ほんのわずかなすれ違い
よし、家に帰りつくまでには、なんとか気分も晴れてきたぞ。そもそも、イタリアン以外は文句無しに楽しかったんだ。沙羅姉には、今日は楽しかったってことだけを伝えればいいんだ! そして、俺は沙羅姉が待つ、自分の家の鍵を開けて、中へと入る。
「ただいま~ 沙羅姉、帰ってるかい?」
俺はそう言いながら、玄関の靴を確認する。うん、いつも通り、沙羅姉の靴が綺麗に並んでいるな。そして、俺の声に反応して、沙羅姉がリビングから出てきた。沙羅姉は、すでに部屋着に着替えていて、どうやら、リビングでテレビでも見ていたようだ。
「おお、帰ったか、海人。どうだった? 私が苦心して選んだリストランテの料理は! まぁ、茶でも飲みながら、ゆっくりと話でも聞かせてくれよ!」
沙羅姉はそう言いながら、俺を笑顔で玄関から中へと迎え入れる。やっぱり、沙羅姉は、俺達がイタリアンを存分に楽しんできたものだと疑っていないみたいだ。それだけに、俺は、沙羅姉のこの笑顔を直視するのが、つらい。
「あ、ああ、もちろん、美味しかったよ。店の内装が豪華すぎて、俺も来栖さんも、ちょっと緊張しちゃったけどね。それじゃあ、俺は一旦部屋着に着替えてくるから、沙羅姉はキッチンで待っててよ」
そう言って、俺は沙羅姉が持ってきてくれたスーツから、部屋着に着替えて、沙羅姉が待つキッチンへと向かった。さあ、あまり沙羅姉に下手なことを言わないように、気を付けないとな。
…………
俺と沙羅姉は、テーブルに向かい合わせになって、沙羅が淹れてくれた緑茶を飲みながら、今日のデートについて振り返った。ブティックでの沙羅姉の無茶な買い物、ステーキハウスでの沙羅姉の豪快な食いっぷり、岬の喫茶店での気恥ずかしいペアグラス、全てが絶品だった寿司屋。俺も沙羅姉も、笑い合いながら話に花を咲かせた。
「それで、最後のリストランテはどうだったのだ!? 私抜きで、二人だけの時間を過ごせたのだ、一日の締めくくりとしては最高だっただろうが!」
沙羅姉からのこの問いに、俺は、さっきまでと同じ様に答える。
「ああ、俺も来栖さんも、沙羅姉が用意してくれた料理を、存分に楽しんだよ。でも、やっぱり、俺にはいつも食べてる沙羅姉の料理が一番だよ! 俺達にはちょっと高級すぎたかなっ! アハハハッ……」
そんな俺の反応に、沙羅姉は満足そうにうなずいたあと、テーブルに手をついて、身を乗り出して、俺の顔に自分の顔を近づけてから、こう言った。
「それで、海人よ。勿論、帰りに来栖にしてやったんだよなっ!?」
な、なんだ? 沙羅姉の顔が急に真剣みを帯びてきたぞ? でも、俺には沙羅姉のこの質問の意図がよく解らないから、正直にどんな風に帰ってきたかを話すしかないよな。
「え? なにをだよ、沙羅姉。俺達は普通におしゃべりをしながら、来栖さんを家まで送ってから、帰ってきただけだけど……」
俺からの答えを聞いた沙羅姉は、しばらく唸りながら頭を抱えたあと、大きなため息を吐いてから、俺に言った。
「はあっ…… なあ、海人よ。ここまでお膳立てされて、来栖に甘い言葉を添えてキスのひとつでもしてやらんでどうするんだ。私はそこまでは面倒は見きれないぞ。これほどのチャンスはそうあるまいに。私は、少し海人のヘタレっぷりを過小評価していたようだな、まったく……」
ああ、沙羅姉は、そういうつもりで、俺達を二人っきりにしたのか。でも、沙羅姉には悪いけど、とてもそんなことを言える雰囲気じゃなかったよ。それに、キスのタイミングって、俺自身が決めるものなんじゃないのか? 俺は少しムッとして、沙羅姉に言った。
「あのさ、沙羅姉には悪いんだけど、そういうのは、俺が自分でいいと思ったときに、自分の意思でタイミングを決めるからさ。だから、沙羅姉はそこまで俺達のことを気にしないでくれよ。頼むからさ」
俺からの答えに、沙羅姉は目を見開いたあと、なんだか悲しそうな表情をしながら、俺に言った。
「ああ、そうか。つまり、今日の私のデートプランは、お前らにとってはお節介でしかなかったのだな。いや、本当に出すぎた真似をしてしまったよ。今日は私のわがままに二人を付き合わせてしまって、すまなかった」
いや、そういうことを言いたいんじゃないんだよ、沙羅姉。ただ、何から何まで沙羅姉に任せっきりじゃあ、俺も来栖さんも沙羅姉に申し訳なさすぎるってだけで、沙羅姉が今日、俺達のために用意してくれたデートプランは、最高の贈り物だったんだよ。
「いや、沙羅姉、そういうことじゃなくってさ……」
俺は、なんとか誤解を解こうと、沙羅姉にうまく自分の考えを沙羅姉に伝えようとした。でも、沙羅姉は俺の話を聞き流すばかりで、俺に取り合ってくれることはなかった。そして、沙羅姉は椅子から立ち上がり、空いた湯呑みを片付け始めた。
「あとのことは私に任せて、風呂に入って、今日は休め。私に付き合わされて疲れたろう。でもな、海人。私はお前らに拒絶されようが、お前らを全力で応援するという気持ちに変わりはない。だから、これからも私に頼ってくれていいんだぞ?」
なんだよ、沙羅姉。どうしてそんな言い方するんだ。俺も来栖さんも、沙羅姉を拒絶する気なんか微塵もないのに。いや、むしろ、俺達には沙羅姉が必要なんだよ。
でも、今の沙羅姉には、なにを言っても効果はなさそうだ。俺は沙羅姉の言う通り、今日の疲れを癒すべく、風呂の準備をするため、キッチンから出た。
俺は、偉そうに、『キスをするタイミングは自分で決める』なんて言ったけど、本当は踏ん切りがつかなくて、無意識にキスをすることを避けてしまっていたんだと思う。
そして、俺が、沙羅姉のお膳立て通りに、今日、帰り際に勇気を出して、来栖さんとキスをしなかったことを、俺はあとで大いに後悔することになるんだ。
…………
「ただいま~」
わたしは東雲先輩に送ってもらって、自分の家に辿り着いた。今日はとっても楽しかったけど、最後に六条先輩と一緒にご飯が食べられなくって、ちょっと残念だったな。六条先輩、なんであんなことしてまで、わたし達を二人きりにしようとしたんだろう?
「ああ、お帰り、姉ちゃ……ん? な、なんだよ、その格好……」
「あっ、ひーくん。ただいまっ! えへへっ、この服、今日、六条先輩に買ってもらっちゃったんだっ! どう? 似合うっ?」
私を出迎えてくれたひーくんは、私の格好を見て、顔を強ばらせている。あれ? そんなに、わたしの格好、変かなっ?
「いや、まぁ、似合ってはいるけどさ……」
あっ! ひーくんったら、わたしがあんまりキレイなもんだから、緊張しちゃったかな? なんちゃってっ!
「それよりも、今日はお父さんとお母さんは? もう寝ちゃった?」
わたしからの質問に、ひーくんは頭を掻きながら、めんどくさそうに答える。
「いや、『姉ちゃんがデートに行くなら、私達も久しぶりに二人で外で食事してくる』って言って、晩飯代置いて出ていっちまったよ。まったく、いい年して、息子一人ほっぽりだしてなにやってるんだか。ま、俺としては小遣いが増えるからありがたいんだけどな」
もうっ! お父さんもお母さんも、仲がいいのは解るけど、ひーくん一人置いていっちゃうなんて、信じられないっ! わたしはひーくんの頭を背伸びして撫でながら、ひーくんを慰める。
「ゴメンね、ひーくん。わたしがデートに行っちゃったから、ひーくんを一人にしちゃったんだよね。一人でお留守番できて、えらいえらいっ!」
「バ、バカっ! いきなりなに言い出すんだよっ! 姉ちゃんっ! それより、さっさと着替えて風呂入っちまってくれよ。風呂が片付かないからさ」
「は~いっ! それじゃあ、着替えてくるねっ、ひーくんっ!」
こうして、わたしと東雲先輩、そして、六条先輩との楽しいデートが終わった。正直に言うと、最後に六条先輩と一緒にご飯が食べられなかったのは残念だけど、これからもたくさん時間はあるから、大丈夫だよねっ!





