狂気の前兆
私は海人との食事を終え、自分の屋敷へと帰る。さて、どうしたものかな。海人にはああ言ったが、まだ私は海人に彼女が出来た事実を飲み込めないでいる。と言うより、私の元からから海人が離れていくなどとは、考えたこともなかった。
でも、海人が決めたことであれば、それを応援するのが私の役目。それは間違いない、間違いないのだが、私にはやらないといけないことがある。そのためには、まず、その海人の彼女とやらに接触しなくては。
「帰ったぞ。誰かいるか」
私は屋敷の門を開け、玄関で靴を脱いで、エントランスへと上がる。そして、屋敷の奥から、私の声に反応して白いボルゾイが私の元へと駆けてくる。そして、そのボルゾイは、私の周りをクルクルと回りながらじゃれつく。
「おお、ルドルフか、お前は本当に耳聡いな。おいおい、そんなに私のスカートを引っ張らないでくれ。スカートが脱げてしまう」
私がルドルフと戯れていると、エントランス脇の部屋から、一人の男が出てくる。そして、その男は私からルドルフを引き離して、私に深々と頭を下げながらこう言った。
「お帰りなさいませ、沙羅お嬢様。本日も、東雲様の家で夕飯を済まされてこられたかとは思いますが、夕飯の方はどうされますか?」
「ああ、勿論、頂くとも。海人には悪いが、私にはあの程度の量ではとても足りんよ。ちなみに、今日の夕飯はなんだ? 鴨じい」
私からの問いに、鴨じいは咳払いをして、ポケットから手帳を取り出した。そして、そこに書かれている内容を、私に向けて読み上げる。
「本日のメニューは、豚のカツレツ、秋刀魚の塩焼き、鶏の唐揚げ、野菜炒め、五目ご飯、豆腐の味噌汁、ほうれん草のお浸し、あとはデザートの水羊羹で御座います」
「そうか。それでは、早速、頂くとしようか。私は自室で着替えてくるから、食事の準備の方は宜しくな、鴨じい」
「かしこまりました、沙羅お嬢様」
私は鴨じいにそう申し付けて、二階の自室へと戻る。今日もお父様とお母様は不在か。忙しい身とはいえ、たまには家族揃って食事をしたいものだ。だが、無い物ねだりをしてもしょうがない。
私は自室で部屋着に着替えて、いつも通り、広いテーブルで、一人で食事を取り、浴場へと向かう。勿論、無駄に大きい浴場には私一人だけ。私は湯船に浸かりながら、今日、海人の家であった出来事を反芻した。
…………
私は、風呂を済ませ、宿題と生徒会の仕事を片付けて、物思いにふける。私の理想としては、海人はこれからも、私の傍から離れることなく、私達は今のままの関係で、お互い幸せになる未来だったのだがな。
海人は、普段は臆病者で、問題を先送りにする悪いクセのある男だ。だが、私は知っている、ここぞというときの海人の勇気を。ああ、思えば、私が海人に恋をしたのは、あのときだったな。
絶望的なピンチから私を救いだしてくれた、私の白馬の王子様。だから、私はそんな海人の傍にずっといたかった。だが、私には海人に告白する勇気がなかったのだ。
海人との今の関係が壊れてしまうかもしれないこともそうだが、私には海人と一緒になってはいけない理由がある。こればかりは私の一存でどうにか出来る話ではない、仕方ない、仕方ないんだ。
だから、正直、海人に彼女が出来たと聞いて、少しホッとしてしまった自分がいたのだ。これで海人は、人並みの幸せを掴むことが出来る。それはとても喜ばしいことだ。
だが、それと同時に、私のなかにもう一人の私が生まれてしまったのもまた事実。そのもう一人の私は、私にこうささやく。
『ワタシノ、カイトヲ、ウバッタオンナナンテ、コロシテシマエバイイ。ソウスレバ、コレカラモカイトハ、ワタシノモノダ』と。
勿論、私が海人を全力で応援しようとする気持ちは本物だ。だが、それだけに、もし、その海人の彼女とやらが海人を裏切ったとなれば、私は自分を抑えられる自信がない。
私は、学校の皆が言うような、完璧な人間などではない。むしろ、私は、人一倍嫉妬深くて、自制の効かない人間だ。だから、もし、海人のことを傷つける人間が現れたら、あのときのように、私はそいつを殺してしまうかもしれん。
だから、私は、海人の彼女がそのような輩ではないかを、冷静に見極めなければいけない。そして、もし、その彼女が海人を裏切ったときに、私がその彼女を殺してしまったなら、私自身も死なねばならん。
それだけ、人を好きになるということは重いのだ。世間一般の常識では、私のような考え方は、『極端だ』と言われるのだろうが、私はそうは思わん。
身分を気にせず、ただ人を好きになることが出来るのがどれだけ羨ましいことか。私にはその当たり前の恋が許されていない。だから、私は場合によっては、嫉妬にまみれた鬼と化すだろう。
だから、私は、海人がそんな輩を彼女として選んでいないと信じたい。そうでなければ、私は自らの手を血で染めてしまうだろうから。海人よ、私は、お前のことを信じるぞ。
…………
次の日、私はあらゆる情報網を駆使して情報をかき集めて、海人の彼女とやらが誰なのかを調査した。そのなかで、その彼女というのは、一年C組の来栖という女子だということが解った。
そして、私はその来栖とやらがどのような人間なのかを、私の信頼する人物に依頼して徹底的に洗った。戸籍から通学経路に至るまで、隅々まで。しかし、その来栖とやらからは、全くホコリは出てこなかった。
来栖は四人家族の一般的な母子家庭の長女で、裕福層でも貧困層でもない、ごくごくありふれた、普通の女子。強いて特徴を言うなら、幼い頃に妹さんが亡くなっているということくらいか。
成績は中の下、運動神経はクラス最下位、しかしながら、性格は極めて穏和で、その愛らしい見た目と、表裏のない性格により、周りからは大層好かれているとのことだ。
勿論、補導歴等は一切なし。成績はともかくとして、授業態度は極めて真面目だという。よし、これなら、海人の彼女として相応しかろう。しかし、まだ油断はできない。
人は見た目によらないものだ。そのことは、これまでの人生で痛いほど経験してきたからな。よし、少々強引だが、期を見て来栖を私のところに呼び出してみよう。そこで、私が全力でその来栖の人柄を見極めてやろうじゃないか。
そして、もし来栖が海人に相応しい人格の持ち主なら、早めに二人の関係を進展させてやらねば。来栖を好いている男はいくらでもいるようだからな、『兵は神速を尊ぶ』というやつだ。
こうして、私による、海人に来栖が相応しいかの調査は終了した。このことを海人に話せば面倒なことになるだろうから、私は海人の彼女が誰なのかを、知らないふりをしなければいけないな。