第31話「静かなリベンジ宣言」
シーン1:放課後・部室、藤倉の一言
夕方の西日が差し込む、北辰実業クロナム部の部室。
窓際に差しかかる光が、ホワイトボードの予定表を金色に照らしていた。
赤峰瞳は、パイプ椅子に座って前屈みになりながら、配布された資料に目を通していた。
陽向はテーブルの端で大きく伸びをしながら、いつものように飴を口に放り込む。
星野るかは、資料に目を通す手を止め、ある一点で視線を留めていた。
それは、ウィンターセッションの組み合わせ表。
北辰実業は、ブロックを勝ち進めば、準決勝で――あの学校と当たる。
旭丘理数。
部室の扉がゆるく軋み、顧問の藤倉が入ってくる。缶コーヒー片手、いつも通りの飄々とした風貌。
彼はあいさつ代わりに机の上の対戦表をひと目見て、つぶやくように言った。
「さて……あいつらと、もう一回やるかもな」
誰も、返事をしなかった。けれど、空気がぴんと張り詰める。
陽向が何か言いかけたが、言葉が喉で止まった。
赤峰は、視線を資料に落としたまま、指先をぴくりと動かす。
星野は、ただ静かに、その名前を見つめていた。
一度は完膚なきまでに敗れた相手。
理論で構築された完成型チーム。
千堂慧という、すべてを“読み”で制する司令塔。
でも今は、あのときの自分たちとは違う。
その思いは、まだ言葉にならない。
けれど、それぞれの胸の奥で、確かに火がともった瞬間だった。
シーン2:無言で資料に目を走らせる星野
静寂の部室の中、ただカサカサと紙の擦れる音だけが響いている。
星野るかは、自分の席に腰を落ち着けながら、配られた対戦表に目を通していた。
表の左下――そこに記された「旭丘理数」の名前を、視線が止まるまでの一瞬も迷わなかった。
それを確認すると、彼女はそっと鞄から一冊のノートを取り出す。
表紙の角はすでに丸まり、ところどころページの端が折れている。
それは、彼女の「クロナムノート」。
敗北も、試行錯誤も、うまくいかなかった作戦の図も。全部、この中に残っていた。
星野は無言で、ノートを開く。
1ページ目には、初期のチームのフォーメーション。
次に、旭丘との試合で“崩された構造”の再現図。
その上に、赤いペンで「全て読み切られた」とメモが残されていた。
星野(心の声):
――前は、構造に負けた。でも、今なら。
今の私たちなら――もう一度、ぶつかってみたい。
ペンを取り、小さく、ページの余白に書き込む。
「構造を打ち破るには、“揺らぎ”を制御する力が必要」
そしてもうひとつ、メモを添えた。
「自分たちの“ズレ”を、意図に変える。それが今の私たちの武器」
静かに息を吐き、星野はページを閉じた。
その目に宿った光は、もう迷っていない。
シーン3:陽向、いつも通りに見えて……「燃えてる」
「おっしゃ来たーっ!! 旭丘と準決勝かもしれないって!? よっしゃ、今度はぶっ倒すだけだろ!」
部室の片隅、陽向は大きな声でそう叫ぶと、ぐいっと腕を振り上げていた。
明るく、豪快に。まるでいつもの陽向そのままだ。
星野と赤峰が苦笑するようにその様子を見つめるが、誰もが気づいていた。
――陽向の“目”が、笑っていないことに。
それは、彼女が普段見せる無邪気さとはまるで違う。
口では軽く言っているけれど、その奥底では確かに何かがくすぶっていた。
夕方の体育館。
自主練習のあと、陽向は誰もいない壁に向かって、一人でボールを突いていた。
トン……トン……トン……
リズムよく、けれどどこか鋭く、ボールが壁を打つ。
誰かに見られていたら、彼女はきっとふざけていた。
だが今は一人きり――だからこそ、ふと漏れる言葉がある。
「……何もできなかった、あの時は。でも今は――」
語尾は消えるように小さくなった。
旭丘との対戦。あの敗北。
走っても、突破しても、全部読まれて止められた。
あのとき、陽向が信じていた“勢い”は、何一つ通じなかった。
だけど今は――
ボールを壁にぶつけながら、陽向は目を細める。
すこし“ため”を入れて、突く。その一瞬が、前より深く、鋭い。
(……今度は、通せる何かを見つけたい)
言葉にはしないまま、陽向はもう一度だけ、全力でボールを壁に叩きつけた。
乾いた音が、広い体育館に響き渡った。
シーン4:赤峰、静かなノートのページをめくる
夕暮れの差し込む教室の隅。
机の上には、乱雑に積まれたプリントと、何冊ものノート。
その真ん中に、赤峰瞳の細い指が、じっと止まっていた。
パソコンの再生画面には、旭丘理数との試合映像。
小さなウィンドウの中で、あの時の自分たちが動いている。
……いや、“動いていた”のは、味方と敵だけ。
自分は――そこに、いなかった。
映像の時間が進むにつれて、赤峰の呼吸がわずかに浅くなる。
どれだけ巻き戻しても、自分が“いない”時間が、確かに存在している。
パスが通らない。選択肢に入らない。
判断が遅れ、予測が外れ、気づけばプレイから切り離されている。
指が、ふるりと震えた。
静かな教室で、誰もいない空気の中。
赤峰は、自分にしか聞こえない声で呟いた。
「また、あのコートに立つなら……今度こそ、“私がいる”って証明したい」
画面を閉じ、そっとノートを開く。
ページの隅に、これまでの“読み”に関するメモが残っている。
けれどそれだけじゃ足りない。
「今を読む」だけでは、間に合わないのだ。
新しいページをめくり、ペンを握る。
《1秒前の相手の重心》《視線の揺れ》《パスの“来る可能性”と“来ない理由”》
自分にしか見えない「間」と「空白」を、文字に落とし込んでいく。
読みの“点”ではなく、“線”を引くように。
未来の少し先を、予測して動ける自分になるために。
ページに刻まれる線と文字は、静かに確かに、赤峰自身の意思となっていった。
シーン5:最後、3人が並んで対戦表を見つめる
その日最後の練習が終わった体育館。
ボールの音も、シューズの擦れる音も、すでに止んでいた。
照明の一部が落とされ、影が長く伸びる中――
藤倉が、ホワイトボードの前で手を止めた。
カサリ、と音を立てて、A3の紙が1枚、マグネットで留められる。
《ウィンターセッション 地域大会 対戦表》
そこに描かれた、シンプルなトーナメント表。
ひとつひとつの学校名が、静かに、そして重く存在している。
――そして、その右上。
準決勝のブロックに、ひときわ目を引く名前があった。
旭丘理数高校
藤倉は何も言わず、手を離してホワイトボードから数歩下がる。
それと入れ替わるように、赤峰、陽向、星野の3人が前に立った。
言葉はない。ただ、それぞれの視線が、自然とその名前へと吸い寄せられていく。
赤峰の目には、消えかけた映像がよみがえる。
「今度こそ、“自分がいた”と実感できるように」
陽向の拳は、わずかに握られる。
「突撃だけじゃない、“突破”で勝ちたい」
星野は目を細め、わずかに頷く。
「理論じゃない、“うちらの即興”でぶつける」
誰も口には出さない。けれど――その沈黙の中にあるのは、
まぎれもない、共通の決意。
もう一度、あそこに立つ。
今の自分たちで、もう一度――。
沈黙のホワイトボードの前、3人の影が並んで揃う。
その姿は、かつてとは違う、“挑む者”の背中だった。