森の中の人魚
小説の練習で三題噺をやりました。お時間ある時にでも読んでいただけると嬉しいです。
題材は、人魚、帽子、お餅です。
森の中を歩いていると、彼女の歌声が聞こえてきた。鈴を転がした時のような、透き通った、それでいていたずらな声。俺は導かれるようにその場所へ向かうと、草木の中で、彼女は一人立っていた。
白いワンピースに身を包み、頭にはひまわりを連想させる大きな麦わら帽子。木漏れ日がまるでスポットライトのように、静かに歌う彼女を照らしていた。
俺はまだ彼女の優しい歌声を聞いていたくて、足音を消して近づくが、右手に握るスーパーの袋の音でバレてしまう。
「君はいつも突然現れるね」
振り返った彼女はそう言いながら、麦わら帽子を少し上げる。整った顔に浮かぶのは、子供の悪戯を見つけた母親のような優しい笑み。
俺はなぜが少し悲しくなって、思わず目をそらしてしまう。
「そんなところに立ってないで、こっちに来たら?」
「お、おう」
俺は適当な倒木に腰を下ろし、彼女も隣に座る。
「今日も会えたね」
彼女の何気ない一言に、心臓は鼓動をはね上げる。
最初に彼女と出会ったのは、本当に偶然だった。利用しているスーパーから家への近道が、この森というだけ。いつもならこんな場所を通るようなことはしない。傾斜はキツいし、何より虫が多い。だから少し遠回りになったとしても、ここを避けてきた。
しかしあの日、俺はなぜかこの森を通ることを選んだ。
理由は特にない。気まぐれだったかのもしれないし、単純にいつもの道が工事中だったのかもしれない。今ではもう思い出せないが、それでも俺はこの森に足を踏み入れ、そして彼女と出会った。
森に響き渡る、優しい声音。それに導かれるように足を向けると、そこに彼女が立っていた。大きな木々の中で歌う彼女は、まるで妖精のような美しさがあり、息を飲むような儚さがあった。
あの日から、俺はことあるごとにこの森を通っては、彼女の歌声に耳を傾けている。その姿を目に焼き付けている。
「いつもそうだけど、今日は特に喋らないね。何か考えごと?」
そう言って、麦わら帽子を片手で押さえながら、彼女は俺の顔を覗き込んでくる。突然間近に現れた彼女の綺麗な顔に、俺は思わずのけぞりながらもあいまいに答えてしまう。
「あ、いや……。別にそういう訳じゃないけど…………」
嘘だ。俺は彼女のことを考えていた。いつだってそうだ。目を瞑れば彼女の顔が浮かぶし、耳を澄ませばその声が聞こえてくる。でもきっと、この気持ちは恋などという崇高なものではないのだろう。言うなれば、妖精の舞踏会を盗み見る覗き魔に近いのかもしれない。
もちろん、彼女はそんな俺の気持ちを知る由もなく、そっか、と楽しそうに呟いて前に向き直る。
不意に訪れる無言の時間。いつも彼女は楽しそうに何気ない話をしてくれるが、たまにこういう沈黙が流れるときもある。しかし、俺はこの時間が嫌いではなかった。虫の声に耳を傾けたり、不規則に揺れる木漏れ日に目を向ける。このゆっくりと流れる時間を、彼女と過ごせることが何か特別な気がして、俺は好きだった。いつもはお喋りな彼女が黙っているのも、俺しか知らない一面のような気がして嬉しかった。
隣りにふと目を向けると、彼女は遠くに視線を向けたまま、ここではないどこかを見ていた。
彼女の横顔がどこか儚げで、突然消えてしまいそうなその表情に、俺は思わず口を開いていた。
「どうして、君はいつもここで歌っているの?」
不意に出た言葉に、自分自身でも驚く。
彼女を見かけた時から、気になってはいた。でもそれを聞いたら彼女がどこかに行ってしまいそうな気がして、ずっと聞けなかった。
それを思わず聞いてしまったことに気づいて、俺は慌てて言いつくろう。
「いや……、特に意味はないんだけど……。君ぐらい歌が上手かったら、こんなところで歌わなくてもいいんじゃないかと思って…………」
俺の苦し紛れの言い訳にも、彼女はクスリと笑う。
「そんなことないよ。私の歌う場所はここしかないの」
「…………?」
俺は彼女の言っている意味がよく分からなくて、思わず隣りの顔を覗き込んでしまう。そこには、儚げで、少し寂しそうな整った横顔があった。
「私ね、歌が好きなの。歌を歌うだけで、羽が生えたみたいに心が軽くなる。生きてるのが楽しくなるの。でもね、私の親は、私の歌が凄く嫌いなんだ」
「えっ?」
「それって……」
「私の親はね、私にいい大学に行って、いいところに就職して、いい男の人と結婚して欲しいんだって。でも、歌を歌えてもいい大学にも行けないし就職もできないでしょ? だから、私が歌ってたらすごく怒るの」
「…………」
彼女の告白に、俺は思わず言葉を失ってしまう。
確かに、親の言うことも分かる。子どもがいい大学に行って欲しいとか、いいところに就職して欲しいとか、いい人に出会って欲しいとか、それらはどの親も思うことで、一般的な願いだ。でも、それと同時にこれらは親のエゴでもある。エゴはただのエゴであるべきで、誰かを拘束する理由にはならない。
「そんなの気にしないで、自由に歌えばいいんだよ」
とは、言わなかった。いや、言えなかった。彼女の悲しそうな笑みを見てしまったから。
きっと彼女は、俺が今考えていることは全て知っているのだろう。知っていてなお、親を失望させたくなくて、この誰もいない薄暗い森の中で歌っているのだろう。
「私ね、たまにすごく怖くなることがあるの。歌わない人生を考えるだけで、歌えなくなる姿を想像するだけで、すごく怖い。私ね…………」
そこで息を飲むように言葉を切ると、彼女はキラキラと光る瞳をこちらに向ける。
「私ね、歌が好き。歌が好きだよ…………」
今にも泣きだしそうなその顔に、俺の手に力が入る。
俺はなんてバカなんだろう。
彼女のことを何も知らないで、呑気に歌を聞いていた。自分だけが彼女の歌声を独り占めしているような状況に喜んでいた。彼女がこんなにも苦しんでいるとも知らずに。
彼女は妖精なんかじゃない。
彼女は、きっと人魚なのだろう。人間の世界になじめず、誰にも理解されず、それでも憧れを捨てられない。その先に苦難しかないと知っていながら、その場所に向かうことをやめられない。彼女は人魚だ。森の中で寂しくも美しい歌声を響かせる人魚。
この人魚に、俺は何をしてあげられるのだろうか。
そう自問したとき、俺には一つしか思いつかなかった。
「だったら……。だったら、俺が君と結婚するよ!」
「えっ?」
「俺が、いい大学に行って、いいところに就職して、君の親も納得するぐらいのいい男になるよ! そうしたら、君は好きなだけ歌えるだろ? だから、俺が君の居場所になるよ!!」
俺は一息でそう言い切った。
彼女はキョトンと不思議そうな顔をしていたが、数瞬してクスリと小さく笑った。
「な、なんだよ。笑うことないだろ!」
「ごめん。でもいきなりなんだもん。びっくりするよ」
「しょ、しょうがないだろ! これしか思いつかなかったんだから」
彼女はもう一度小さく笑うと、麦わら帽子を傾け目元を隠す。
「そっか。それじゃあしょうがないね。……期待して待ってるよ」
「お、おう。待ってろよ」
「…………」
「…………」
不意に訪れる無言の時間。
俺はこの時間が嫌いじゃない。それでも、この時だけは、いつもは感じない恥ずかしさを覚えた。
その恥ずかしさをどうにかごまかしたくて、俺は彼女と初めて会った時のように、
「親に頼まれたやつだけどやるよ。ここのお餅うまいんだ」
そう言って、右手の袋を差し出した。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
最初にも書かせていただきましたが、これは小説の練習のために三題のお題をもとに書かせていただいたものになります。まだまだうまくはありませんが、楽しんでいただけたのなら幸いです。
いつもは小説家になろう様にてファンタジーを主に書かせていただいております。
そちらは連載物ですので、もしご興味がありましたら、読んでくださると嬉しいです。
それでは、またお会いできればと思います。
静観 啓でした。