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天風の剣  作者: 吉岡果音
第八章 魔導師たちの国
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第94話 甘い魔法

 まるで、白昼夢のように思えた。

 窓から差し込む金色の光に包まれ、目の前に立つ黒衣の男、ヴィーリヤミ。穏やかな朝の空気に似合わない、招かれざる不吉な影――。


「おや。おふたかた。まるで幽霊にでも出会ったような顔をなさっていますが、どうかなさいましたか?」


 ヴィーリヤミの口元が、不気味に吊り上がる。

 テオドルとオリヴィアは、ハッとし、急いで姿勢を正した。


「いえ……、失礼いたしました、ヴィーリヤミ卿。塔内でひたむきに魔法研究を重ねておられた貴殿が守護軍に入隊なさる、とても意外なお言葉でしたので――」


 テオドルが、内面の驚きが自分の表情に出てしまっていたこと、それに気付かされ、慌てて精一杯失礼にならないよう気遣いながら、率直な感想を述べた。

 オリヴィアもテオドルに続き、非礼を詫びた。


「ご不快に感じられたのでしたら、大変申し訳ございません。私もヴィーリヤミ卿は、魔法発展のために研究の道を専心なさるものと――」


 それから、オリヴィアはおそるおそる尋ねた。


「国王陛下のご命令で――、急なご決定だったのですか……?」


 ヴィーリヤミの唇は、笑みをたたえたままだった。


「いえ。私自身が志願したのです」


 それから、ヴィーリヤミは、くっ、くっ、と低い笑い声を立てる。


「ますます、おふたかた、信じられない亡霊を見ているようなお顔つきですね」


 テオドルとオリヴィアは、ふたたび大慌てで自分の表情を理性の支配下に置こうと努力しなければならなかった。


「私の力を、微力ではありますが、この国難、いや、世界の危機に役立てたいのですよ――」


 ヴィーリヤミの歌うようなその口調は、言葉にかけらも真意が含まれていない――、朝の明るさのような明晰さを持って、テオドルとオリヴィアはそう受け止めていた。




 塔の周りに、大勢の人々が集まっていた。


「もしかして、これが守護軍の人々――」


 昼過ぎ、窓の外を見たキアランが驚く。

 塔の庭、そして塔を囲む塀の外の遠くあちこちにテントがはられ、馬や馬車も並んでいる。


「先に入国していた僧兵たちや、もともとの守護軍のメンバーの他に、志願した一般国民も集まってきているらしいぞ」


 隣に立っていたライネが、キアランに説明する。


「私たちは朝報告を受けたばかりだが――、そんなに早く志願者が来ているのか」


「ああ。いい報酬や名誉、それからこの先の安定した地位を得ようと、発表をいち早く見聞きした人たちが押し寄せているようだ。もっとも、そういったことを抜きにして、純粋に平和を守るために協力したいと志願する人々も多い、そう俺は信じてるけどね」


「この様子だと、出発まで、さらに志願者は増えそうだな」


 ライネはキアランの言葉にうなずき、テオドルとオリヴィアは一般の志願者の面接や調整にも関与していて忙しいらしい、と付け加えた。

 

「へーえ? なんの、誰の出発―?」


 いつの間にか、ライネとキアランの間に、ひょっこりと金色のかわいらしい頭が顔を出す。


「わっ、シトリン! いつの間にっ!」


 キアランを見上げてにっこりと笑う、シトリン。


「今来たんだよー。ねえ、誰か出かけるの?」


 無邪気な笑顔に、思わずキアランは身をかがめ、シトリンの頭を撫でていた。つい、彼女が四天王であることを失念してしまう。


「私たちは、あさってここを出ることになった」


 つい、計画も打ち明けてしまう。まあ、いまさら警戒する必要もないのだが――。


「どこに行くの?」


 シトリンは顔を輝かせる。やはりこの塔は基本的に居心地が悪いらしい。


「エリアール国の最北にある聖地、ノースストルム峡谷というところだそうだ」


「えっ。また居心地が悪そう!」


 シトリンは顔をしかめる。もっといいところに行けばいいのに、とまで付け足して不満そうに唇を尖らせた。キアランとライネも、聖地とはいえそこが厳しい土地と聞いていたので、シトリンの言葉にうっかり同意しそうになる。


「シトリン。他の人々の目に留まらぬよう、引き続き頼んだぞ。これは、みんなからのお願いだ――」


 仇を討とうと、僧兵がシトリンに攻撃し、さらなる悲劇が生まれる、それだけはどうしても避けたかった。


「うんっ! 私も、(みどり)も、蒼井も、めっちゃ気を付けるー!」

 

 シトリンは元気よくうなずき、四聖(よんせい)のみんなはどこかなー、とぱたぱたと走っていった。

 慌ただしく去っていくシトリンを、キアランは苦笑しつつ見送る。


「……不安だ」


 キアランが呟く。ライネも、キアランの言葉に同感だった。


「シトリンは四天王だから、よほど高い能力の者しか気付かないだろうが――。(みどり)と蒼井――。やつらはシトリンに比べると、かなりハードルが下がる。僧兵や魔法使い、魔導師に見つかってしまう確率は高い」


 ライネは、ふう、とため息をつく。


「そしてなにより問題なのは――、(みどり)と蒼井、やつらの性格……」


 彼らの出現が、人間との戦いに発展するのではないか――。


 ライネは、さらに大きめのため息をついた。


「不安だ」


 キアランとライネ、もう一度呟く。声がすっかり重なっていた。




「おじょうちゃん。ひとりで、どこへ行くんだい?」


 呼び止められて、シトリンはスカートをひるがえし振り返る。

 今まで、聞いたことのない声。知らない誰か。


「あっ。見つかっちゃった!」


 シトリンは、しまった、というように自分の口元に手を当てた。そして、声の主を見る。

 声をかけてきたのは、とび色の長い髪の、吊りあがった目の――、シトリンはちょっと首をかしげる。


「あれ……? おじちゃん。人間……?」


 少し、判別がつきにくい、そうシトリンは思う。


「もちろん、私は人間だよ」


 その『おじちゃん』は、意外にも優しく穏やかな声色だった。


「だよねえ」


「そうだよ」


 不思議なおじちゃん、そうシトリンは思う。


「私の名は、ヴィーリヤミ。おじょうちゃん、お名前は……?」


「ヴィーリヤミ……?」


 シトリンは小首をかしげ、ヴィーリヤミを見上げた。


「そうだよ。よろしくね。とってもかわいい、おじょうちゃん――」


 ヴィーリヤミは、笑みを浮かべ、シトリンに一歩近寄ろうとする――。


 びったんっ。


「な……!?」


 シトリンは飛び上がり、右手のひらでヴィーリヤミの目の辺り、左手のひらでヴィーリヤミの口、いっぺんにふさぐように叩いた。


「見ちゃだめっ! 見なかったことにしてっ! おじちゃんは、なにも見なかったー!」

 

 そう叫び、走り去る。それは呪文ではなく、まったくの効力を持たないただの、いわば、「小さな女の子のお願い」――。


「お、じょうちゃん……」


 シトリンは、呆気にとられちょっと間の抜けた声になってしまったヴィーリヤミの言葉を無視し、勢いよく廊下の角を曲がった。

 シトリンは一人呟く。


「あぶない、あぶないっ。キアランおにーちゃんに言われたばっかりなのに、もう誰かに見つかっちゃうなんてー」


 胸が、どきどきしていた。廊下を走る自分の足音が、自分の頭の中に大きく響く。

 ふと、思う。


「……でも、ここには私のことわかっちゃう人間もいるんだな――」


 ちょっと足を止める。そして、長いはちみつ色の髪を揺らし、振り返る。


「ふうん――」


 いきなり見つかってしまった驚きと、逃げるときのどきどき。少し、楽しくて胸が弾んでいた。


 ヴィーリヤミ……? 変わったおじちゃん――。


 今まで接してきた人間たちと異なる、魔の者に近い雰囲気――。

 

「ちょっと、気になるかも――」


 振り返った廊下の角の向こうの壁が、見えない向こう側が、手招きしている。シトリンは、戻ってみたい誘惑にかられる。


 おいで――。


 声が聞こえた気がした。


 なにか甘い物をあげようか……? 綺麗で不思議な宝物を見せようか……?


 魔法だ、そう思った。


 人間の、魔法。強い、魔法。素敵な、魔法――。


 廊下の向こうから、流れてくる魔法。きっと、素敵なことがある、そう思わせるちょっと危険な香りのする、とろけるような、甘い、魔法――。

 シトリンは、誘惑を振りきるように前を向く。


四聖(よんせい)のみんなと、遊ぶんだっ」


 早くみんなと遊ぼう、そして(みどり)と蒼井が心配しないよう、帰りは遅くならないようにしよう――、シトリンは、手のひらをぎゅっと握りしめ、元気よく駆け出した。

 でも、と、シトリンは思う。


 今日のことは、秘密にしておこう。キアランおにーちゃんにも、四聖(よんせい)のみんなにも。それから、(みどり)と、蒼井にも――。


 そのほうが、いいような気がした。あとで、確かめてみよう、そう思った。


 秘密。なんてどきどきする響きなんだろう――。


 シトリンは、ふふっ、と笑った。

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