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天風の剣  作者: 吉岡果音
第七章 襲撃
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第73話 気まぐれな、でも確かなひととき

 ぺろん。


 頬に感じる、刺激。あたたかく、なにか湿ったような――。


「うわっ!」


 キアランは慌てて飛び起きる。

 人懐っこい、黒い大きな瞳がキアランの顔を覗いていた。


「フェリックス……!」


 キアランの愛馬、フェリックスだった。


 ぺろん。


 フェリックスは、目を覚ましたキアランの顔を改めて舐める。


「私を探しに来てくれたのか……!」


 フェリックスは、そうだ、とばかりに大きくうなずき、尻尾を高く上げながらその場で軽快に足踏みする。

 そしてフェリックスは、キアランの腰に差した天風の剣にも嬉しそうに頬を寄せ、挨拶をしていた。


「フェリックス……! ありがとう……!」


 フェリックスの瞳は、きらきらと輝いているが、その全身は泥だらけで、すっかり疲れてしまっているようだった。

 空に連れ去られたキアラン、しかもその後には深海に潜っている。どこに行ったかまったく見当もつかないキアランを、フェリックスは約二晩もの間どこをどう駆け回ったものか、探してくれていたのだ。キアランは、フェリックスの顔を抱きしめるようにした。


「キアラン! フェリックスじゃないか!」


 ライネの大声が耳に届く。


「まあ……! フェリックス……! よくここまで……!」


 アマリアも驚きの声を上げた。


「ライネ……! アマリアさん……!」


「フェリックス! 本当に、すごいな……!」


 ライネとアマリアも、フェリックスをいたわるように撫でた。


「キアラン。お前、大丈夫か?」


 ライネの深い緑色をした瞳が、キアランを心配そうに見つめていた。


「ああ。夜食を食って、たくさん寝た」


「そうか」


 キアランの返事を聞いて、ライネは安堵の表情を浮かべる。


「それから、夢の中で、アステールと会った――」


 鳥のさえずりが聞こえてきた。波音も、優しいリズムを刻んでいる。白い雲がいくつも浮かぶ空。日は少し高くなっており、思ったより、寝てしまったようだ。今日は一日、晴れかもしれないな、そうキアランはぼんやり思う。


「……アステールと、話せたのか」


「うん――」


 潮風が髪を揺らす。


「……よかったな」


「うん……」


 キアランは、うつむいた。波の音だけが耳に響く。ライネとアマリアが、あたたかな眼差しで包み込んでくれているのを感じた。


 どん。


 キアランの胸元を、フェリックスの鼻先が小突く。


「フェリック、……」


 フェリックスは、顔をキアランに押し付けたまま、離れようとしない。


「フェリックスも、心配してるんだな。お前のことを」


「ええ。フェリックスは、勘の鋭い優しい子です」


 ライネとアマリアの笑顔が、キアランを優しく包む。


「うん……。そうか……。フェリックス、お前もなにかわかるんだな――」


 ライネとアマリアは、キアランとフェリックスを見つめながら、黙って微笑む。

 波音が、緩やかな時間を紡いでいた。


「キアラン! 起きましたか! キアランもさあ、朝ご飯を食べてくださいー!」


 明るくちょっとのんびりした調子の声。カナフだった。


「ふふ。朝ごはんの調理は私が担当してみました」


「調理って、ほぼ焼くか煮るかしただけだろう」


 シルガーが少し呆れたように呟く。朝の食材調達も、シルガーが一手に請け負っていたようだ。 


「そうそう。キアラン。俺たちはそろそろキアランを起こそうかと思ってたんだ」


 ライネの話しぶりだと、皆はもう朝食を済ませたらしい。キアランの心身を気遣い、もっと寝かせておくべきかどうか、様子を見ていたようだ。


「あ。馬! それは――!」


 カナフがフェリックスの存在に気付き、驚く。


「それは私がとってきたものじゃないぞ。カナフ、調理するなよ」


 キアランの乗っていた馬とわかっていながら、涼しい顔でシルガーが呟く。


「シルガー! フェリックスは食材じゃない!」


 笑顔が広がる。当のフェリックスは、自分の身が冗談の材料にされていることに気付かず、きょとんとしていたけれど。

 人。魔の者。高次の存在。天風の剣、それから動物も。異なる種族、異なる存在の者たちが、青空の下笑顔で繋がっていた。

 それは、気まぐれなほんのひとときに過ぎないのかもしれない。


 それでも、いい――。わずかな瞬間でも、夢じゃない、これは確かに私が経験している現実――。


 四天王ゴールデンベリルが望んだであろう、豊かな調和の時間がそこにあった。


 アステール……。


 キアランは、天風の剣に目を落とす。

 アステールが、微笑んでうなずいてくれているような気がした。

 たき火の煙が天へと昇る。踊るように、様々な形を作りながら――。




 ドガガガッ……!


 フェリックスは、アマリアとキアランを乗せ、緑の中を駆け抜ける。

 ライネは、カナフに抱えられ、空を移動していた。

 魔導師オリヴィアの守りの魔法は、魔の者に対してのもので、高次の存在であるカナフは、遠くからでも皆を見つけられるはずだ。おそらく、カナフとライネのほうが先に皆と合流できるだろう。

 シルガーは、というと――。

 キアランにはよくわからなかった。

 空を移動しているのかもしれないし、「自分で作った空間」とやらを移動しているのかもしれない。


「じゃあ、行くか」


 出発の際、そう呟いたのみでシルガーはその姿を消した。

 キアランは、アマリアを前に乗せ、抱えるようにして手綱を握る。

 

 アマリアさん――。


 なるべく意識しないようにしていたが、キアランの鼓動はどうしても早くなる。

 甘い香り。あたたかなぬくもり。進むことに集中しようとすればするほど、アマリアのことが気にかかる。

 なにをどう話していいかもわからなかった。


「じゃあ、行こう」


 出発の際、キアランはそれだけ言うのに精一杯、先にアマリアをフェリックスに乗せ、自分がその後ろに黙って乗った。

 キアランは、深海でのできごと――あの口づけ――、それから、昨晩岸辺を目指して二人で浅瀬を歩いたときのことを思い返していた。

 

『誰かと共に歩けたら、どんなに素敵だろうか』


 以前心に浮かんだ言葉。一歩一歩励まし合いながら歩く昨晩の自分たちは、まさにその理想を絵に描いたような姿だったのでは――。


「……フェリックスは――」


「え!?」


 突然アマリアに話しかけられ、キアランはどぎまぎした。


「フェリックスは、皆のところへ行くのに、最短の道を選んでいるのかもしれません。おおよその方角から、それがわかるのかも――」


「そうなのか……! すごいな! フェリックス……!」


 キアランは、フェリックスが自分の来た道をただ戻っているだけかと思っていた。どうも違うらしい。

 アマリアの持つ魔法の杖が光っていた。アマリアも、移動し続けているであろう皆のいる方角がわかっているようだった。


「エリアール国へ入る前に、皆に追いつくことができるかもしれませんね」


「そうか……!」


 キアランの心に、強い喜びが湧き起こっていた。


 ルーイに、皆の笑顔にまた会える……!


 腕の中には、アマリアがいた。天風の剣も、共にある。そして、フェリックスも――。

 

 いつの間にか、私はこんなにもたくさんの大切なものに囲まれている――。


 キアランの胸に熱いものがこみ上がる。

 手綱を持つ手にも力がこもる。

 キアランの思いに応えるように、フェリックスの速度は増していく。

 小川を飛び越え、坂を駆け上がり、藪の中を疾走する。


「フェリックス! ありがとう! でも、あまり無茶は……」


 速度を落とすことなく走り続けるフェリックスを、キアランが気遣ったときだった。


「これは……!」


 アマリアが叫ぶ。

 アマリアの魔法の杖に灯る光が、不気味な色を発していた。


「魔の者……! それからたくさんの……!」


「なに……!?」


 たくさんの、なんだというのだろう。たくさんの魔の者か、そうキアランは聞き返そうとした。


「これは……、動物の気配……!?」


「動物……!?」


「ええ……! でも、魔の気配がとても強い……!」


 ぴりぴりと、肌を刺激するような感覚。

 黒い森。先ほどまで緑の香りあふれ木漏れ日に踊る森が、いつの間にかよそよそしくその姿を変える。


 四天王とは違う……! しかし、これは……!


 キアランの全身も、今までとは違う異様な空気を感じ取っていた。

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