8
「ただいま」
「おかえりなさい、……おにい、様」
「――ん? ティス、どうした」
自宅のリビングに帰って来た仁は帰宅の挨拶も忘れて目をしばたたく。
突然なティスのお兄様呼びに翻訳機が壊れたのか疑うのだが――。そもそも、彼女は翻訳機を使わず拙い日本語で挨拶しているのだ。翻訳機の故障ではなければ、犯人は一人しかいない。
「ふっふっふ、ティスちゃんをここで預かりはる事になったんやろ? だから呼び方もそれに合わせたものを教えたの」
「確かにその通りなんだが……、まさか外でもこの呼び方をさせるつもりじゃないだろうな」
「――まっさかあ、ぷぷっ」
そんなわけないじゃない――春奈は笑いを隠さず言い放つ。戦闘の疲労が残った体で怒鳴るのも億劫で、仁は後で訂正させると心に決める。
それともう一人の呼び名も確かめる必要があると、ティスに聞いてみた。
「ティス、ちなみに春奈の呼び方は?」
「お姉ちゃん」
「――おい」
「お姉様なんて呼ばれるのはずかしいやん!」
確かに自分の事を「お姉様」と教えていたなら、仁も若干ではない程度には引いていた。なのでその名称は正しいのだが納得できるかは別だ。
ちなみに祥子は祥子さんのままだ。家の事をやってもらってる相手に喧嘩は売れない。
「俺はどうなんだよ!」
「ダメでしたか……?」
椅子に座り一息吐く仁の制服をティスが摘まむ。瞳を潤ませるティスは、彼女らしくないと感じるぐらいにはあざとい。
「駄目ではないが……仕込んだのはお前か?」
「うちや無いよー、どこぞの綺麗なお姉さんや」
「祥子さんがか? そんなわけ――」
身近な年上の女性で当てはまるのは祥子さんぐらいだ。仁が真っ先に思い浮かべた相手は予想外な人物が否定した。
「余を忘れたか?」
「貴女は……、なぜここにいるのです」
バスローブ姿で現れたのはさっき戦った吸血姫。
今にも零れそうな大きな胸は青年の目に毒であるが、それを分かっていて彼女は堂々と肢体を晒しているのだ。
「言っただろ、『次に会う時を楽しみにしてる』――と。それと『貴女』とは無粋でないか?」
「そこまで深い仲ではなかったと思いますが……」
「熱く交わり、接吻までした間柄であろう?」
カーミラの表情は恋い焦がれる乙女のそれだ。仁はそれが演技だと分かっていても鼓動が早くなるのがわかった。
なるほど、これがティスの元になった演技か。
「――お兄様?」
「なにが交わったですか。ただ戦っただけでしょうに」
「むぅ」
「くくくっ、お主も熱くなったのではないか?」
ティセは自分の胸に巣食うもやもやの正体も理解できず、不機嫌な顔をしている。そんな無垢で愛らしい彼女は背伸びした演技より、頬を膨らませた今の表情が似合っていた。
カーミラも演技を忘れて穏やかな目でティセを見ている。おそらく、彼女の元気な顔を見たかったのかもしれない。
「カーミラさんはティスちゃんの教育の為に、しばらくこっちにいはるんやって」
「――監視のつもりですか」
「戯け。羽虫の駆除を任せたが、それを見届ける人間も必要であろう」
言い方が違うだけで実際には監視だと、仁の疑いの眼は消えない。
おそらくクローン技術の回収か廃棄が目的で、日本に残ったのが真相だろうと仁は考える。そうでなくては吸血鬼のナンバー2が関わりの薄い土地に単独で派遣される理由が薄い。
「仕事のついでにティスの事も多少は見てくれると思っても?」
「陛下は非情であるが慈悲深い。同胞を見捨てる真似はせんさ。ティアリス=アルカードが一人前になるまでは残るつもりだ」
仁がカーミラと話していると、祥子が残してあった夕食を運んできた。それに仁は感謝を言葉にして、箸を手に取る。
「ティアリス?」
「この娘に陛下が与えた名だ。『十三番』、なぞ吸血鬼の品位が疑われるだろうに」
仁が「それでいいのか」と聞くと、ティスは小さくうなずいた。前の名前に愛着もあるはず、けれど自分の名前が普通な名前ではないと知ったのだろう。
「それはいいですが、滞在場所はどうするつもりで?」
「今日は末妹と話があるので黒木殿に宿泊を頼んだが、さすがにずっと頼むほど図々しくはない。明日からは合流する従者と一緒にホテルへ移る」
そんなことを言ってカーミラは仁の夕食をつまみ食いする。
「おい――」
「良いではないか。日本では『同じ釜の飯を食う』と言うのだろ?」
それは苦楽を共にした親しい間柄――というのが正しい意味である。カーミラは知っていて揶揄ってるのか、素で間違ってるのか、付き合いの短い仁には判断が付かない。
「はあ……。それは意味が違う。祥子さん、何か甘いものでもあります?」
ため息を吐く仁は何か用意できないか聞いてみる。カーミラがただ単に仁を困らせたい可能性もあるけれど、甘い物を献上すれば大人しくなるかもしれない。
いつの時代も子供と女の機嫌を取るには甘い物が効果的だ。
「くっくっくっ、さっきの口調は気に入らん。それで喋るがいい」
「さいですか、カーミラがそれでいいなら構わんが」
何を気に入られたのか。ご機嫌なカーミラは自分で持ち込んだビールも持って来てくれないかと祥子に頼んでいる。
「うむ、礼節とは外ではなく中身よ。虚ろなモノにどれだけの価値がある。――それは人間……戦士も同様よ」
――そういう事か。
仁はカーミラの紅い瞳の中にある一種の寂しさが見えた気がした。
人間とは生きる時間が違い、生物としての格も違い、庇護者として誇りを持つ。――吸血姫は孤高なのだ。
だから戦いを通じてしか他者との――友との関わり方がわからないのかもしれない。
それが分かったからと言って、戦いを誘うような目をされても仁は困るのだ。彼は戦えば分かり合えるなんていう戦闘狂ではないのだから。
「その怪しい目で俺を見るな。もしかしてまた戦うのが目的で残ったんじゃないだろうな」
「当然であろう! 長く楽しく生きる事は趣味を持つ事である。それが余の場合、勝負というモノであったというだけだ。別に夜の戦いでも一向にかまわぬぞ?」
子供の前でなんてことを言い出すのか。仁はカーミラを睨みつけるがどこ吹く風かと気にする様子もない。
「ねえ、カーミラさん。日本とあんまり関わりがないみたいだけど、日本語は上手いよね」
楽しそうに仁とじゃれ合っているカーミラに春奈が話題を振る。それはカーミラの暴走を止めるためではなく、単純な好奇心が抑えられなかったからだ。
春奈の積極的な質問にカーミラは気分よく答える。春奈のような良い意味で遠慮の無い様は彼女にとって好ましい態度であった。
「普通の学習方法ではないがの、吸血鬼の異能は幅広い。言語を学ぶのにも使える能力があるだけの事よ。文字に関して使い慣れるには苦労したわ……」
吸血鬼の力は多彩で、血から記憶を読んで言語を学ぶと言った事もできるらしい。ティスも異能に慣れたらそうやって日本語を教えてやって欲しいとカーミラに頼まれた。
「もっと質問してもいいですか?」
「くくくっ、構わぬぞ。童はこれくらい素直な方が好ましい」
一度質問して堰の外れた春奈は遠慮も忘れて質問攻めにする。
質問攻めにされているカーミラは妖艶でもあるが、どちらかというと鋭い彼女の目つきが少しだけ柔らかくなってるように仁は感じた。
「じゃあ他の吸血姫ってどんな人がおるの?」
「ん? 他の姉妹か……。研究家であったり、本の虫、美術品の収集家、あとは――女をコレクションしておる者もいるな」
「どっちのだ?」
「人材としてに決まっておろう。奴隷や剥製用に集めるなぞと悪趣味、陛下が許すわけあるか」
「女を集めるってのも十分悪趣味だと思うがな」
女を集める吸血鬼。その字ずらの問題にカーミラも言い方が悪かったと反省している。
「女をコレクションしているというのは言葉の綾だ……。正確には気に入った人間を従者や部下として育ててるという意味で。女と限定してるのは吸血鬼が女社会で男を嫌っている者も多いからというだけだ」
「歴史的に……か?」
過去を思い出すカーミラは不機嫌な顔をしている。良い思い出もたくさんあるだろうが、仁と春奈の知る歴史は悲惨な物が多い。
「そうだ……今も変わらぬ所もあるが大昔は下半身で物事を考える男が多いこと、魔女狩りもあったしな。そういった女どもを陛下が保護してるうちに今の吸血鬼社会が出来上がった」
「弱者の庇護者なのね」
「だからこそ陛下はクイーンと呼ばれておる」
カーミラの熱い視線はここにいない女王に向けられている。彼女は歴史の中で生きてきた本人でもある、その言葉は教科書に書かれた文字や画像と重みが違う。
「今も吸血鬼って増えてはるの?」
「混血種限定でな。吸血鬼の異能を与えられるのは女王と第一世代のみ。我らのルールで吸血鬼は管理できる範囲までと数が決まっている。子の不始末は親が後始末するという暗黙の了解もあるゆえ、滅多に血の契約を交わす者はいないのが最近だ」
「なるほど。でも、なりたい人間はたくさんいるんやろ」
そんな話をしているとビールと一緒に運び込まれたのはチーズとビールだ。残念ながら甘い物は全て式神――朱雀と白虎が食べ尽くしていたらしく残ってなかったとのこと。
少し残念にしてるカーミラはそれでもいいと春奈やティスと一緒にチーズを齧り始めた。
「わらわら居るわ。時の権力者なんか特に……な。あまりにひどい輩は次の日には骸に代わっておるがな!」
夏の黒いアレに殺虫剤を掛けるみたいで痛快だったとカーミラは笑う。だからこそ吸血鬼が世に恐れられ悪役にされるのだがそんなことを気にする彼女達ではない。
その後も仁が食事を終えて風呂に行ってる間も春奈とカーミラは女子会は続く。途中でティスは寝落ちしてしまったが祥子の雷が落ちるまで春奈は知識欲を満たしていた。




