第八話 フローライト・エゼルは呼び出される。
それからひと月が経過した。
フローライトは領地に戻り以前と同じ……いや、以前よりさらに精力的に仕事をこなすようになっていた。
他に変わったことといえば、ふとした瞬間に笑顔を浮かべてしまうことだ。
「やはり……昨日のことのようですね」
そして目をやった先には花季祭の際に城下町で購入した、黒猫のモチーフが寄り添う一輪挿しがある。フローライトは見て表情を綻ばせた。シャープな目つきの黒猫はどことなくエイダンに似ている気がして衝動買いした品である。
(本物はやはり想像の何倍も素敵だったわ……!)
本当であれば床にのたうち回りたいところではあるが、人に見られる可能性を考えてぎりぎり踏みとどまっている自分を褒めたいとフローライトは思う。
「失礼いたします、お嬢様、旦那様が急ぎお呼びです」
「お父様が?」
父には半刻前に仕事の話をするため会ったばかりだ。
急ぎ修正を求められるような内容ではなかったはずであるし、その際は他に用事もなさそうだった。それなのに、いかなる緊急の呼び出しなのだろうか。
すぐに部屋から出て父親の元に向かったフローライトは、父親の執務室の前で首を傾げた。部屋の中から『どうしてこうなった、大変なことになった、まずいまずいまずい』と冷や汗をかいたような心の声が漏れていた。ただ、それは焦りとはまた異なる感情でもある。
「お父様、フローライトが参りました」
「ああ、よかった。掛けてくれ」
「はい」
父親の表情は表面上穏やかではあった。
ただ、室内に入ったことで先ほどの声はより大きく聞こえる気がした。そんな状況でも装うことができるのだから、やはりエゼル家の当主は強い気概の持ち主だと思ってしまう。
(お父様が困惑していらっしゃるのに呑気かもしれないけれど、まずいと思っていらっしゃる割には悪い告知ではなさそうですし)
悪い話であればもっと深刻な顔つきになっているだろう。
現状それがないのであれば、フローライトとしてはどっしりと構えることができると思う。
「実は、王家からの書状が届いた」
「書状でございますか?」
その程度なら何も不思議ではないとフローライトは思った。
エゼル家はもとより王家とのやりとりは珍しくなくないし、フローライトだって事業の関係から王家の紋章入りの書状を受け取ったりもしている。もちろん実際には文官が書いていることも承知しているが……いかんせん、その驚くほどのことではない。
もちろん父親も同様のはずなので、ますます何があったのかがわからない。
「実はお前をエイダン殿下の婚約者候補にしたいと国王夫妻から直筆の書状が届いた」
咽せそうになったのをグッと堪え、けれど言葉を発することができなかった。
「私はなぜこうなっているのかわからないのだが……。お前はどうだ? 花季祭の際、殿下とお話しさせていただいたのか……?」
その問いかけに答えられる余裕はフローライトにはなかった。
「どういうことでしょうか、お父様!? そのような書状が……どうして私に……間違いではございませんか!?」
「お、お前にも心当たりはないのか……?」
「あったら今までのように落ち着いておりませんでした‼︎ 挨拶をさせていただいただけですのに、そのようなことになるなどどう想像できましょうか!」
父親の心の内を見てもなお、壮大なドッキリを仕掛けられているのだと邪推したくなってしまう。
むしろ父親も仕掛けられた方かもしれないと思ったところで、さすがに王家の紋章を用いてまでそのようなことをする人間はいないかと冷静に考え直した。
(けれど……それなら、本当に理由がわからないわ)
そう思いながら父親から差し出された書状を見たが、特に理由になる部分は記されていなかった。
ただエイダンの婚約者候補にしたいという旨と、そのことで王都に再度出てきてほしいという要請が記されていた。
おそらく候補として適正の有無を見極めたいという理由があるのだろう。
「あくまであちらからの希望であるため理由をつけて断ることもできるが、その場合、今後他家と婚姻関係を結ぶことも難しくなる可能性があってだな……」
それは王家に否と言うような娘を嫁に迎えるということは難しいということだろう。
だが、それに一体何の問題があると言うのだろう。
「もとよりお前は乗り気だった気がするのだが実際に会った印象など……」
「私がお断りするなんて、絶対にございません!」
なぜそんなことになっているのかはまったく理解できないし、エイダンの婚約者候補など想像もしていなかったが、この指名を断るなどフローライトの行動にはありえない。
エイダンを推し、そして同志を得るだけの人生でも満足できたことだろう。
だが、もっと近付くことができるのなら、逃すわけにはいかない。エイダンの役に立てるチャンスなのだ。
「実に頼もしい返答だが……。お前もあまり殿下とお話ができていないと言っていたな? 殿下は、確かに民のことをよく考えられておられるだろう御方だろう。だが、あまり意思疎通を得意としておられない面があり、その配偶者となれば苦労が多く見込まれるだろう」
「はい。殿下はとても素敵な方でございます。他の御令嬢から羨まれるようなことも十分あり得ますでしょう。ですが、それは事前に想定できることで、心穏やかでいられないなどと言ってはいけないことだと思います」
「そうだ……と、うん?」
「しかし、私はそのような気持ちに負けません。それは殿下が素晴らしいから起こる事象で、歓迎すべきことです」
「フローライト……?」
「安心してくださいませ、お父様。私はどのようなことがあっても、殿下の功績を傷つけるような真似はしないと誓います」
もしもここでフローライトが父親の心の内を覗いていれば、その行き違いに気づけたかもしれない。だが、フローライトは想像し得なかった状況に陥り、周囲が見えていなかった。父親の心の声も自然と届いていなかった。
(御目通りさせていただく前に、以前勉強したことももう一度復習しないと。それに今度はもっとお話ができるんだわ。だったら、殿下が企画してくださった事業で出た成果もご報告させていただかないと!)
そうして幸運に喜びを隠せないフローライトは、一般的に婚約を前提とした面会で話す事柄がどのようなことなのか考えることも聞くこともせず、エイダンに会うときに話すための資料を作り始めた。
もしそれを人に見せたのであれば、きっと言われていたことだろう。
『それは商談の企画書ですか』と。
もっとも、可憐な令嬢がそのようなことをしているなど家族ですら思い付かなかったのだから、あらかじめそれを止める人間もまた存在していなかった。




