幽霊少女のおつかい
朝の港町は、まだ眠たげな霞をまとっていた。波の音とカモメの鳴き声が重なり合い、通りを行き交う人々の声が少しずつ増えていく。宿の窓を開け放つと、潮風がひやりと頬を撫でた。
大家はその風を胸いっぱいに吸い込み、振り返って台所を見やった。昨夜は遅くまで賑やかに食卓を囲み、その余韻がまだ漂っている。皿や鍋は綺麗に片付けられているが、笑い声の残滓のような温かさが室内に満ちていた。
「今日は……少し特別な日になりそうだな」
そう呟いたのは、幽霊少女が台所の入口にふわりと現れたからだった。
「おはよう」
「おはよう、大家さん」
彼女の姿は相変わらず淡く透き通っている。けれど表情は以前よりも生気にあふれ、まるで本当に“生きている子”のように見えた。
「ねえ、今日ね……私、おつかいに行きたい」
その言葉に大家は目を瞬いた。
「おつかい、か。ひとりで?」
「うん。昨日みたいに、みんなで買い物するのも楽しいけど……今日は私、ひとりでやってみたいの」
その声音には、小さな決意が混じっていた。
◆少女の願い
幽霊である彼女には、当然ながら実体が薄く、物を持つこともままならない。だが最近は、リナが織った魔力布やマリエの歌の加護のおかげで、短時間なら物に触れられるようになっていた。
「私、自分の手で誰かのために何かをしたい。だから……お願い、行かせて」
大家はしばし考え込んだ。心配もある。彼女はまだ完全に安定しているわけではなく、不意に透けてしまうこともある。だが、願いの瞳は揺るぎない光を宿していた。
「……よし。行ってみよう。ただし条件がある」
「条件?」
「ひとりで行くけれど、みんなに協力してもらおう。リナに護衛を頼むのではなく、遠くから見守る形でな。リオは荷物を持つ役を、マリエは加護を重ねてやってほしい」
少女はぱっと顔を輝かせた。
「うん、それなら大丈夫!」
こうして、幽霊少女の「初めてのおつかい」が決まった。
◆港町の通りへ
市場に向かう通りは、朝の光で金色に染まっていた。魚屋が威勢よく声を上げ、パン屋の軒先からは香ばしい匂いが漂う。
少女は小さな袋を抱え、歩を進めた。歩くたびに裾がふわりと揺れ、人々の間をすり抜けていく。まだ完全に存在が定着していないため、誰も彼女の姿をはっきりとは捉えない。ただし、目敏い子どもが「いま、何か通った!」と指を差して驚いたりする場面もあった。
「……ふふっ、ちょっと恥ずかしい」
頬を赤らめつつも、少女は前に進む。
彼女の“おつかいリスト”はシンプルだった。
リオが好きなパン
リナが好む香草
マリエに合う布切れ
そして大家が頼んだ、温かいスープの材料
◆買い物の試練
最初に訪れたのはパン屋だ。
「いらっしゃい! 今日は焼きたてだよ!」
大きな籠いっぱいにパンが並び、湯気が立っている。
少女は緊張しながら袋から銅貨を取り出し、手渡した。かろうじて手が透けずに受け取ってもらえたとき、胸の奥がじんわりと熱くなった。
「この、丸いのをください」
「はいよ!」
手に渡されたパンの温かさ。実体を持てる短い時間の中で、その熱は何よりのご褒美だった。
次は香草屋。リナが気に入っているタイムやローズマリーを買い求めた。
「料理に使うのかい?」
「はい。……お友達に」
そう答えると、店主はにっこりと笑い、少し多めに包んでくれた。
布屋では、マリエのために鮮やかな色の端切れを選んだ。指先に柔らかな感触が残り、思わず頬をすり寄せる。
最後にスープ用の野菜を抱えたとき、限界が近づいていた。手が淡く透け始め、袋の底が揺らぐ。
「……もうちょっと、がんばれ……!」
必死に抱え込み、足を前に運んだ。
◆小さな達成感
宿へ戻ると、玄関口で大家たちが待っていた。
「おかえり!」リオが駆け寄る。
「ちゃんと買えたんだな」リナが目を細める。
マリエは「すごいわ……本当に全部自分で」と微笑む。
少女は袋を差し出した。
「みんなの好きなもの、買ってきたよ!」
中を覗いたリオが「俺のパンだ!」と喜び、リナは香草を手に「いい香りだ」と満足げに頷いた。マリエは布を抱きしめ、歌うように礼を言う。
大家は最後にスープの材料を受け取り、静かに少女の頭を撫でた。
「よくやったな。本当に立派なおつかいだった」
少女の瞳がうるみ、ぽろりと涙がこぼれる。
「……できた……私、本当にできたんだね」
その姿を見て、みんなが自然と笑顔になった。
◆夕暮れの食卓
その日の夕飯は、少女が買ってきた食材を中心にした料理だった。
香草を効かせたスープは香り高く、パンはリオが半分も食べる前に「うまい!」と叫んだ。マリエは布を髪に結び、リナは香草を剣帯に忍ばせた。
「みんなが喜んでくれて……嬉しい」
少女はそう呟き、夕陽に照らされながら微笑んだ。
その笑顔は、幽霊であることを忘れてしまうほど鮮やかで、大家は心の中でひそかに誓った。
――彼女がいつか本当にこの世界に生きられるよう、支えていこう、と。




