第三話 フローライト・エゼルは創設する。
農薬の無料配布を申請するために記載する書類はそれなりの枚数があり、さらに別に添付しなければならないものも少なくはなかった。
ただし無料のものは試験を兼ねているのだから、細かな申請があっても不思議ではない。不思議ではないのだが……。
「……確かに、書類仕事に慣れていないとわかりにくいかもしれないわ」
フローライトは受け取った事業の案内と申請用紙を自室で眺めながら小さく呟いた。
決して、無駄な作業が含まれているわけではない。
ただし資料を読むだけでも、一般庶民にとっては聞き慣れない言い回しが多い。
「申請時に提出する契約書も、よく読めばわかるはずだけれど……法律用語が多いから余計に難しく見えるのかもしれないわ。それなのに禁止制限事項を破ると罰金もあり得ることだけはすぐにわかるし」
ややこしいのであれば触らないでおこうという心理が働くのも不思議ではない。
試しにフローライトは親戚に農業従事者がいる使用人に事業案内を読んでもらったところ、皆表面上は平静だったが、心の中は違っていた。
『ああ、農薬の話ね。相変わらず細かい文字の紙だわ。目がシパシパしそう』
『無料配布って言っても、皆がやってるならやるようになるかもしれないけど、自分が最初にやろうとは思わないだろうな。失敗したら困るし』
この反応は本人が農業に関わっていないからという理由もあるかもしれない。
しかし、それだけでもなかった。
『そもそも読むだけならともかく、苦労して書いて通りませんでした、じゃしんどいしな。申請する時間で別のことをした方がいい』
まさにその通りである。
ついでに農村の方では文字を読むことはできても記述は苦手で誤記が多いことを、フローライトはこの使用人の心の中で知った。
領内の識字率が高いからといって、それだけですべてが解決するわけではないらしい。
(でも、これなら説明会を開催して申請したい人を募り、希望者から聞き取りをして代理申請することもできるかもしれないわ)
そうすればエイダンの事業に興味を示す者が増えるかもしれない。
そして、彼に関する誤解も少しは解けるかもしれない。
そう思えば早速動かなければと、フローライトにも気合が入る。
フローライトはペンを走らせ、父親に提案する新規事業の計画を書き上げた。
その名も、『公的機関代理申請資格の創設について』だ。
現状では公的機関への申請は一般的に本人、例外として親族が行うものだと認識されている。つまり自分達ができなければ諦めるのが、これを解消するためにエゼル家が代理申請の能力を保証する資格制度を創設するという提案だ。
この制度で怪我や高齢などの理由で各種申請が難しい領民の助けになること、開業申請や開発申請など煩雑な手続きの代行を依頼できることで街の活性化が期待できると提案書には記載しているが、フローライトが狙うのはもちろんエイダンの事業に参加する農業従事者を見つけることだ。
(有効性を示すために殿下の事業への代理申請を実施させていただくとして……まず、私が申請できるようにきちんと学ばなくては)
現在の資格創設前の段階で依頼できる相手はいない。ならば、自分がエゼルの名でやり遂げることが必要だろう。
(それに説明会も私が開催しなければいけないわね。さっそく農業の現状について調べないと)
この結果フローライトは農業知識や申請書類の記載方法という、令嬢からはあまり連想されない力を手に入れた。
また、いつでも噛み砕いた説明会ができるよう法律についても学び始めた。
フローライトの熱意が実り、申請者は無事集まり、そして父親からは資格創設を採用するとの返事を得ることができた。
(エイダン殿下……! 私、やりました!)
フローライトの努力の甲斐もあって説明会では冷やかしにきた者を含め多くの者が申請を希望した。
また資格創設もデスクワークを求めていた者に刺さり、ぜひ受験したいと大変歓迎を受けた。
フローライトの狙いは達成され順風満帆に見えた……が、一つ大きな誤算が生まれた。
『こんな事業を王家の方がしてくれていたなんて見直したわ。下々のことまで考えてくれてるとは思わなかったもの』
『さすが王様だなぁ』
『王妃様もお綺麗だしなぁ』
『王子様方もこういうふうなことをしてくれたらいいんだが』
このように、制度の創設者を領民が国王陛下だと広く誤認していることである。
(説明会でもエイダン殿下とお伝えしたはずなのに……!)
結局のところ『王族』とひとまとめに覚え、その後王様と変換されてしまったのだろう。
もちろん正しく理解している者もいるが、皆あえて口にすることもないので誰も訂正しないし、そもそも誤解していることにも気付かない。
(私にとって一番重要なことはエイダン殿下人柄の良さを知ってもらうことなのに……このままではよくないわ……!)
そこでフローライトは月二回のペースで無償の農業新聞を自作した。
ただしエイダンの事ばかりかいても興味を惹かないと思ったので、他領や国外での事例を挙げてみたり、自作のイラストでの解説をメインにしたコーナーを作ったりしたことから大人気となったのだが、一方で『引き続き農薬配布事業(エイダン殿下管轄)は有償事業・無償事業共に応募可能です』という文字が非常に薄い印象となってしまった。
応募数は順調に推移していることからまったく文字は目に留まっていないことはないのだろうが、エイダンの名に興味惹かれる者がいないというほうが正解だ。
(おかしい、どうしたら……!)
そうしてフローライトが悩む一方で、領民は彼女のことを『大地の聖女』と呼び慕うようになっていた。
資格試験の整備も順調に進んでいくにつれ、彼女の父はフローライトに新たな任務を授けた。
「漁村から、お前に嘆願書が届いている」
「私にでございますか?」
「ああ」
『大地の聖女に、漁村も頼りたいとのことだとは。単純だな』
聴こえてきた心の声に説明されながら、フローライトは嘆願書を読んだ。
そこには販路を広げたいものの難しい現状と、現在の特産品などが詳しく記載されていた。
(聖女だなんてもてはやされても、私は手続きのお手伝いをさせていただいただけ。漁村の活性化は考えたことがなかったわ)
期待されているのであれば断りにくいが、受けて成果を出せないほうが落胆されるかもしれない。
「……あら? お父様、その新聞は」
「ああ、興味があるのか?」
父親の机にあったのは王都で十日に一度発行されている貴族向けの政治新聞だ。法律や外交の動向などが記されているため、王都から取り寄せているのは知っていたが……。
(エイダン殿下が、今度は食糧備蓄の担当もなさるというの!?)
ほんの小さな、距離的にフローライトの視力では通常見えないはずの記事だが、フローライトにはしっかりと見えた。たとえそれ以外の内容がまったく見えなくとも、それだけははっきりと見えた。
(食糧備蓄の担当も兼任されるなんて……。まだ成人も迎えられていないのにお仕事熱心で素敵だわ。過労になられないかしら……?)
自分のことを棚に上げて考える間に、フローライトには一つのアイデアが浮かんだ。
(以前、農業新聞での情報収集時にピクルスや豆のオイル漬けといった瓶詰めの保存食の記事を見つけたわ。あれをもし、より運びやすく長期間保存できるようにした上で、付加価値を与えた海産物で成功させたら……?)
今の魚の保存食といえば干物が主で、好みが分かれるものとして発酵させるものもある。
だが、ピクルスのように蓋を開ければすぐに食べれるものを作れば軍の携帯食にも使えるかもしれない。災害対策の備蓄食にもできるかもしれない。なんなら、仲良くなった農業従事者たちと漁村の民と共同開発を行うのもよいかもしれない。
「お父様、私、この願いを引き受けるためにさっそく調べ物をさせていただきます」
「必要なものがあれば言いなさい。なんでも用意しよう」
『助かった。正直我が家には漁業に詳しい者などいない上、口出しを嫌がる傾向のある漁村が嘆願してくるなど想定外だったからな』
顔には出さずほっとしている父親にフローライトは領主の苦悩を理解し、気の毒に思った。
だが、何でも必要なものを依頼して良いというなら少し大掛かりになっても遠慮はしない。
「では、お父様。すぐにではございませんが、将来工場をひとつくださいませ。あと、比較的早くに実験用のお部屋をいただきたく存じます」
父親の吹き出す音は実音だけではなく、心の中も同じ音を立てていた。
そしてこれはやがてエゼル家が保存食【缶詰】を発明したと歴史書に記されること、軍にレーションが美味しくなったと感謝されること、また、巨大な販売益を作り出すことにつながる第一歩となり、【大地の聖女】の異名は【豊穣の女神】と、格上げされることになった。