第75話 白の空間
白い空間を走る。ここは、魔の者シルガーの作った空間である。
キアランの愛馬、フェリックスは、アマリアとキアランを乗せ、その特殊な純白の空間を走り続けた。
「アマリアッ!」
急に、前を行くシルガーが叫んだ。
「は、はいっ!」
突然シルガーに大声で名前を叫ばれたアマリアは、びくっと細い肩を震わせ、そしてすぐさま背筋を伸ばした。
「お前、落下に対応できるかっ?」
アマリアの上ずった声を気にも留めず、シルガーは早口でまくし立てた。
「え!?」
「もし突然地上に落ちることになっても、対応できるか!?」
「あ、は、はいっ」
突然地上に落ちる、ただならぬ言葉にキアラン同様アマリアも驚いたようだったが、すぐに冷静さを取り戻す。
なにか大きな危険が迫っている、キアランは、そう理解した。
ザワッ……!
キアランの全身の血が、ざわめきだす。独特な感覚に、キアランは今なにが近付いているのか、はっきりとわかった。
これは……! 四天王……!
それは、強い敵意をあらわにした、四天王の気配だった。
「シルガー! もしかして、この気配は……!」
キアランがそう叫んだときだった。
グッ……!
なにかを突き破るような、奇妙な音がした。
「なっ……!」
キアランは、絶句した。自分たちの右側に、小さな突起物のようなものが現れたのだ。
それは、両手の「指」だった。
先ほど空に突然「手」が現れたように、今度は「指」が出てきたのだ。両手の、親指以外の指が突き刺すように飛び出ていた。
「ああ。またあいつとのご対面だ――」
キアランの問いにシルガーが答えた。
バリバリバリ……!
「指」はみるみる白い空間を引き裂き、そこから頭らしきものが見えてきた――。
衝撃音が響き渡る。
シルガーが腕を上げ、光線のようなエネルギー攻撃を放っていた。光線は「頭」に見事命中していた。
「キアラン! お前たちは、私の空間が続く限り、そのまままっすぐ進め!」
シルガーは飛ぶのをやめ、フェリックスがシルガーを追い抜く形となる。フェリックスは、その際、ついスピードを緩めていた。
「フェリックス! 私の動きには構わず、主の指示通り、そのまま進め!」
フェリックスは足を止めそうになっていたが、シルガーは進み続けることを命じた。
空間の裂け目が広がり続ける。
シルガーの攻撃が直撃したにも関わらず、しだいに頭、体、足、そして、漆黒の四枚の翼が見えてきた。
キアランの金の瞳はとらえた。忘れもしない、その長い黒髪を、光る金の両目を――。
「オニキス――!」
キアランは、天風の剣を握りしめた。父と母の仇、キアランはフェリックスの手綱を引き、オニキスのほうへ駆け戻ろうとした。
「キアラン! 戻らずそのまま行けっ!」
「シルガー! 私は――」
「今はそのときではない! アマリアのことも考えろ!」
キアランは、ハッとした。頭に血が昇って、アマリアが前に乗っているということを失念していた。
「キアランさん! 私も戦えます! だから、私のことは大丈夫です!」
アマリアの言葉を、打ち消すようにシルガーが叫ぶ。
「人間であるお前らは、心身共にまだ戦える状態ではないはずだ!」
「でも、シルガーさ……」
「アマリアッ! お前は、落下のときのことに対してのみ集中せよ!」
シルガーが一喝した。キアランは、フェリックスの手綱をふたたび引き、進行方向を向かせた。
「! キアランさん」
「シルガーの言う通りだ……! 今、やつに戦いを挑むのは無謀だ……!」
パールとの戦いの疲れが色濃く残っているのは確かだった。しかし、それよりもなによりもキアランは、アマリアを前に乗せた状態で四天王相手に剣を振るう、そんな危険な行動をしたくなかったのだ。
ゆっくりとした低い声が、走り続けるキアランたちの耳にも届く。
「シルガー……。待たせてしまったかな……?」
「ああ。案外、遅かったんじゃないか? 四天王オニキス……!」
シルガーは笑っているようだった。
「お前の空間に私が侵入できた、それはつまり、お前より私のほうが、力が上、そういうことなのだが……?」
「……侵入した虫は、叩き潰せばいい」
一瞬の沈黙。そして、そのあと――。
ドンッ……!
「うっ……!」
衝撃音。そして激しい爆風。フェリックスごと飛ばされそうになる。
閃光に、目がくらむ。シルガーとオニキス、どちらがどちらの攻撃で、どのように戦っているのか、キアランにはわからない。ただ、先ほどのオニキスの一言が、キアランの胸に鋭く深く、恐ろしい鉤爪のようにひっかかっていた。
オニキスの言うように、シルガーの作った空間に侵入できたということは、力の差はやはり――。
キアランは、フェリックスの手綱を握りながら、ぎゅっと目を閉じた。
落ち着け……! 落ち着くんだ……! きっと、距離が離れつつあっても、姿をとらえなくても、感じ取った気配でできるはず……!
どくん、どくん……。
キアランは、自分の心音を感じた。
やれるはずだ……!
正確に、思った通りにできると、どうして信じられたかはわからない。でも、今までの戦い、経験の中から、きっとうまくやれる、そうキアランには思えたのだ。
掴んだ……! きっと、やつに一撃を与えられるはず……!
キアランは、体の中にしまっていた炎の剣を、勢いよく投げつけた。
炎の剣は刃の形を取り、回転しながら空を切り裂いていく――。
やったか……!?
キアランが振り返ろうとしたときだった。
「風よ、我らを包み、舞い降りる羽のように大地へと導かんことを……!」
アマリアの呪文が響き渡り、魔法の杖がまばゆい光を放つ。
次の瞬間。
あっ……!
いきなり、白い景色が途絶えた。フェリックスは、アマリアとキアランを乗せたまま、大空を落下し始めた。
森の中にいた。
ブルルッ!
フェリックスは、鼻を鳴らし、首を振った。少し首を傾げ、そして恐る恐るその場で足踏みする。
フェリックスは、大地の感触を確かめているようだった。いつも通りの土の感触、自分の足が思い通り踏みしめることができている、そう確認すると、フェリックスは安心したようにもう一度、ブルルッ、と鼻を鳴らした。
アマリアの魔法は、フェリックスごと地面に着地することに成功していた。
「アマリアさん……!」
キアランが声をかける。アマリアは、ふう、とため息をついてからキアランのほうを振り返った。
「なんとか、無事着地できました」
アマリアの透けるような肌は、より一層白く、少し遅れて微笑むその表情からも疲れが透けて見えた。
「大丈夫か……?」
「ええ――。正直、こんなことは初めてで、そんな魔法を作り出せるか不安でしたけど――。この魔法の杖のおかげで、なんとか――」
「シルガーは――」
キアランは、空を見上げた。神経を研ぎ澄ませてみたが、シルガーの気配も、オニキスの気配も感じられなかった。
シルガーは、無事だろうか……?
空に、答えを示すようなものはなにもなかった。
「……炎の剣を投げた。オニキスに向けて。たぶん、攻撃することができたと思うが――」
確認はできない。でも、研ぎ澄まされたキアランの感覚が、なにかしらの手ごたえを感じ取っていた。
キアランは、空を見上げ続ける。
空は青く、雲がところどころに浮かんでいる。
フェリックスの尾は、虫を追い払っていた。少なくとも、この場所は安全なようだった。小鳥のさえずり、虫の声、カエルの鳴き声が聞こえる。あの魔の気配も、獣の気配もここからは遠いようだった。
アマリアも、空を見つめていた。
「……戦いの気配が消えています」
「! やはり……! 私も、シルガーとオニキスの気配を感じられない……!」
不思議なくらい、静かだった。
キアランの手に、汗がにじむ。
どくん。
嫌な予感がする。キアランはそう思いつつ、思い切ってアマリアに尋ねた。
「アマリアさん……。私たちがあの空間から落ちた、ということは、どういうことなのだろう……」
黒い影が横切る。ただ鳥が上空を飛んで行っただけなのだろうが、ほんの少し森の気温が下がったような気がした。
「……おそらく……。シルガーさんが術を維持できなくなったということかと……」
「術を維持……?」
ぎゃあぎゃあ、静寂を切り裂くような声。鳥なのだろうか、猿の声なのだろうか。
さっと、目の前が暗くなったような気がした。
術を維持できない、それがなにを意味するのか、キアランの心は、理解すること、受け入れることを拒んだ。
ま、さか……。
アマリアの、次の言葉をキアランは待った。
きっと大丈夫、アマリアの唇は優しく微笑むに違いない、そうキアランは信じた。
アマリアは、キアランの期待する言葉を届けてくれるはず、キアランは待ち続ける。
アマリアの瞳は、かすかに揺れ、そしていくら待っても、その美しい唇は沈黙を保ったまま――。
シルガー……!
冷たい風が吹き、緑の葉が揺れていた。




