接触、そして、約束
その日の放課後、わたしは六条先輩からの伝言通りに、生徒会室の前までやって来た。そして、生徒会室のドアの前に立ち尽くしてもう結構長いこと経ってしまった。
六条先輩からの呼び出し、わたしは心臓が口から飛び出しそうなほど緊張していた。心臓の鼓動が普段よりも格段に早くなっているのが解る。ああ、このまま帰っちゃおうかな。
それにしても、こんなに早くに呼び出しがあるっていうことは、やっぱり六条先輩、わたしのこと怒ってるのかな。そんなことばかり考えて、わたしはドアの前で何もできないでいた。
それでも、いつまでもこうしてはいられないと、わたしが意を決して生徒会室のドアをノックしようとしたそのとき、わたしの手がドアを叩く寸前で、生徒会室のなかから声がした。
「ようやくか。まぁ、いきなり呼び出されて警戒する気持ちは解らんでもないが。さ、鍵は空いているから、入ってくれて構わんぞ」
ドア越しからでもよく通る、凛として、きれいな声。わたしはその声に吸い寄せられるように、ゆっくりとドアを開けて、生徒会室に入っていった。
「し、失礼しますっ……!」
生徒会室のなかに入ると、ドアがガチャリと閉まる。正面に見えたのは、来客用のテーブルにソファー、そしてひときわ豪華な黒い机。そして、その机の奥に、一人の女性が大きな窓からの夕日を背に浴びて、背もたれの高い椅子に座っていた。
何か書き物をしていたその女性は、その手を止めて、椅子から立ち上がる。そして、机と来客用のテーブルをぐるりと迂回して、ドアの前に立っているわたしの方へゆっくりととやってきた。
「君が来栖か。いや、いきなり呼び出して悪かったな。とはいえ、内心、本当に来てくれるのかとヒヤヒヤしていたところだったよ。さて、こうして面と向かって話すのは初めてだな。改めて、六条 沙羅だ、よろしく」
六条先輩は、そう言ってわたしを見つめながら笑っていた。わたしは六条先輩の圧倒的なオーラに何も言えず、固まってしまっいた。ああ、やっぱり怖い、怖いよぉ。
「あのっ! わ、わたし、く、来栖 桃花でしゅっ!」
ああ、こんな大事なときに噛んじゃった。でもでも、あの六条先輩がわたしの目の前にいるんだよ? 誰だってこうなっちゃうんじゃないかな?
わたしはたどたどしく挨拶をし終わると、思わず目を閉じてうつ向いてしまった。そして、チラリと六条先輩の方を見上げると、六条先輩はキョトンとした顔をしたあと、笑った。
「ハハッ! どうした、来栖。な~に、いきなりとって喰いはしないさ、そう緊張しないでくれ。これじゃあ話せるものも話せないじゃないか」
緊張しているわたしを見かねて、六条先輩が目を細めてニッと笑う。そして、六条先輩はスッとわたしに手を差し伸べる。
「まずは、握手だ。ようこそ、生徒会室へ」
「あ、は、はい……」
わたしは差し伸べられた六条先輩の白くて細い手を握り返す。その手は、見た目の白さとは裏腹に、とてもやわらかな暖かさだった。ずっと触っていたくなるような、そんな暖かさ。
わたしは手を握ったまま六条先輩に釘付けになってしまった。サラサラの黒い長髪、剥き立ての卵みたいにツヤツヤとした滑らかな肌、高い鼻、自信に満ちたシュッとした目、そして、キリッとした少し太めの眉毛に、薄く口紅が引かれてキラキラとピンク色に光る唇。
プロポーションだってわたしと比べたら天と地ほど違う。スラッとのびたスレンダーな体格だし、かと思ったら、すごく形の良い大きなおっぱいだし。そして、よく見たら、制服から覗く腕と脚には、普通の学生にはないギュッと引き締まった筋肉がついていた。
「どうした? 来栖。私の顔に何か付いているか? そんなにジロジロと見つめられたら恥ずかしいよ」
わたしの目の前で、六条先輩が少し困ったような表情で笑った。その六条先輩の言葉と表情で、わたしは現実に引き戻された。
「ご、ごめんなさいっ! 何でもないんです! 失礼しましたっ!」
「そうか、それならいいんだ。それじゃあ、立ち話もなんだ、そこにかけていてくれ。今、茶と茶菓子でも準備する」
そう言って、六条先輩はわたしの手を放して、目の前のソファーに目配せをしながら、部屋の隅にある、『給湯室』と書かれたドアへと歩いていく。わたしは慌てて六条先輩に言った。
「いえっ! お構い無く! わたし、すぐ帰りますからっ!」
わたしの言葉に、六条先輩はこっちに振り返りながら笑う。さっきまでの笑顔とは少し違う、イタズラっぽい笑い顔だ。
「まぁそう言うな! ちょうど仕事も一段落ついたから、茶でも飲もうかと思っていたんだ、少し付き合え! なあ、来栖!」
そして、六条先輩はわたしのほうにやってきて、肩に手を置き、わたしをグイグイと押して、半ば強引にわたしをソファーに座らせた。
そして、そのまま六条先輩は給湯室へと入っていった。わたしはしばらくふかふかのソファーに体を沈めながら、六条先輩を待つことになった。
…………
五分ほど経って、給湯室から六条先輩が、二杯の紅茶とクッキーが入った缶が乗ったお盆を持って出てきた。そして、六条先輩はお盆をテーブルに置き、紅茶をわたしの目の前に置いて、わたしの対面のソファーに座った。
「いやいや、ちょうどうまいことクッキーが残っていたよ。さて、早速で悪いが、来栖よ。今日、君がここに呼ばれた理由は解っているかな?」
このさっきまでのおおらかな態度とは違うビシッとした態度! やっぱり、六条先輩、怒ってるんだ! 早合点したわたしは、反射的に頭を下げてしまった。
「ご、ごめんなさいっ! ごめんなさいっ!」
わたしのいきなりの謝罪に、六条先輩は少し戸惑いつつも、やや態度を柔らかくして答えてくれた。
「どうした来栖、いきなりなんだ。君は何か謝るようなことをしたのか? そう身構えないでくれよ、私は怒ってなどいない。ああ、この口調がまずかったか。すまん、改めるよ」
「え? 先輩、怒ってないんですか?」
「怒るも何も、私はまだ何も言っていないじゃないか。どうも、君は何か勘違いをしているみたいだな。まぁ、まずは私の話を聞いてくれないか、来栖」
「は、はいっ!」
「よろしいっ! さて……」
六条先輩は、わたしが落ち着いたのを確認してから、湯気が立っている紅茶に口をつけて、再び優しい口調で話し始めた。
「とはいえ、君のその反応も解らないでもないな。今日、君を呼んだのは他でもない、君と私の幼馴染の海人との件だ。その様子だと私と海人が幼馴染だということは既に知っているな? そして、君が海人と付き合うことにしたことも私の耳に入っている、ここまではいいな?」
「は、はいっ!」
「そこで、だ。私は君に聞きたいことがあって、今日、ここに来てもらったわけだ。職権乱用も甚だしいが、そこは勘弁してくれ。なに、多くは聞かない。質問は、ただ一つだ」
わたしは六条先輩からの質問を、息を飲んで待つ。そして、六条先輩は身を乗り出して、目を輝かせながらわたしに質問をしてきた。
「君は、何故、海人のことを好きになったのだ?」
この質問、椿ちゃんや葵ちゃんの質問と全く同じだ。それじゃあ、その答えも全く同じものになる。わたしは笑われるのを覚悟して、質問に答えた。すると、六条先輩が体を震わせて、体を仰け反らせながら、笑った。
「クックックッ…… ハッハッハッ…… ハーハッハッハッ!」
物凄く大きい、窓ガラスが震えるような、長い長い笑い声。ここまで笑われるなんて、やっぱり、わたしおかしいんだ。
「やっぱり、可笑しいですよね、ごめんなさいっ! 先輩っ!」
「いやっ! 悪い悪い。違うんだ、違うんだよ、来栖」
六条先輩はわたしが東雲先輩を好きになった理由を笑ったわけを話してくれた。その理由は、わたしが考えていたより、ずっと真剣で、ずっと重かった。
「実はなあ! 私が海人のことを好きになった理由と全く同じだったものでなっ! これを笑わずにはいられないよ! ハッハッハッ……!」
「同じ理由、ですか?」
ひとしきり笑い終わった六条先輩は、笑い涙を指でぬぐいながら、わたしの質問に答える。
「あぁ、私は海人が大好きでなあ、昔から、ずっとな。このことを話すのは、海人以外には君が始めてだ。来栖、少し、私の話を聞いてくれないか?」
さっきとはうって変わって、真剣な表情の六条先輩の話に、わたしはゴクリと唾を飲み込んでから耳を傾ける。
「私は昔から海人のことが好きでな? 昔からあいつはそういう奴なんだ。普段はヘタレのくせに、いざとなったら身を呈して誰でも分け隔てなく助けてくれる。そこに私も惚れたんだ。だから、君が感じたその感覚は、正しい。私が保証する」
そうだったんだ。確かに、わたしと同じ理由だった。でも、それって、ちょっと変じゃないかな。わたしは思いきって六条先輩に聞いてみた。
「あのっ! こんなこと言うのは失礼かもしれないんですけど、それじゃあ、何で先輩は東雲先輩に今まで告白しなかったんですか?」
六条先輩は、わたしからの問いに、一呼吸置いてから、多分、包み隠さず、本心で答えてくれた。
「当然の疑問だな。しかし、私もバカだった。海人には、『解っていると思っていた』なんて言ったんだが、そんな訳ない。想いは言葉にして初めて伝わるものだ。解っていたのに、私にはその勇気がなかった。今までの関係が壊れるのが恐かったんだろうな」
なんだか、六条先輩、寂しそう。そして、六条先輩はもう一度紅茶に口をつけてから、更に話を続ける。
「そんなときだ、海人に告白をした娘がいると聞いたのは。海人から、直接な。その時、私は思った。『ついにこのときが来てしまった、海人の魅力に気付く娘が現れた』とな。その直後だ、私が海人のことが好きだと伝えたのは。全く情けない、これはいつまでも私が海人に気持ちを伝えるのを先送りにしてきた報いだろうな。とはいえ、もう後の祭りではあるが、海人に自分の気持ちが伝えられたから、私には後悔はない。本当だぞ?」
そして、六条先輩は、わたしに、言った。
「だから、私は、君に、海人を託す。私には出来なかったこと、私が海人にしてやりたかったこと、そして、私が海人にしてほしかったこと、全てを、君に、託す」
そんな、そんなにも六条先輩が東雲先輩を好きだったなんて。もしかしたら、わたしはとんでもないことをしてしまったのかもしれない。そう思ったら、気づいたら、わたしは泣いてしまっていた。
「先輩っ、わたしっ……! わたしっ……!」
いきなり泣き出したわたしに、六条先輩は両手をわたしの肩に置きながら、勇気づけるように言った。
「泣くな、来栖! なに、そこまで深く考えなくてもいい! 君が海人に愛想を尽かしたなら見限ってくれて構わんっ! そのときは君のおこぼれを私がいただくだけだっ! ハッハッハッ!!」
嘘だ。六条先輩はわたしに負い目を与えないように嘘を言っているんだ。そう思ったら、わたしにはもう謝ることしか出来なかった。
「ごめんなさいっ……! ごめんなさいっ……!」
「だから謝るなと言うのに。まぁ、これからは私が全力で応援してやるからそうはならんっ! 私は海人のことなら何でも知っている、好物、趣味、なんだったら性癖まで知ってるぞ! 何でも聞け! 包み隠さず教えてやるぞっ!」
「はいっ、わたし、絶対に、東雲先輩と、幸せになります……」
「ああ、頼んだぞ、来栖」
わたしは泣いた。六条先輩の前で、泣いた。ひとしきり泣いたわたしは、生徒会室を後にした。わたしはこれから、東雲先輩と、六条先輩、二人からの愛を受けて、生活していくことになる。
身に余る幸せ、わたしのこれからの未来は明るいものになるという確信で満ち溢れていた。六条先輩、本当に、ありがとうございます。そして、本当に、ごめんなさい。