
「煮ても焼いても旨いけど……」と漁師が説明を始めると、リナは食い入るように聞き込み始めた。剣の稽古と同じ顔つきで魚の扱いを学ぶ姿に、大家は笑いをこらえるのに必死だった。
やがて、両手いっぱいに荷物を抱えた一行は市場を後にした。
「いっぱい買ったね!」
「重いけど……なんか楽しい」
「この魚、今夜は絶対に美味しい料理にしましょうね」
「うん、私、味見がんばる!」
笑い合いながら歩く帰り道。港の空には白いカモメが舞い、潮風が頬を撫でていく。
大家は、両手に抱えた荷物の重みを感じながら思った。
この重さは、かつて背負っていた「絶望の裂け目」の重さとはまるで違う。
これは「生きるための重み」。
明日へと続く日々の重み。
そして――愛おしい日常の証だった。




