第84話 重く暗い空、近付く地響き
雨が降り出していた。
そこは開けた草原で、生えている木もまばら、雨を遮るものがない。
そんな場所に、ぽつんと半円球の透明な、ドームのようなものがあった。
それは人工の建造物ではなく、高次の存在であるカナフが空中に巡らした、バリアーのようなエネルギーだった。
「できれば、操られている動物たちが襲ってくる前に、群れの核となる魔の者を封じたいのですが――」
カナフが作った雨よけのドームの中、キアランとアマリアとライネ、シルガー、花紺青、魔導師オリヴィア、そしてシトリン、翠、蒼井、それから、フェリックスと魔導師オリヴィアの白い虎がいた。
冷たい雨を避けることができ、白い虎はくつろいでその場に横たわり、フェリックスは虎の様子をちらちら気にしながらも、その辺の青い草を食んでいた。
「動物たちは、魔の影響を受けているだけです。なるべく彼らを、自然に還したいのです」
カナフの言葉に、人の血が流れるキアランたちはうなずく。魔の者であるシルガーたちは、カナフと少し距離を取って空を見上げており、シトリンと花紺青にいたっては、吊り橋の板に仲良く並んで座って宙を飛び回り、あげくカナフの作ったガラスのようなそのドームの天井辺りまでくると、内側からドームの壁をぺしぺしと叩いて遊んでいた。
「雨しずくが、面白いねえ」
「高次の存在って、便利な技を持ってるね!」
「私も、でっかい泡なら作れるよ!」
シトリンが、花紺青に向かって胸を張る。
「さすが四天王、器用だね! 今度僕にも見せてよ」
「花紺青おにーちゃんのこの板も、楽しくってすごいね。おおい、翠―、蒼井―!」
シトリンは、はしゃぎながら下にいる翠と蒼井に向かって、ぶんぶんと手を振った。シトリンももちろん空を飛べるわけだが、乗り物に乗るのは普段と違う楽しさがあるらしい。
「高次の存在たちは、あの群れを止めないのか?」
楽しそうなシトリンと花紺青を一応ちらりと見上げ微笑んでから、キアランがカナフに尋ねた。
「私たちは、強烈なエネルギーのぶつかり合いや、その場に深い影響を及ぼすような異常が出ていない限り動きません。ただの移動だけでは、干渉することはありません」
「被害が出るのがわかっていても静観する、そして収束したあとに颯爽と現れる、それがお前らのやり口だからな」
シルガーが棘のあるいいかたをして、笑う。
「ええ。確かに……。私たちは、人間たちが思い描くような天の使いではありません」
カナフはシルガーの言葉に反論することなく、ただ寂しそうに微笑んだ。カナフ自身、それが事実だと認めていた。
「騒ぎを起こして、おっきな被害を出す側が、なにをわかったふうな顔して述べてんだよ!」
ライネが、シルガーに食ってかかる。
「私はただ事実を言っただけだ。カナフを責めているわけではない」
「俺も事実を言ってるだけだ! ただ俺は、シルガー、あんたを責めてんだけどよ!」
えっ。責めているんだ。
一同の視線が、ライネに集まる。
「いや、責めてねーけどよ!」
あっさり、ライネは意見を覆した。
「……シルガー、あんたには色々助けられてるし」
ちょっとバツが悪そうに、ライネは頭を掻きながら口ごもる。
「ライネ。お前に責められても、私は一向に構わないが?」
シルガーは、涼しい顔でそう述べた。
「そこは、構えよ!」
なんとなく見下されているようで、ライネは顔を真っ赤にして言い返していた。
「ん」
シトリンが、遠くを見つめる。ほぼ同時に皆も、同じ方角を見つめた。
「……だいぶ、近付いてきた」
空気が、振動していた。普通の人間には感じられないものだったが、そこにいる全員が、体の中を突き抜けるような地響きを感じていた。
息遣いが、感じられた。狂気じみた、熱い息遣いが近付いて来る――。
「……核となる魔の者を始末すればいいのだな」
今まで腕組みをして黙っていた翠が、口を開いた。
「やつは群れの中心付近にいるようだ。獣たちの被害を出さず、ということは、上空から直接魔の者だけ叩けばいい、そういうことを言ってるのだな?」
蒼井もカナフを見つめ、そう確認する。無関心のような態度でいて、翠と蒼井はカナフの言葉をきちんと受け止めていた。
「……私の力で、すぐにでも動物たちにかかっている魔の影響を取り去ることができれば、それが一番なのですが――。その魔の者が生きている限り、術の影響は取り去ることができません」
始末や叩く、そういった言葉を避けつつ、カナフがうなずく。
「なるほど。本体の魔の者を消し去れば、あんたの力で獣たちを自然に還せる、そういうわけか」
「破壊するのは我らの得意分野。修復するのは高次の存在の得意分野だ」
翠と蒼井は、主であるシトリンを見上げた。従者である彼らは、シトリンの命令を待っていた。
「うん! じゃあ、待ってないで行こうか! 花紺青おにーちゃん、ありがとねー」
シトリンは、漆黒の四枚の翼を広げ、空を飛ぶ板から飛び降りた。
「ありがとうございます……! シトリンさん、翠さん、蒼井さん……!」
カナフは礼を述べながら、指でさっと、空中に大きく四角の図形を描いた。たちまち透明なドームに四角い扉が生まれ、そして開いた。
「私も行く! 花紺青、その板に乗せて連れて行ってくれ!」
「そうこなくっちゃ!」
花紺青が立つ板の上に、キアランが飛び乗る。シトリン、翠、蒼井がドームから外に出るのに続き、キアランと花紺青も、降りしきる雨の中へと飛び出した。
「やれやれ。それでは、私も行くか。人間ども、カナフを護衛していろ」
シルガーが、カナフ、アマリア、ライネ、オリヴィアに向かってそう告げた。
今まで草を食んでいたフェリックスと、草の上に寝そべっていた白い虎が顔を上げる。
「ああ。フェリックス、それから白い虎。お前らもカナフを頼む」
「彼の名は、ラジャといいます」
シルガーがフェリックスと白い虎に声をかけると、オリヴィアが白い虎の名を笑顔で告げた。
シルガーは、キアランやアマリアがよくそうしているのを真似て、フェリックスの首筋を撫でてあげた。それから、フェリックスだけでは悪いと思ったのか、ラジャの頭も撫でた。ただしシルガーのそれらの動作は、初めての試みだったようで、とてもぎこちない不思議な動きとなっていたが。
「はい……! シルガーさん。私たちは、カナフさんの護衛と共に、魔法の力で獣たちの進行を止めるよう尽力します……!」
魔導師オリヴィアが、力強い声で宣言する。魔の者シルガーに対し、少しも臆することなく。
「四天王に従者たちにキアランに、それからおまけにシルガーか。楽勝だな。こっちもこれだけメンツが揃ってるんだ! 獣を殺さず静める。任せとけ!」
ライネが拳をぐっと握りしめ、気合を込めつつ笑う。
「……甘いな」
扉に向かいつつあったシルガーが、振り返って呟いた。
「オニキスがうろついている――。あの群れとオニキス、関係があるかもしれんぞ……?」
銀の瞳が、冷たい光を放つ。
「シルガーさん……!」
アマリアが叫んでいた。
「キアランさんを……! 皆さんを、よろしくお願いします……!」
ふっ、と、シルガーは笑う。
「私は私の意思で動くのみ。そう言っただろう……?」
銀の長い髪が、ひるがえる。
「改めて頼まれるまでもない……!」
重く暗い空を、切り拓くように飛んで行った。




