60.心の傷は簡単には癒えません
王宮での晩餐会の翌日に、フレデリックはランメル王国に向け出発した。
通常王都からランメル王国との国境検問所までは馬車で一週間ほど掛かるが、外交官は王都郊外に設置された転移魔法陣を使用することができる。
フォレスト王国は三つの国と国土を接しており、それぞれの国境検問所近くには、馬車ごと転移可能な転移魔法陣が設置されているのだ。
外交官が他国へ赴く際は、王都郊外からこの国境検問所近くまで転移魔法陣を利用し、移動時間を短縮している。
先日ランメル王国に向かった早馬も、国境検問所まではこの転移魔法陣を利用しており、遅くとも今日中にはランメル王家に書簡を届けられるはずだ。
国境検問所からランメル王都までは馬車で三日、その間の宿泊手続きは早馬とは別に転移魔法陣を利用した者が行っており、遠距離通信が可能な魔道具で手配が済んだ宿泊先に関しては連絡が来ている。
最短でも帰国までに一週間は掛かる日程で、上手くいけばイリーナ達がこちらに向かって出発するまでに面会が叶うかもしれない。
そうなればランメル王国の特使が、イリーナ達に同行して来国することができるし、またラドリス公爵がその役目を担うことも可能だろう。
どちらにせよアルフレッドとイリーナの婚約は、ランメル王家も絡んでいることからフォレストの王宮で手続きされることになっている。
ランメル王国の特使がイリーナ達と共に来国してくれる方が、フォレスト王家としては都合が良かった。
フレデリックがランメル王国へ出発した翌日、リリアンナはエミリアとミレーヌをオルフェウス侯爵家の晩餐に誘った。
フレデリックの妻アリアは、来月一歳になる息子の誕生日祝いの準備でクリンベル侯爵夫人と共に領地に戻っており、そのまま当日まで向こうに滞在するとのことで、現在王都にはエミリアと次兄のライオネルだけが残っている。
侯爵家序列二位のクリンベル侯爵家は代々外交を担っており、現当主である彼女の父親も今は外交で他国へ赴いており不在だ。
エミリア自身も暫くして領地に戻る予定だったらしいが、フレデリックが戻るまでは王都に滞在することに決めていた。
それを聞いたリリアンナは、エミリアとミレーヌの三人で食事でもしながらゆっくり話そうと誘ったのだった。
代わりにアルフレッドは、クリンベル侯爵家のタウンハウスでの晩餐に招待されている。
エミリアの三歳上の次兄ライオネルは生徒会役員であり、アンナ絡みの事情を知っているうちの一人でもある。
彼も兄夫婦の事件に対して複雑な思いを抱えており、それもあって今回判明したことについては色々と思うことがあるようだ。
明日は学園が休みなこともあって、アルフレッドと二人夜通し語り明かすつもりらしい。
エミリアをそんなところへ帰すと面倒なことになりかねないので、彼女はウィステリア侯爵家のタウンハウスに泊まることになっている。
リリアンナとしてはこのままオルフェウス侯爵家に泊まってほしかったのだが、今日も晩餐の後にエドワードが部屋に来ることになっているので、それは断念せざるを得なかった。
「エミリア、少し顔色が良くないけど大丈夫? もし食欲がないのなら、消化が良くて食べやすいものを用意させるわ」
「いえ、大丈夫ですわお姉様。食欲は問題ありません。ただ、色々と考えてしまって……」
「そう……。だったらこのまま始めても構わないかしら? でも、無理だと感じたら遠慮はしないで」
まずは改めてルイスとの婚約を祝い、他愛もない話をしながら食事を進める。
そして食事が終わりサロンに移動すると、そこで漸く今回の件に関する話を始めた。
「アリアお義姉様に何とお伝えするべきか、正直悩みますわ。勿論お義姉様にも知る権利はありますけど、漸く傷も癒えてきましたのに……」
平民の間では結婚する前に契りを交わすことは珍しくないが、貴族令嬢は結婚まで純潔を守るのが良しとされている。
高位貴族ではその傾向がより強い。
幾ら媚薬を浴びせられ、命の危険があったからと言って、結婚前に契りを交わし子供まで授かったことは、フレデリックとアリアの心に重くのしかかっていた。
特にその身に子を宿していたアリアは、より精神的に不安定になっており、望んだ形ではなかったばかりに、生まれてくる子を愛せるのかと悩み続けていたのだ。
それでも元気に生まれた我が子を胸に抱けば、愛しさから自然と涙が溢れ、それまで悩んでいたことが嘘のように消えた。
瞳の色はアリアと同じだが、それ以外はフレデリックの特徴を色濃く受け継いだ息子の成長を見守るうちに、少しずつ傷が癒えてきたのだ。
だからこそ、今回の件をアリアに話すことでどのような影響があるか分からず、エミリアはどうすべきか悩んでいた。
「エミリアが心配するのは分かるけど、そこはフレデリック様にお任せするべきではないかしら?」
「そうですわね……。私よりもずっと、お兄様の方が心配されているでしょうしね」
力なく笑うと、エミリアは目を閉じ深くゆっくりと息を吐き出す。
そして気を取り直すように数度頭を振り目を開けた時には表情から憂いを消しており、敢えて話題をガラリと変えてきた。
「それにしてもザボンヌ子爵令嬢には呆れました。どうやったらお姉様とルイス様が恋仲だなんてとんでもない勘違いができるのですか? 我が国にお二人が双子の姉弟だと知らない貴族がいるとは思いませんでした。ニコラス様と血の繋がった姉弟だとは到底思えないほど無知な方ですわね」
先程までとは打って変わり、エミリアは遠慮なくアンナに対して毒を吐く。
リリアンナも流石にルイスとの仲を疑われる日が来るとは思っていなかったので、これには呆れるしかなかった。
「エミリアにしてみれば、ルイスと婚約したばかりでこんな話を聞かされるなんて不愉快でしかないわよね」
「お姉様は何も悪くありません。そんな馬鹿げた勘違いをするザボンヌ子爵令嬢がおかしいのですから。ライオネルお兄様から色々とお話は聞きましたが、頭がおかしすぎて同じ人間なのかと疑いましたわ」
「一応、ちゃんと人間ではあるわよ……」
「珍獣だと言いたくはなるけどね……」
エミリアの容赦のない毒舌に、リリアンナもミレーヌも苦笑するしかない。
だが二人が返した言葉も何のフォローにもなっておらず、どちらかと言えば酷いものだ。
それに人間だから厄介なのかもしれないと、そんな気がしないでもなかった。




