第59話 意義や役割を超えるもの
限りなく空に近い流麗な山があった。
高山に咲く可憐な野の花に囲まれ、その身を隠すようにひっそりと佇む屋敷。
屋敷の周囲一面には、淡い虹色の結界が張られていた。
「カナフ……!」
「ヴァロさん……!」
「どうやってここまで……!」
突然部屋の中に入ってきたヴァロの姿に、カナフは驚く。
そのうえヴァロの背後には、カナフの監視をしたり世話をしたりする役割の高次の存在たちまで、皆笑顔でいるではないか。
「実は、私はこの屋敷の管理責任を任された者とは、昔からちょっと深い縁がありましてね――」
ヴァロの言葉に、一番先頭にいる白い髪の高次の存在がうなずきながら微笑む。彼が管理責任を任された者らしい。
「それだけではございませんよ。私たちはカナフ様のお人柄をよく存じ上げておりますものですからね。なんとかして差し上げたいと常々感じていたのでございます」
この屋敷は以前カナフが幽閉されていたときの建物であり、ヴァロと親しい間柄らしい白い髪の高次の存在は、そのときもカナフの面倒を見ていたのだった。
「でも……、結界が……!」
いくらヴァロとゆかりのある者がヴァロを通したとしても、張り巡らされた結界を自由に行き来することはできないはずだった。
「あの混乱で、結界が緩んでいました」
「あの混乱……!」
あの地より遠く離れ、結界に囲まれていたカナフにもその異変は感じられていた。
「そのうえ、こんな収穫も……!」
ヴァロが差し出した品を見て、カナフの顔いっぱいに驚きと喜びが広がる。
「天風の剣……!」
ヴァロの手に握られていたのは、天風の剣だった。
「ええ……! 警備が手薄になっていました」
そう言って微笑むと、ヴァロはカナフに天風の剣を手渡した。
「ありがとう……! ヴァロさん……! 本当に……!」
「礼を言うのはまだ早いですよ! さあ、カナフ、ここから出ましょう……! 混乱している今がチャンスです……!」
「はい……!」
「カナフさん、ヴァロ、どうか気を付けて……!」
カナフは、今まで自分の面倒を見ていてくれた屋敷に常駐する高次の存在たちへ向かい、深々と頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました……!」
ヴァロに促され、ヴァロと共にカナフは大急ぎで屋敷を出る。
虹色の結界は、ところどころ薄くなっていた。弱まっている結界を狙い、縫うように道を進む。
結界の向こう側、揺れる野の花の先に影が見えた。
「どこに行くのです……!」
「あっ……!」
カナフとヴァロの前に、黒い髪の高次の存在が立ちはだかる。
「このような非常事態に、これ以上の混乱をもたらそうとは……!」
黒い髪の高次の存在の言葉に、ヴァロが反論した。
「非常時だから、ここを出るのです……! 私たちでは、あの四天王に対しどうすることもできない……! 空の窓以前に、世界の危機なのです……! あの者を倒すには、人間や魔の者たちの力を借りるしか……!」
「魔の者……? まさか、魔の者が協力してくれるとでも……!?」
黒い髪の高次の存在がそう叫んだそのとき、上空に白い影が現れた。
「あれは……!」
光る、白い影。それは、鳥でも魔の者でもなかった。
カナフ、ヴァロ、黒い髪の高次の存在の前に、それは優雅に降り立った。
その者の背には、輝くばかりの四枚の――、純白の翼が生えていた。
「あなたは……!」
高次の存在の中でも特別な存在、アマリアたちの一族と交流を続ける「翼を持つ一族」だった。
それは、夜空のような神秘的な深い青紫の髪と瞳を持つ端正な面差しの男性だった。高次の存在たちは皆中性的で美しい外見をしているが、この四枚の翼の高次の存在は、人間でいうと年齢は四十代くらい、男らしく骨太な体躯の渋みのある美丈夫だった。
「先ほどの恐ろしい異変――、皆さんにも感じられましたね……?」
低く深みのある声で、四枚の翼を有する高次の存在が尋ねる。
「はい……!」
同時に返答するカナフたちに、四枚の翼の高次の存在は微笑みながらうなずく。
「天風の剣――。久々にその波動を感じ、私だけ真っ先にこちらに立ち寄らせていただきました」
「私だけ……?」
「ええ。他の者は、天宮殿へ向かいました」
天宮殿とは、「翼を持つ一族」以外の、高次の存在の代表が集う場所である。高次の存在たちに階級や組織等の制度はないが、皆の意見を取りまとめるための代表的な集団が存在していた。
「私の名は、シリウスです。あなたが……、カナフさんですよね?」
天風の剣を目に留めてから、シリウスがカナフに尋ねた。
「は、はい……!」
「四天王の子のキアランについて、それから天風の剣については、今でも我々の中でも意見が分かれております」
カナフはシリウスの言葉を聞き、天風の剣を思わずぎゅっと握りしめた。
シリウスが、天風の剣、さらにはキアランについて否定的な考えなのか、それとも肯定的な考えを持つのか。もしかしたら、せっかくヴァロが持ち出してきてくれた天風の剣を、渡すように要求されてしまうのではないか――。カナフはシリウスの深遠な青紫の瞳を見つめる。
「――そして、今回の件の対応についても意見はまとまっておりません。しかしながら、私見を申せば――」
シリウスは、まっすぐカナフの瞳を見つめ返し、そして――、
「人の力、そして魔の者の力が今こそ必要、そう確信しております」
微笑んだ。
「アンバーさん……! どうか、あなたのお力を貸してください……!」
キアランは、アンバーに向かって頭を下げていた。
「オニキスを倒すために力を貸せ、ということですか?」
少し首を傾け、アンバーが尋ねた。
「違います! あの高次の存在を吸収したという四天王を倒すことに、です!」
キアランは迷いなく叫んでいた。
「あなたの父の仇の話に、心を激しく動かされたのかと思いましたが……?」
「それとこれとは別です……! それより、今は……!」
「今は……?」
「あの四天王を倒すことが先です」
「ほう……?」
アンバーは、少し不思議そうな顔をした。
「……あなたは、四聖でもなければ四天王でもない。そして、命を奪われた高次の存在と同族でもない。そして――、人間でもない」
アンバーの静かな声が、洞窟内に響いていた。海水が、キアランの足首のあたりまで来ている。
「そ、それがどうした……!」
アンバーはキアランを見据える。赤い炎のような瞳で。
「あなたは、先ほど『存在意義』、そして『役割』、そう私に問いかけました。逆に尋ねますが――」
体が、冷えてきた。洞窟内に侵入してきた海水のように、キアランの心にアンバーの言葉がゆっくりと確実に、力を持って押し寄せてくる――。
「あなたの存在意義とはなんでしょう……?」
赤い瞳に、射すくめられていた。
「キアランさん。あなたは、どうして私にそんなことをおっしゃったのでしょう……? どこにも属さないあなたが、いったい、なんのために……?」
キアランはなにかを言おうとした。しかし、言葉が出てこなかった。冷たい海。ここは、あたたかな光が届かない。波音、波音が心の中まで侵食する――。
私は――、どこにも属さない――。
キアランの心の奥深くに、投げ込まれたいかりのように言葉が沈んでいく――。
「意義なんて、役割なんて、いらないよねえ!」
突然、シトリンの朗らかな声が耳に届く。
「生まれたから、生きてるんだよ! それで、生きてるから、考えるし動くんだよ! 気持ちも、体も! それでいいんじゃないのー?」
ばしゃっ!
シトリンは勢いよく飛び上がり、盛大な水しぶきを上げた。
「キアランおにーちゃんは、私と一緒で、自分の大切なものを守りたいんだよねえ! 気持ちがあれば、理由なんていらないよねえ!」
水しぶきは、きらきらと輝いていた。光の届かない洞窟、それは思い込みでしかなく、差し込むわずかな光は、海水も、すぐ傍に控えている白銀と黒羽も、シトリンも、アンバーも、キアランも、皆すべて平等に照らしていた。
「白銀と、黒羽は――」
アンバーは、シトリンを見つめながら呟く。
「私の従者です。ですから、彼らは私に忠実に仕えているのです。役割とは、そういうものです」
シトリンは、うーん、と腕を伸ばし、その場を元気よく一周する。
それから、スカートをひるがえし、笑った。
「それだけじゃないと思うよ?」
「ほう……?」
「気持ちだもん、ねーっ!」
シトリンは白銀と黒羽に明るい笑顔を向ける。
「気持ち、ですか――」
アンバーは、少し戸惑うような表情を見せた。
「白銀さん、黒羽さん、でしょーっ?」
首をかしげ、同意を求めるシトリン。
アンバーは、白銀と黒羽のほうを見ない。指を組んだまま、黙ってしまった。まるで、白銀と黒羽の答えを恐れているかのような――。
今まで闇の中ひっそりと隠れるようにして身動きもしなかった黒羽が、ゆっくりと口を開いた。
「私は――、アンバー様を心から尊敬しております」
黒羽は、そう言葉を発してから、かすかに首を左右に振った。
「いえ――。アンバー様に仕えることを――、光栄に思い――」
そこまで言ってから、黒羽は口ごもる。
黒羽は、言葉を探しているようだった。自分の気持ちを、的確に表現する言葉を――。
「つまり、大好きなんでしょーっ!」
シトリンが黒羽の言葉を待ちきれず、大声を出す。
黒羽は慌てた様子で、
「そ、そんな、大それた……! わ、私ごときが、アンバー様に対し、そのような……!」
大急ぎで訂正しようとした。
黒羽の隣に立つ白銀は、微動だにしない。しかし、なにかを伝えようと口を動かした――。
「……わしは、アンバー様を心から好いておる」
今までずっと黙っていた白銀が、真顔で言い切っていた。
「ほらねー! 意義とか役割とか、気持ちはそれを超えるんだよー!」
楽しそうに笑うシトリン。黒羽の頬が、たちまち赤く染まる。白銀が、皺だらけの顔をますます皺だらけにし、初めての笑顔を見せていた。
気持ち……。気持ち、か――。
キアランの顔にも、いつの間にかあたたかな笑みが広がる。
そして、アンバーは――。
「まったく……。本当に困ったお嬢ちゃんですね……。私の従者になにを言わせるのです――」
左手で顔を覆い、赤くなる頬を隠していた。




