第77話 謎の少年
「誰だっ!」
キアランは、ベッドから飛び降りた。
侵入者は、黒髪の少年だった。褐色の肌に、鮮やかな青の瞳が光る。
いつの間に、この部屋に……?
少年から魔の者の気配が、感じられない。雰囲気や見た目の印象も、普通の活発な少年、といった感じで目立った特徴はなかった。
しかし、この部屋は三階に位置していた。そして、窓の鍵もかかっていた。どうやって少年がこの部屋に侵入できたのか――。
少年が何者でどういう意図かわからないが、キアランは腰に差してある天風の剣に手を伸ばす。
「……天風の剣、だね」
え!?
キアランは仰天した。そのとき初めて気付いたのだが、腰に差してあったままのはずの天風の剣が、なかった。
そして、キアランの瞳に映るのは、まだあどけなさの残る顔に、不釣り合いな剣――。
少年が手にしているのは、紛れもない、天風の剣だった。
なんの気配も動きも感じられなかった。しかし、少年の細い手には、天風の剣がしっかりと握られていたのだ。
「お前……! いったい、いつの間に!?」
キアランは、天風の剣を取り戻そうと駆け出す。
「遅いよ」
ドッ……!
「うっ……!」
少年の手のひらから放たれた衝撃波が、キアランの腹部に直撃した。
魔の者か……!
しかし、魔の者特有の気配、空気を震わすような圧倒する気配が、攻撃を放った今でも感じられない。
それとも今のは魔法……、だったのか……?
人間か魔の者か、キアランの金の瞳、そして目覚めた力を持ってしても見極められなかった。
ひらり、と少年は飛び下がり、窓枠に立つ。
「ははは! 遅いね! 気付くのも、動きも!」
「この……!」
少年の顔に、ぞっとするような奇妙な笑みが浮かぶ。
月の光を背にしながら、少年は低い声で呟いた。
「……まだまだ、これからだね」
「え……!?」
少年は窓枠を蹴り、宙を舞う。少年の柔らかな黒髪が、あっという間に見えなくなる――。
なんという素早い身のこなし……!
少年を追い、窓から身を乗り出すと、すぐ下の木の枝の上に、少年の姿があった。天風の剣を、小さな両肩の上に乗せるようにしながら笑っている。
「僕に、ちゃんとついてこれるかな……?」
「お前……!」
「キアランさん……!」
窓枠を飛び越えようとするキアランを、アマリアが止めた。
「ふふふ……!」
少年の笑い声がこだまする。
「僕はこの町にいるよ! 今晩でも、明日でもいい! 僕を探してごらん……!」
「貴様……!」
「おにいさん、一人で来てね!」
少年は、キアランに向かって大きく手を振る。
「必ず、一人で来てね! 約束だよ! この天風の剣を、返して欲しかったらね……!」
少年は月明かりの中、黒い木々の間を縫い、軽やかに駆けていく。そして、闇に溶け込むようにして姿を消した。
「アマリアさん! 私は、やつを追いかける!」
「私も行きます!」
アマリアも一緒に部屋を出ようとする。キアランは、アマリアの両肩を掴み、首を振った。
「アマリアさんは、ここで待っていてくれ……! やつも、一人で来い、そう言っていた」
「剣を盗んだ者の勝手な要求を、飲む必要はありません!」
毅然とした態度で、アマリアは言い切った。
「いや……。やはり待っていてくれ。なにかある、そんな気がする」
「キアランさん――」
なにかある、その言葉を聞き、アマリアの瞳はたちまち当惑の色を映し出す。
「……確かに、奇妙に感じた点は、いくつかあります」
「アマリアさん! アマリアさんは、なにか感じたのか……?」
アマリアは、戸惑いながらも、こくん、とうなずく。
「アステールが、あのとき、なぜか……」
天風の剣が、どうしたというのだろう、キアランはアマリアの言葉を一語一句聞き漏らさぬよう、しっかりと耳を傾ける。
「まったく抵抗や拒否の反応を示さなかったのです」
「え……?」
あまりに意外な言葉だった。どういうことなのだろう、キアランはアマリアの発言を心の中で反芻する。
「むしろ――」
「むしろ……?」
キアランはアマリアの答えを待つ。しかしアマリアは、自分が感じた印象をどう伝えたらいいか、言葉を探しているようだった。
キアランは、まっすぐアマリアの瞳を見つめ続ける。
「……いえ、なんでもありません」
アマリアは首を振り、いったん口に出そうとした言葉を飲み込む。アマリアにしては珍しい様子だった。
「あの少年の術で、アステールの心が縛られていたのかもしれません」
アマリアは、美しい眉根を寄せ、少し首を傾ける。
そう呟いてみたものの、アマリア自身も自分の言葉に納得していない、そんな様子に見えた。
アマリアは顔を上げ、他の気付いたことを打ち明けることにした。
「あの少年は、たぶん――」
アマリアは、そこで言葉を濁す。
「まさか、本当に人間の少年!?」
「いえ……」
「やはり、魔の者か!」
アマリアは、ゆっくりとうなずく。
「でも、あそこまで巧妙に魔の者の気配を消せるというのは――。そして消す必要があるというのは――」
アマリアは、慎重に言葉を選びながら続ける。
「なにか――。ただの魔の者ではない、なにか秘密がある、そんな気がするんです」
「秘密――」
キアランは、ぐっ、と己の拳を握りしめた。
アステール……!
キアランは、心の中で天風の剣の名を叫ぶ。
やつの秘密、たくらみがなんであれ、絶対に私はお前を取り戻す……!
「アマリアさん! 待っていてくれ……! 行ってくる……!」
キアランは、部屋を飛び出した。
夜風が頬を切る。
キアランは町を駆ける。自分の勘と、鋭敏な感覚だけが頼りだった。
アマリアのぬくもりが、まだ腕に残っている。
シルガーのこと、オニキスのこと、獣の群れのこと、そしてもちろん連れ去られたアステールのこと――。心にのしかかる様々な大きな不安。そんな中、心が、体が思い出すのはアマリアの笑顔、アマリアの体温、息遣いだった。
そんな場合じゃない……!
自分の心を自分で叱りつける何度目かの否定。しかし、アマリアとのわずかで貴重な時間が、キアランに力を与え続けているのは確かだった。
アステール……!
キアランは疲れた体を奮い立たせ、真っ暗な石畳をひた走る。
炎の剣は、すでにその手から離れている。現在のキアランに武器はなかった。
あの少年、あの魔の者の力はどれほどなのか――。
攻撃を受けた腹部の痛みは、どういうわけか大きなものではなかった。
少年の姿かたちのとおり、もしかしたら攻撃力はさほど高くないのかもしれない――。
いや、とキアランは首を振る。あの少年は、いとも簡単にキアランから天風の剣を奪った。魔の者に必ずある急所もキアランには見抜けなかった。
やはり、一筋縄ではいかない相手だ……!
店が連なる石畳を抜け、寝静まる家並みも通り過ぎる。橋を渡り、田畑が広がる道を抜ける。
本当に、この方角でよかったのだろうか。
キアランに、魔法の力はない。魔の者を感知する能力は鋭くなっているが、そもそもあの少年は魔の者の気配を消している。自分の心や足が命じるまま駆け抜けてきたが、それが本当に正しかったのか、なんの確証もなかった。
しかし、キアランは走り続けた。本能に、流れる血に、突き動かされて。
いや……! きっと、この道はアステールに続いている……!
熱い血潮が、リズムを刻む鼓動が、キアランにそうだと告げていた。
わきおこった不吉な黒い雲のように、生い茂った木々の風景がキアランの視界に入る。そちらのほうへ進むと、石造りの塀が見えてきた。
屋敷か――。
大きな屋敷の森だった。長く続く塀の、門の辺りに来て、キアランはあることに気付く。
荒れ果てている――。
凝った装飾のあしらわれた門は、斜めに傾いていた。傾きながらも無理やりかんぬきがかけられ閉ざされており、かろうじて門の役割は果たしていた。よく見ればつたもからまり放題、門の向こうに見える屋敷への道も雑草だらけ、この屋敷は主が不在になって久しいということが否応なしに伝わってくる。
「本当に、一人で来てくれたんだね」
キアランは、そびえ立つ門を見上げる。
門柱の上に立ち、黒髪の少年が笑っていた。