第76話 光にすがるように
キアランは、しばらく空を見上げ続けていた。
雲は形を変えながら流れていく。
金の瞳は、なにも感じ取ることができないでいた。
キアランは、低い声で呟く。
「……行こう」
「え!?」
再びフェリックスの手綱を握るキアランの姿に、アマリアは驚きを覚えたようだった。
キアランは、自分に言い聞かせるように話す。
「……あいつはきっと、大丈夫だ……!」
「キアランさん――」
心の中に、軽い抵抗があった。この場を離れていいのか、と。
キアランは、心の中の抗議の声を無視した。
「あいつが、死ぬわけがないんだ……!」
そうだ、あんなしぶとい男が死ぬわけがない、そうキアランは自分の心を説得する。
「急ごう……!」
足を止めることを、きっとあいつが喜ぶはずがない……!
そう思うキアランだったが、心がまた抵抗し始める。
シルガーを、オニキスを、探さなくていいのか?
しかし、今のキアランには進むことしかできなかった。
強い風が吹く。
キアランは唇を噛みしめ、フェリックスを走らせた。
すっかり日が傾いていた。
「町だ……!」
森を抜けると、町に出た。
「アマリアさん……。あの獣たちも、ここを通るだろうか……?」
キアランたちは、エリアール国への最短ルートを走っていた。と、いうことは、四聖を狙っているらしい魔の者や獣たちも、この町に出る可能性がある。
「人々に危険は――」
キアランがそう尋ねたとき、アマリアは、純白の魔法の杖についた金色の宝石の部分を、自らの額につけるようにしていた。集中し、魔の者たちの位置を探っているようだ。
アマリアが、顔を上げる。
「……彼らは、ルートを変えたようです」
「ルートを、変えた……?」
「ええ。きっと彼らは、人間が大勢いる町を面倒に思ったのか、森に続く山のほうへ進んでいるようです」
「そうか……!」
キアランは安堵していた。あんな群れが町になだれこんできたら――、想像するだけで恐ろしかった。たくさんの命が奪われ、力に蹂躙され、町は荒廃することだろう。
それから、魔の者たちの進路が回り道になることで、少しでもルーイたちのところへたどり着くまでの時間が長引けばいい、そうキアランは願っていた。
「無用な衝突で群れの数を減らしたくないという思いの他に、深い自然の中のほうが、走りやすいというのもあるのでしょう」
「ここに町があって、かえってよかったのか――!」
「それから、もしかしたら――」
「もしかしたら……?」
「自然の中を走ることで、さらに仲間を増やし続けていこうとしているのかも――」
「え……!?」
「先ほど上空から確認したときより、あきらかに群れが大きくなっているように感じます」
「森で暮らす獣たちを、味方にしながら進んでいるのか……!」
「ええ……!」
巨大化し続ける群れ。一刻も早くせん滅しなくては、そんな思いに駆られるキアランだったが、アマリアがそれを制した。
「私たちだけでは、あまりに無謀です。少なくとも、態勢を立て直さなければ――」
キアランもアマリアも、そしてフェリックスも疲れ切っていた。そして、今はシルガーもいない。
シルガー……!
シルガーの力をあてにしているわけではないが、そのとき改めてシルガーの存在の大きさを知る。
どうか、無事でいてくれ……!
『心配……? この私に心配か……! 笑わせてくれるな、キアラン!』
キアランは、あの日のシルガーの笑い声を思い出す。そして自分を納得させ、わきおこる不安を打ち消そうとした。
そうだ……! あいつに心配なんか、いらないんだ……! あいつは、いつだって大丈夫なんだから……!
石畳にフェリックスの蹄の音が響く。ここは宿場町のようで、馬を連れた旅人風の人と多くすれ違う。
キアランとアマリアは、その晩宿に泊まることにした。
キアランは、フードを目深にかぶった。金の右目を警戒され、宿泊を断られたら困る、そう考えた。
酒場の前を通る。まだ早い時間だったが、その店は人気があるようで、すでに賑わい始めていた。
店の扉を開ける男たちの笑い声を耳に残しながら、その先の角を曲がる。
なにか、小さな影。
ん……?
背後に、不自然な動きを感じた。
キアランは振り返る。人影はない。特別変わった気配も感じ取れない。
聞こえてくるのは、男たちの笑い声。若い女性の楽しそうな声も聞こえる。酒場の新しい客たちの声のようだ。
気のせいか――。
酒場のにぎわいから遠ざかる。
夕暮れの石畳には、キアランとアマリア、フェリックスの長い影、そして蹄の音が響くのみだった。
「ご夫婦ですね?」
宿屋の主人にそう声をかけられ、キアランとアマリアはたちまち頬を赤く染めた。
「い、いえ……! そういう――」
慌てて両手を振って否定しようとするキアランに対し、アマリアは姿勢を正し、はっきりとした声で、
「はい……! 夫婦二名と馬一頭、一晩の宿泊をお願いします!」
ええっ……!
なにかを決め込んだかのように――少し芝居がかって不自然ではあったが――そう述べた。
「そう言ってしまったほうが、きっとなにかとスムーズでしょうから」
アマリアは頬を真っ赤にしながら、上目遣いでキアランを見上げ、ちょっと申し訳なさそうに先ほどの「夫婦」という嘘をついたことを謝罪した。
「あ、ああ。そうだな――」
キアランはぎこちなくうなずく。同意しつつも、キアランの胸中は、悶々としていた。
同じ部屋で、よかったのだろうか――。
フェリックスを案内された厩舎に入れつつ、キアランの鼓動は早くなっていた。
違う、違う……! 同じ部屋にしたのは、あくまで、今後の行動や計画を話し合うため、そして互いの安全のためだ……!
余計なことを考えるな、キアランは自分の心にそう命じた。
「安く済んで、よかったですね……!」
はにかむアマリアの明るい笑顔。キアランは、同室の真意を知った。
幸か不幸か――、ベッドは二つだった。
キアランは、安堵するとともに、正直に言えば、落胆もしていた。
キアランはため息をつき、おかしなものだ、と自嘲する。
自然の中、皆と一緒に眠るときは、距離が近くともそれほど気にはならなかった。それが、人工物で区切られた空間の中では、はっきりとその距離を意識してしまう。
そんな場合ではないのに――。
シルガーのこと、そしてアステールのこと。不安な気持ち、悲しい気持ちがこんなにも大きいのに、今、キアランの心は目の前のアマリアのことで大きく揺れ動いている。
「シルガーさんのこと、集中して探ってみますね」
アマリアはキアランの胸中を知ってか知らずか、部屋の中央に立ち、魔法の杖を額につけるようにして精神統一し、遠隔から意識を飛ばしシルガーの行方を探る。
キアランは、ぼんやりとアマリアの様子を見ていた。
しんと静まり返った中、部屋に置かれた時計だけが時を刻む。アマリアのゆるやかに波打つ豊かな髪。伏せられた長いまつ毛。キアランの瞳は、美しい風景や絵画を眺めるように、それらを映し続ける。
ふう、とアマリアはため息をつく。
「やはり……。わかりません――」
キアランは、力が抜けたようにベッドの上に腰をおろしていた。
両手を組み、その上にうなだれる。
『キアラン! 戻らずそのまま行けっ!』
シルガーの叫び声が、耳に残っている。
シルガー……! お前は、今どこに……!
また、助けられた。あのときの自分では、オニキスにかなわないのは目に見えていた。シルガーが足止めしてくれたおかげで、自分たちはこうしていられる。
シルガー……!
キアランは心の中で叫ぶ。
『キアラン。私のために、泣いてくれたのだろう……?』
泣くもんか、キアランはそう思った。
泣くもんか……! だって、お前は生きているんだから……! 絶対に、泣いたりなんか、するもんか……!
体が重い。深くうなだれたまま、どこまでもベッドに沈み込んでいく、そんな気がした。
ふわり。
甘い香りと、柔らかな感触に包まれていた。
「アマリ――」
キアランは、アマリアに抱きしめられていた。
「大丈夫、大丈夫です……! きっと……!」
「アマリアさん……!」
キアランは、手を伸ばした。アマリアの長く柔らかな髪に、しなやかで華奢な背に。
どこまでも深い闇に落ちていきそうなベッドの中、光にすがるように。
ガタン。
キアランとアマリアは、物音に驚き我に返る。
「邪魔をしちゃったかな……?」
いつの間にか、窓が開いていた。風にカーテンが揺れている。
そして、部屋の窓辺には、笑みを浮かべる褐色の肌をした黒髪の少年の姿があった。




