86.魔法の報告書を作成します
意識がゆっくりと覚醒し、薄らと目を開ける。
そしてカーテンの隙間から差し込む日差しを眩しく感じ一度ギュッと目を閉じると、リリアンナはハッとしたように目を見開き、ゆっくりと身体を起こした。
だがベッドから降りた後の行動は素早く、起きたばかりだとは思えない。
すると物音が聞こえたのか、寝室の扉をノックする音とロザリーが自分の名を呼ぶ声が聞こえ、そこで漸く寝衣のままであることを意識する。
扉を開ける前でよかったと胸を撫で下ろしベッドへと戻りながら、リリアンナはその声に応えた。
扉を開け、改めてリリアンナが起床したことを確認したロザリーは、挨拶をして一度扉を閉めると、直ぐに顔を洗う為の湯を運んでくる。
ぬるめの湯で顔を洗い、ロザリーから手渡された水をゆっくりと飲むと、リリアンナは外を出歩いても問題ないワンピースに着替え、髪を魔法で整えると、寝室を出て真っ直ぐに文机へ向かった。
「お嬢様、先に朝食を召し上がってください」
「先にゲルグの魔法について整理しておきたいの。昨夜は走り書き程度しかできなかったから、記憶が鮮明なうちに間違いがないか確かめておかないと。それを先に済ませないと、落ち着いて食事なんてできないわ」
こうなったリリアンナを止めるのは無理だと身に染みているロザリーは、溜息を吐きたくなる衝動を抑えつつ、一歩後ろに下がり背後に控えた。
リリアンナ本人よりも彼女の体調と美容に気を配っているロザリーとしては、魔法の記録や報告書よりも朝食を優先してほしいところではある。
だが、それがフォレスト王家とランメル王家の両方に報告しなければならない大事なものであることを理解しているロザリーは、余計にどうすることもできなかった。
ゲルグを捕縛し部屋に戻った後、エドワードがリリアンナと二人きりの状況を作るのは予想済みであり、エドワードが部屋を出た後にゲルグが使用した魔法についてリリアンナが記録を始めるのも予想通りではあった。
湯殿は既に準備が整えられているが、湯が冷めても魔法で温め直せばよいので問題はない。
だがリリアンナの睡眠時間が削られるのは、とんでもない大問題である。
事前に仮眠を二時間取っていようが、そんなものは一切関係ないのだ。
エドワードと入れ替わりで部屋に入ったロザリーは、机に向かい凄い勢いで紙にペンを走らせる主人の姿に、やっぱりと眩暈がしそうになった。
それでも要点だけの走り書きに留めていたのだから、随分とマシな方である。
このまま詳細な記録でもしようものなら、この倍では済まない程の時間が掛かっていたことだろう。
それでも普段の就寝時間よりも三時間は遅くなっている。
これから湯浴みをするとなれば、一体どれだけ睡眠時間が短くなるのか、それでもいつもより二時間起床を遅らせるのが限界だとロザリーが顔には出さずに葛藤していることなど、魔法で頭がいっぱいのリリアンナは露ほども気付いていなかった。
そして今もロザリーのそんな気持ちなど知らず、リリアンナは昨夜の走り書きにサッと目を走らせると、猛然と手を動かし始める。
普段はロザリー達使用人にも心を配ってくれる良き主人だが、魔法が絡むと途端にそれ以外が頭から消えるのはいつものことだ。
邪魔せず黙って見守るのが最善だと言うことを、オルフェウス侯爵家の使用人達は嫌というほど理解していた。
ゲルグが使用した魔法とそれを無効化したリリアンナの魔法について、正式な報告書として理路整然とした記述で整理されていく。
一見乱雑に書き連ねているように見えて、普段と変わらず流麗な文字で報告書を書き上げると、それを複写魔法で二部作成した。
それを見計らったように、エドワードが部屋を訪れる。
ロザリーが開けた扉から部屋に入ってきたエドワードは、リリアンナの姿を確認するとやっぱりと言った顔で苦笑を漏らした。
「リリィ、おはよう。その様子だと、朝食より先に報告書を仕上げていたのかな?」
「エド、おはよう。ええ、丁度今終わったところなの」
エドワードに複写したものも含め全ての報告書を手渡すと、リリアンナは漸く朝食を摂り始める。
既に自分の部屋で朝食を済ませてきたエドワードは、その間に報告書をじっくりと読み込んでいた。
「流石リリィだね。いつも通り、丁寧で分かりやすい。短時間でこれだけのものを仕上げるのだから大したものだよ」
「あら、どうして短時間だと断定できるの?」
「リリィの睡眠時間が極端に短くなることを、ロザリー達が許す訳がない。精々寝る前に一時間、起きてから一時間といったところかな?」
「昨夜エドワード王太子殿下が部屋にお戻りになられた後に三十分、今朝起床された後に一時間程でございます」
エドワードから視線を向けられたロザリーが、頭を下げながらその言葉に答える。
それにゆっくりと頷いたエドワードが笑みを浮かべると、リリアンナに視線を戻した。
「ゲルグはあれから一度も目を覚ましていないようだ。取り調べは午後からになりそうだよ」
「そう、だったら先に報告書をランメル国王陛下にお渡しした方がいいかしら?」
「それは僕が今から面会を申し入れておくよ。そちらは僕に任せて」
「分かったわ」
ゲルグの意識誘導の魔法に関しては、報告書ができ次第直ぐに知らせてほしいと連絡を受けていた。
恐らく報告書を手渡すだけならば、直ぐに応じてもらえるだろう。
そしてリリアンナもエドワードも、午後になってもゲルグの目が覚めていなければ、強制的に叩き起こされる羽目になるであろうことを欠片も疑っていない。
それに合わせて、いつ取り調べが始まっても直ぐに動けるよう、ドレスの準備を始めた。
その前に、ランメルの王宮での滞在期間中は毎日ランメル王家との午餐会が予定されているので、その準備を進めておかなければならない。
その席で、アルフレッドとイリーナがラドリス公爵家を抜け出そうとして騒ぎになったことを聞かされ、全員で頭を抱えることになるとは思ってもみなかったが。
「ガルドの身柄を引き受けに、レナードがこちらに来ることになったよ。到着次第、ランメル側と一緒に取り調べをして、それからフォレストに移送することになる」
レナードはガルドを拘束したと連絡を受けて直ぐに、馬でこちらに向かったらしい。
王都郊外から国境検問所近くまで、外交官専用の転移魔法陣の特別使用許可を得ており、早ければ明日には到着するとのことだった。
ただ、レナードがガルドの身柄を引き受けに来るということに複雑な思いが生じる。
ミレーヌの兄であるレナードにとっても、ソフィア・ウィステリアは大叔母に当たる女性だ。
大叔母を暗殺させた首謀者の男の血を引くガルドに、レナードは何を思うのだろうかと、それが気掛かりでならなかった。




