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めぐりパン

作者: 佐藤瑞枝

 回覧がまわってきた。


 団地の敷地内でパンを売っている業者がいますが、販売を許可しているものではないので、買わないでください。 管理人


 知らなかった、と沙月は思う。「めぐりパン」は、真希弥の大好きなお店だ。月曜日と木曜日の夕方に、団地の公園脇にキッチンカーでやってくる。クリームやチョコレートのたっぷりつまった愛らしい動物のかたちをしたパンが子供たちに人気だ。


 保育園の帰り道、毎回真希弥にねだられるので、買わずに通り過ぎることはできない。白髪混じりの気さくな店主は、沙月の父親くらいの年齢だろうか。「わっはっは」と大きな声で笑う人で、真希弥を可愛がってくれる。ふだんは人見知りの真希弥も、店主にはなついていて、保育園であったことを話したり、おりがみや工作を見せて自慢したりする。


 パン屋は七時に閉店する。仕事でお迎えが遅くなると「めぐりパン」は行ってしまう。沙月が電車を一本見逃してしまっただけで、真希弥は「早く、早く」と気が気でない。


「走っちゃだめ」


 そういう沙月の言葉は右から左で、真希弥は沙月の手をふりきって、かまわずどんどん先へ行ってしまう。真希弥が赤信号の横断歩道に飛び出しそうになった時、沙月はさすがに背筋の凍る思いがした。


「だめだよ。ちゃんと信号見なきゃ」


 息を切らし、沙月が「めぐりパン」の前で真希弥を叱ると、


「ぼうや、あわてなくていいんだよ。おじさん、ちゃんと待ってるからね」


 店主は言って、大きな手で真希弥の頭をぽんっとなでてくれた。それからずっと約束通り店主はいつも真希弥が帰るまで待っていてくれる。


 真希弥の手をひいて、急ぎ足で家路を歩く。日が暮れて、暗くなった道を歩き続け、たどりついた団地の公園で、「めぐりパン」の灯りがぽっと浮かんで見えると、沙月は心底ほっとした気持ちになった。


 買わないでください。


 回覧板に目を落とし、沙月はため息をついた。買わないようにと言われても、「めぐりパン」でパンを買うのはもう真希弥の日課になっている。買わずに通り過ぎることなんてできやしない。


「今日は買わないよ」


 そんなことを言っても真希弥が納得するはずがない。こだわりが強く、いつもとちがうことが苦手な真希弥のことだ。毎回買ってもらえていたパンを買ってもらえなくなったら、寝っ転がって大泣きし、手に負えないほど駄々をこねるだろう。


 ふうっ。

 ため息が出た。


 ごみを出しに行ったら、おとなりの田村さんに会った。田村さんは、真希弥とふたり団地に越してきた時からいろいろお世話になっている。どこのスーパーが安いとか、真希弥が急に熱を出した時には、遅くまでやっている病院も教えてもらった。


「回覧票、見ました?」

「ええ」

「やっぱりおかしいと思っていたのよ、あのパン屋」

「え?」

「パン屋のふりして、実はわたしたちの生活を監視してるってうわさよ」


 耳を疑った。そんなこと、本当にあるのだろうか。あのやさしい店主がそんな悪いことを考えるだろうか。けれど、この頃世の中は物騒で、信じられないことがたくさん起きている。ついこの間だって、隣町で宅配便のふりをして民家に押し入った強盗があったばかりだ。


「ここでパンを売りたければ、許可をとればいいだけでしょう」

「それをとってないんだから、やっぱり何かまずいことがあるのよ」


 長年団地に住んでいる田村さんがそう言うのだから、たしかにそうなのだろう。やさしいふりをして接客しながら、「めぐりパン」の店主は団地に住む人の家族構成とかどれくらいお金を持っていそうかとか、そういう情報をさぐっているのかもしれない。


 そう考えると、沙月は急にこわくなった。沙月がシングルマザーで、昼間は家を空けていることはすでに知られてしまっている。これ以上あの店主と関わらない方がよさそうだ。「めぐりパン」がきても、もうパンは買わないようにしよう。けれど、真希弥になんて言えばいい? キッチンカーの前を通らずにどうやって家に帰ればいいのだろう。


「めぐりパン」が来る月曜と木曜は、少し遠回りして、真希弥を「みすぎ公園」でひとしきり遊ばせてから帰宅することに決めた。


「みすぎ公園」には、真希弥の好きな遊具がたくさんある。休日に行くと、混んでいて、すべり台もブランコもすぐ交代しなければならないけれど、保育園の帰りなら、真希弥を思う存分遊ばせてやれるのではないか。


「今日は特別。みすぎ公園に連れて行ってあげる」


 そんなふうに真希弥を誘ったら、パン屋のことなど忘れて公園に行ってくれるだろうか。沙月は考えた。けれど、最近知恵をつけた真希弥がうまく騙されてくれるかどうかわからなかった。


 保育園のひとつ手前の角で、里菜ちゃんママに会った。里菜ちゃん家族も同じ団地に住んでいる。


「回覧見た?」


 里菜ちゃんママが言った。沙月がうなずくと、


「馬鹿らしい」


 里菜ちゃんママはそう言って笑った。


「あたしは、買うよ」

「めぐりパン」


 沙月はびっくりした。


 そんなことをしたら、管理人さんに叱られるよ。それだけじゃない。店主のターゲットになって、犯罪に巻き込まれて、ひどい目に遭うかもしれないんだよ。


 けれど、沙月は言えなかった。


 里菜ちゃんママは堂々としていたし、沙月が忠告したところで、そもそも自分の意見を曲げるような性格じゃなかった。沙月はなんとなくもやもやしたけれど、里菜ちゃんやママのことは、いざとなったら警察官の旦那さんが守ってくれるのだろう。里菜ちゃんママのことを少しだけうらやましく思って、沙月はそれ以上「めぐりパン」のことを言うのをやめた。


 その日、真希弥を連れて保育園へ行こうとすると、田村さんの方から駆け寄ってきた。


「今からご出勤?」

「はい。真希弥、ごあいさつは?」


 つないでいた手を軽くふって、沙月は促したが、真希弥はうつむいたままだまっていた。田村さんは、沙月たちが団地に越してきたときからずっと顔見知りなのに、ちっとも馴れない。高いトーンで早口でしゃべる女の人が苦手なのかもしれない。真希弥があいさつをしないので、「すみません」と沙月は小さく頭を下げた。


「隣町の女の子がいなくなったニュース、あなたご存じ?」

「え?」

「リオンプラザで行方不明になったらしいのよ」

「お母さんとはぐれてしまって、そのすきにいなくなったそうよ」

「あなたも真希弥くんから目をはなしちゃだめよ」


 田村さんに念をおされて、思わず真希弥の手をぎゅっと握りしめていた。リオンプラザは隣町にはできたばかりの大きなショッピングモールだ。一度だけ、真希弥を連れて行ったことがあるが、土日は人でごった返している。


 いなくなった女の子は、真希弥と同い年だという。最近隣町で起きたいろいろな事件のことを思うと、沙月は胸が痛くなった。女の子が早く見つかってほしいと願ったと同時に、連れ去られたのが真希弥でなくてよかったとも思う。けれど、明日は我が身かもしれない。


 そう考えたら、ひやっとする。危険はいつだって沙月の近くに潜んでいるのかもしれない。


「それがね」

「あのパン屋が犯人じゃないかってうわさがあるのよ」

「え?」

「キッチンカーのところに警察の人がいるのを見たっていう人がいるのよ」

「・・・・・・」


 沙月は耳を疑った。あの人のよい店主がそんなおそろしいことをするだろうか。けれど、田村さんが言うように、ああやってパンを売りながら店主が団地の情報をさぐっているとしたら。そう考えると納得がいく。

 女の子を誘拐したのは、あの店主かもしれない。それに、本当に悪いことをする人は、天使のような笑顔で近づいてくるというじゃないか。


 真希弥を守ってやらなければならない。沙月は強く思うのだった。真希弥を絶対に「めぐりパン」に連れて行かない。二度と真希弥をあの店主に近づけてはいけない。沙月はそう決心するのだった。


「今日はみすぎ公園に行くよ」

「特別だよ」


 お迎えの時、真希弥にそう言ったら、真希弥は喜び勇んでついてきた。特別という言葉に反応したのか、真希弥は「ト、ク、ベ、ツ、ト、ク、ベ、ツ」と歌うように言いながら、飛んだり跳ねたり、不器用なスキップをしてついてきた。パン屋のことはすっかり忘れているらしい。沙月はほっとした。


 誰もいない夜の公園は貸し切り状態で、真希弥は「うわあ」と叫びながら走って行き、まずブランコに乗った。ふだんは並んでいてなかなか乗れないブランコだ。


「押して、押して」と真希弥がせがみ、沙月はブランコを押してやった。真希弥がぴんと両足を伸ばし、飛んでいく藍色の空に三日月が光っていた。


 どうか真希弥が「めぐりパン」のことを思い出しませんように。


 心の中でそう願いながら、沙月は時間が経つのを待った。一日中働いて、沙月は疲れていたし、早く眠りにつきたかった。けれど、今日だけはパン屋に会わず、家にたどり着きたかった。


 買い物カートを引きながら、公園を通りかかった中村さんと出会った。中村さんは、団地でひとり暮らしをしているやさしいおばあちゃんだ。昔は近くの大きな家に住んでいたけれど、ご主人が亡くなって、息子さん夫婦が海外で暮らすことになったので、団地に引っ越してきた。


「わたしもまだまだ元気でいなくちゃ」

 というのが中村さんの口癖で、真希弥の遊び相手を引き受けてくれる。


「朝ごはんのパンを買ってきたところ」


 中村さんが言った。


「ほら、あそこで買っちゃだめだって言うから」


 中村さんの言うあそことは「めぐりパン」のことだ。カートを脇に置いて、ふうっと息をついてから、「便利だったのにねぇ」と中村さんがぼやいた。


「めぐりパン」と店主に気を付けたほうがいいと、中村さんに教えてあげるべきだろうか。一瞬、頭をよぎったけれど、やめておいた。中村さんを余計に不安がらせてもいけない。「めぐりパン」には管理人が出て行くよう伝えているだろうし、そもそも団地の住人がパンを買わなければ、パン屋はいずれ来なくなるだろう。


「はい、これ。真希弥くんに」

「たくさん遊んでのどがかわいたでしょう」


 カートの中にガサゴソ手を入れ、中村さんが出してくれたのは、コーヒー牛乳だ。レトロなデザインのブリックパックは、沙月が子供の頃から変わらない。

 すべり台で遊んでいた真希弥を呼ぶと、すぐにやってきて、両手を伸ばしコーヒー牛乳をつかもうとする。


「やさしく持ってね」

「ぎゅうっとしたら、飛び出しちゃうから」


 そう言って沙月は真希弥の両手にコーヒー牛乳を握らせた。ごくごく喉を鳴らし、真紀弥はおいしそうに飲んだ。そして、急に思い出して叫んだのだ。


「パン、パン買う」


 それからが大変だった。真希弥がいきなり走り出し、あっという間に中村さんを追い越していく。真希弥のリュックを拾い、沙月はあわてて追いかけた。目的がある時の真希弥のスピードはとても早い。全速力で真希弥の背中を追いながら、沙月は思う。もうすぐ、真希弥が小学生になったら、いつかもう追いつけなくなるかもしれない。


「あぶないよ。ひとりで行っちゃだめ」


 沙月が叫んだ。


 七時はとっくに過ぎていたのに、団地の公園に「めぐりパン」の車は停まっていた。買い物客もいた。里菜ちゃんと里菜ちゃんママだった。


「パン、買う!」


 真希弥がさけぶと、その場にいた全員がいっせいにこちらを振り向いた。いったい何のために今まで真希弥を公園で遊ばせていたのか。沙月はどっと疲れが出て、その場にへたりこんでしまいそうだった。


「いらっしゃい」

「パン、買う!」


「里菜ちゃんはね、うさぎのパン買ったの」

 里菜ちゃんが自慢げに袋を広げて真希弥に見せている。


「ぼく、くまさんがいい」

 真希弥が店主を見上げて言っていた。


 だめ。真希弥。だめだよ。


 心の中で、沙月は叫んでいた。


「今日は買わないよ」


 沙月が言った。

 予想だにしなかった言葉におどろいて、真希弥が沙月を振り向いた。


「なんで?」


「ねえ、なんで? なんで買わないの?」


「買わないって言ったら、買わないの」


 ぴしゃりと言うと、怖かったのだろう。真希弥は一瞬身体をすくめ、かたまった。けれど、すぐに火が付いたように大声をあげて泣き出した。


 こんな言い方しかできない自分が情けなかった。沙月は、今まで真希弥を頭ごなしに叱ったことなどなかった。なんだって真希弥がわかるように、ちゃんと理由を説明してきたつもりなのに。


「ほら、これ、あげるよ」


 店主が紙袋を二つ差し出した。パンの入った紙袋だ。一つは里菜ちゃんに、そしてもう一つは真希弥に。


「今日が最後なんだ」

「今までありがとな」


「ええっ。おじさん、もう来ないの?」


 里菜ちゃんが言い、手を伸ばして店主から紙袋を受け取った。真希弥も手を伸ばす。


「だめ。もう行くよ」


 真希弥の小さな手をはらい、沙月はその手をぎゅっと掴んだ。


「遠慮ならいらないよ」


 少し悲しげにそう言った店主を沙月はにらみつけた。


「結構です」


 思ったよりずっと強い声が出てしまった。泣き叫び暴れる真希弥を抱きかかえ、沙月は団地の中へ入って行った。自分はなんと意地悪な母親なのだろう。真希弥に対して申し訳ないと思いつつも、真希弥を守ってやれるのは自分しかいないのだと強く思う。


 住んでいる部屋がばれないよう、わざとひとつ先の棟から裏をまわって階段を上る。家に入ってからもなお玄関先で足をバタつかせ、泣き止まない真希弥を沙月はぎゅうっと抱きしめた。



 一週間後、田村さんが女児連れ去り監禁事件で逮捕されたニュースを沙月はテレビで知った。リオンプラザで母親とはぐれた少女を見つけ、連れ帰ったのだ。


「子供がほしかった。子供を放ったらかしにする母親が憎らしかった」


 容疑者となった田村さんはそう話していたらしい。連れ去った少女に、田村さんは危害を加えたりすることはなかった。食事を与え、部屋で一緒に遊んでいたという。その証拠に、田村さんの部屋にはあふれかえるほどのおもちゃや人形があった。パン屋の悪いうわさを流したのも田村さんだった。店主が子供に人気があってうらやましかったそうだ。



「めぐりパン」は、二度と団地に来ることはなかった。保育園の帰り道、団地の公園を通るたび、真希弥はパンを買いたがり、泣いたこともあったが、パン屋さんは引っ越したのだと根気よく教えた。


「パン屋さん、また会いたいねぇ」

「そうだねぇ。会いたいねぇ」

「また、ひっこしてくるかなぁ」

「そうだねぇ。ひっこしてくるといいねぇ」


 そんな会話をしながら何度この道を歩いただろう。そうやって、真希弥は「めぐりパン」とその店主のことを少しずつ忘れていった。



 それから一年が過ぎ、この春、真希弥は小学生になった。入学前にひらがなをすらすら書けるようになっていた里菜ちゃんと比べ、発育の遅い真希弥は、勉強が好きではないようだった。けれど、めいっぱい外遊びができる学童クラブは気に入って通ってくれた。


「パン屋さん、会った!」


 学童クラブにお迎えに行くなり、真希弥が叫びながら飛び跳ねてきた。


「パン屋さん?」

「うん」

「パン屋さんに会ったの?」

「どうぶつのパン、食べた」


 真希弥が言うには、おやつに「めぐりパン」が出たという。まさかと思って、藤井先生に聞いてみると、真希弥の言う通りだった。


「今年からおやつに買うことにしたんです」


 信じられなかった。団地からいなくなったきり、どこに行ってしまったかわからなかった。「めぐりパン」が今も営業していることに沙月はほっとして、嬉しかった。学童クラブに来ているのなら、またあの店主に会えるかもしれない。

 会いたい、と沙月は思った。会ってあの時のことをあやまりたかった。


 夕暮れの町を真希弥と並んで歩く。


「ママも食べたかったなぁ。めぐりパン」


 そう言うと、真希弥は誇らしげに言った。


「はんぶんこ~、はんぶんこ~」


 歌うように真希弥が言う。

 はんぶんこは、沙月が教えた。友達と一緒に遊ぶことがなかなかできなかった真希弥に歌ってきかせた。


 最近少しだけ背が伸びた気がする。


「真希弥」


 ランドセルの後ろから、沙月は息子の名前を呼んだ。笑顔で振り向き、沙月にむかって走ってくる真希弥を、両手を広げ、ぎゅうっと抱きしめる。汗をかいた真希弥の髪からやさしくてあまい匂いがした。



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