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天風の剣  作者: 吉岡果音
第六章 渦巻きの旋律
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第54話 深い海の底から

 一つの泡が生まれる。

 そこは、日の光も届かない深い海の底だった。

 泡は海面へと向かうが、それはあまりにも遠い道のりだった。

 呼吸だった。肺の役割をする器官から吐き出された空気が、泡となり外界へと旅立つ。

 生きものの活動の証。なにかが、目覚めた兆し。

 泡を生み出した主は、瞳を開けた。

 けだるそうに、ゆっくりと上体を起こす。


 騒がしくなってきた――。そうか。もうすぐ、空の祭りが始まる――。


 その生きものは、本能で悟る。そして、異常に発達した五感で、外界、海の外の世界の動きを察知する。


 騒がしいのは四天王。四聖(よんせい)。そして――、高次の存在とやら、か。


 他にもなにか活動のエネルギーを感じる。


 人間たち……? そして――?


 生きものは、首をかしげた。

 

 人間であって、人間でないもの……?


 まあ、どうでもいい、と思った。分析する興味はなかった。

 ずっと眠り続けてきた。眠りながら、自分の周囲に集まっていた従者たちを手当たり次第にむさぼり食い、海の底で静かに成長を続けてきた。

 その生きものにとって、従者とは自らの血肉となる食料に過ぎなかった。自分だけが生き延びれば、それでよかった。もう、その食料も潰えて久しい。

 食料が身近に豊富にあったため、起きて活動をする必要がなかった。

 自分の夢の中だけで生きていられれば、それでよかった。

 自分の他にはなにもいらない。できることなら、美しい夢の中だけで永遠に生きていたかった。


 そろそろ、ここを出るか。


 それは巨大に成長していた。長い尾をくねらせ、浮上する。


 ゴゴゴゴゴ……。


 長い尾を持つ、クジラのような姿。しかし、胸ひれや尾びれではなく、しっかりとたくましい足が四本ついている。全身を覆う灰色の肌は七色に明滅しており、まるで巨大な建造物のような様相を呈していた。

 そして、その背には――、四枚の漆黒の翼。

 四天王だった。

  

 おや。あれは――。


 四天王は、素早く海を移動する。


 ガアアアア……!


 海の中にいる、魔の者を見つけた。威嚇し、牙をむく凶暴な魔の者。全身鱗におおわれ、大きな背びれのある半魚人のような姿をしていた。


 ガッ……!


 四天王は、頭からそれを丸飲みにした。

 四天王の肌の明滅が、激しくなる。半魚人のような魔の者が抵抗しているようだ。

 四天王は目を細めた。抵抗すら、至極の料理といった様子で、ゆっくりと味わっているようだった。

 やがて、静かになった。

 四天王は久しぶりの食事にため息をもらす。


 もっと、たくさん、食べるものが、欲しい。


 遠い外の世界の喧噪に、四天王は耳を傾けた。

 異質な強いエネルギーのぶつかり合いは、とても魅力的に思えた。


 人間とやら、そして、その中の特殊な存在、四聖(よんせい)とはどんな味なのだろう……?


 四天王は、陸地を目指し浮上し始めた。


 同じ四天王は、どうだろう……? そして、高次の存在は……?


 様々なエネルギーを食べることを想像し、四天王は心を踊らせた。高次の存在とのぶつかり合いをタブーとしている魔の者の世界にある中、この四天王にとってはその禁忌すらどうでもよかった。

 世界が滅んでも、自分が滅んでも、構わないと思った。

 一瞬が永遠であり、その一瞬が自分にとって至福のものであれば、未来がなくなってもよいとすら考えていた。


 血肉や骨だけでなく、心も、感情も、すべて食い尽くしたい……!


 食べた血肉や骨は、体を作る。心は、その生きもの――四天王――の体の中で、美しい夢となって生まれ変わる。


 すべてのしたたる血肉を、苦痛に満ち、やがて絶望へと変わっていく心を、食べたい……!


 海面を割り、顔を出す。

 それと同時に、美しい青年の姿になっていた。漆黒の四枚の翼も、巨大な魔のエネルギーも、巧妙に隠した。

 憂いを帯びた青の瞳に、黄金に輝く長い髪。

 本能で知っていた人間の姿は、魔の力の大きさやその性質を悟られないようにするために、都合がよかった。

 青年の姿をとった四天王は、長くしなやかな自分の指を見つめる。


「そういえば、僕には名前がないな」


 遠くに見えるのは船。人間のエネルギーをいくつか感じられるので、それが人間の乗り物であると容易に察しが付く。


「僕の名は――」


 瞳に映る、小さな白い帆。そういえば、白く輝くものを、以前海の底で見つけたことがある。


「パール……」


 美しい響きの名前。人間の意識と触れ合ったことはないが、それが自分たちの意識と人間の意識の間で、共通した名前の音に思えた。


「僕の名は、パールだ」


 唇に乗せた美しいリズムに、四天王は満足そうに微笑んだ。

 船が、引き寄せられるように近付いて来る――。




「キアラン。それをよく見せてみろ」


 蒼井が、キアランに声をかける。


「炎の剣――、のことか……?」


「ああ。今、腰に差している剣だ」


 翠も、興味深そうに見ている。


「炎の剣が、いったい、どうした――」


「それは、あの男が作ったものだろう」


 あの男、とはシルガーを指していた。

 キアランは蒼井や(みどり)に、炎の剣を見せることにためらいがあった。

 シルガーにもらった特殊な剣、というだけでなく、単純に自分の分身とも感じている武器を容易に見せたり手渡したりしたくなかったのである。


「見せてー」


「あっ!」


 キアランの躊躇も虚しく、いつの間にかすぐ横に来たシトリンが、さっと腰の剣を引き抜いて持って行ってしまった。


「こ、こら! なにをする――!」


「ふうん。すごいねえ。なるほどねえ。作ったんだねえ」


 炎の剣を手にしたシトリン――小さな体には、あまりにも不釣り合いなぶっそうな武器――の周りを囲むように、蒼井と(みどり)が顔を近付ける。


「こういうの、あったらいいのかもねえ」


 炎の剣をかかげつつ、シトリンが呟く。


「危ないから、返しなさいっ!」


 シトリンが四天王であることを一瞬忘れ、キアランは叫んでいた。


 違う……! 危ないのはシトリンではなく、むしろ私とニイロのほう……!


 シトリンが誤って自らを傷つけるより、キアランたちが炎の剣に傷つけられる確率のほうが格段に高い、とキアランは思った。


「こういうの、作ろうか?」


 シトリンが、にっこりと微笑んでいた。


「え」


 びゅん!


 シトリンが、炎の剣を大きく振りかざした。


「こ、こら! 危ないから――」


 今度は、ニイロが思わず注意していた。

 キアランとニイロの慌てぶりを知ってか知らずか、シトリンは炎の剣を高く掲げ、その刃先の輝きを見つめる。


「こういうのがあったら、人間たちも少しは戦えるんじゃない?」


「え」


 キアランとニイロは顔を見合わせた。


「私もそう思ったのだ」


 蒼井がシトリンの言葉を継ぐ。


「こういった武器があれば、あの者どもの力をさらに伸ばせるのではないか?」


「え……?」


 シュッ……!


 真一文字に、空を切るように腕を振る蒼井。

 その手の先には――、青い色の長い棒が握られていた。


 シュッ……!

 

 腕を振り下ろす(みどり)。その手には、緑の長い棒がある。


「蒼井!? (みどり)!?」


「強力な、魔力を増幅する杖となるだろう」


 微笑みをたたえる蒼井。


「お前たちが……! 作った魔法の杖……、か!?」


「うむ。その剣を見て、作りかたがわかった。一本ずつしか作れんが、あの中の魔法を操る者二名に渡せ」


 (みどり)の口元にも、穏やかな笑みが浮かぶ。


「蒼井……! (みどり)……!」


 キアランは、驚きのあまりそれ以上言葉が出てこなかった。

 恐ろしい敵であった蒼井と(みどり)。シルガーも、もちろんそうだった。

 彼らが、自分たちに手を差し伸べてくれる……! キアランは、思わず自分の胸に手を当てていた。


 胸が……、熱い……!


 蒼井と(みどり)の姿が、にじんで見えた。


「ありがとう……! 蒼井……! (みどり)……!」


 蒼井と(みどり)は、なんてことはない、といった様子でただ小さくうなずいた。


 シトリンは、キアランの手に炎の剣を返す。

 それから、突然しゃがみこんだ。


「んーっ」


 シトリンの顔が、真っ赤になっている。


「ど、どうした!? シトリン!?」


 シトリンの様子に、思わずニイロが声をかける。


「えいっ!」


 しゃがみこんだ姿勢から、いきなり両手を上げ、勢いよく弾けるように飛び上がるシトリン。その両手にはそれぞれ、金とオレンジ、二つの色に彩られた長い棒が握られていた。


「えっ! ええっ!?」


 驚くキアランとニイロの顔を見て、得意げにシトリンは言い放つ。


「私は二つ、作っちゃったもんね! どう? すごいでしょー! これ、魔法の杖にも剣にもなれるよ!」


 シトリンは、輝く笑顔を振りまく。


「ありがとう……! シトリン……!」


「四天王だもんー。蒼井と(みどり)の倍は頑張らないとねー」


 シトリンは、ふふふ、と笑ってウインクした。


「シトリン……。皆のもとへ、戻ってくれるのか……!」


「うん! だって、四聖(よんせい)のみんなと、おともだちでいたいから!」


「ありがとう……! 本当に……!」


「ニイロおじちゃんも、ちゃんと運んであげるから、安心して!」


「シトリン……!」


 キアランは、胸いっぱいに新鮮な空気を吸い込んだ。


「ありがとう……!」


 それから、キアランは、シトリンの目の高さに体をかがめた。

 小さな女の子の姿をしているが、相手はやはり四天王――。言おうか言うまいか、キアランは一瞬迷ったが、今思いついた言葉を言ってみることにした。

 爽やかな風が、キアランの背を優しく押す。

 感謝の言葉は尽きない。

 でも、あまたの感謝の表現より、他愛もない、取り立てて必要もない言葉の積み重ねが、互いの信頼と喜びに繋がるのではないか、そうキアランは思う。


「……私とも、おともだちでいたい、そう思ってくれるか……?」


 友だちでいたいと表現すること。きっと、それが幼い心の中に明るく楽しいエネルギーをもたらすのではないか、そうキアランは思った。


「もちろんだよ! キアランおにいちゃん!」


 思った通り、シトリンの頬に生き生きとした薔薇色が広がる。


 おにいちゃん……!


 意外だったのは、キアランの心にも喜びのエネルギーが広がったことだった。

 

 また、おにいちゃん、って……!


「もうー! 焼きもちやきだなー! キアランおにいちゃんは! ほんとは、シトリンの愛、独り占めしたいって思ってるんでしょー?」


 シトリンは、思いっきりキアランを突き飛ばしていた。


 あ。


 キアランは、楓の木に激突していた。


「あ。ごめーん。力の加減、忘れてたー」


 おにいちゃん……、か。


 やっぱりいいな、と思う。

 キアランは、青空を見上げつつ一人笑みを浮かべた。

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