第29話 灰色の翼
「なんだ……。お前……」
四天王の従者の一人、翠がシルガーを見つめ、呟く。
うつぶせに倒れているキアランの髪を掴んでいたシルガーは、手を放した。
「うっ……」
急に手を放され、キアランは地面にあごを打ち付けていた。
「名前を訊くのなら、まずそちらから名乗ったらどうだ?」
シルガーが、ゆっくりとした口調で問う。
異様な光景だった。ダメージを受け地面に倒れ、立ち上がろうともがく人間たちと、睨みあう魔の者たち。
魔の者たちは、表情を変えずに互いの様子を探り合っているようだった。それぞれ、相手に本来の力を悟られぬよう、自身からあふれ出るエネルギーを制しているようだ。張り詰めた空気が漂う。
「魔の者めっ……!」
ひとときの静寂を破る、たくさんの蹄の音と怒声。
大修道院の石垣の向こうから、馬に騎乗した僧兵たちが現れた。
「さ、三体も……!」
僧兵たちは思わず絶句し、凍り付いたように立ち止まる。魔の者の活動の気配を察して駆け付けたのだが、目の前にして初めて、相手が通常の魔の者でないこと、そして三体という尋常ではない数を知ったのだ。
「ほう。よかったな。キアラン」
シルガーは、足元のキアランに言葉を投げる。
「…………?」
キアランは、シルガーの言葉の意図がわからないでいた。
「これで、お前の仲間も一応大丈夫だろう。迷うことはない」
「なにを……、言っている……?」
どくん。どくん。
キアランの鼓動は一定のリズムを刻む。体中を、新鮮な血が巡る。
シルガーは、倒れたままのキアランを見下ろす。
「キアラン。そろそろ、人間時代の癖はやめたらどうだ」
「人間時代の癖!?」
シルガーは片頬で笑い、そしてキアランに手を差し伸べた。
「手を貸そうか? 姫君」
「誰が姫だっ……!」
キアランはシルガーの手を振り払い、勢いよく立ち上がった。
「ほら、ちゃんともう立てるじゃないか」
「あ」
全身の痛みが、消えていた。ごく短時間で、全身の各組織の損傷がすっかり回復していた。
翠と蒼井は、怪訝そうにシルガーとキアランのやり取りを見ている。
「蒼井。あいつらは――」
翠がシルガーに視線を留めたまま、蒼井に尋ねる。
「魔の者と、魔の者と人間との混血のようだ」
「混血……。なるほど」
翠がうなずく。
「どちらもその力は未知数」
「興味深いな」
翠が、ニッと笑った。
「……翠も、そう思うか」
それにしても、と蒼井が続ける。
「……混血のほう……、もしかしたら、あれがあの話の赤子――」
「生きていたのか。四天王と人間の娘の間に生まれたという赤子が――」
蒼井と翠の言葉に、キアランは思わず力を込めて自分の拳を握りしめていた。
「貴様ら……!」
キアランが叫びそうになるのを、シルガーが制していた。
それから、シルガーはため息をつく。
「やれやれ、我々は値踏みされてるぞ、キアラン」
「シルガー! あの四天王は……」
シルガーは、にやり、と笑った。キアランのその言葉を待っていたようだった。
シルガーは、翠と蒼井をまっすぐ見つめた。そして、声を張り上げた。
「さて! 私は四天王を追うことにするか!」
ビシッ!
音を立て、空気が激しく震えた。それは、怒りのようだった。翠と蒼井の髪が空気をはらんで揺れている。内側に抑えていた魔の力が、強く脈動しているようだ。
「なんだ……、貴様……」
翠が、怒りを押し殺したような声で呟く。
「ふふふ。 キアラン! どうせ、お前も一緒に来るんだろう? 私とお前の力があれば、幼子の四天王など実にたやすいものだ……!」
シルガーが叫んだ瞬間。
強烈な青の光、緑の光が迫りくる。蒼井と翠が同時に放った攻撃のようだった。
まずい……! 避けきれ――。
しかし、二体から放たれた攻撃は、一瞬キアランの目に映っただけだった。
痛みも、衝撃も……、ない……?
不思議なことに、体のどこにも異変はなかった。
「いったい……!?」
なにが起こったのかわからなかった。
攻撃を放ったはずの従者たちの姿が、なくなっていた。そして、皆の姿も。
姿どころか、今まで見えていた風景自体もなくなっている。
キアランは、なぜか白い空間に漂っていた。なにもない、ただ白の空間。キアランが横を見ると、隣には、シルガーだけがいた。
「ここはどこだ、そう訊きたいのだろう」
そうだ、とキアランは気付く。ここは、まったくなんの気配も感じられない。目に入るのは、隣に立つシルガーだけ――。しかも、キアランもシルガーも、空中に浮かんでいるようだった。自分がシルガーに尋ねるべき質問は、ここがどこか、ということだった。
「ここは、もしかして――」
「そう。私の作った空間だ」
キアランは理解した。翠と蒼井の攻撃が届く前に、シルガーは自分を連れて自らの作った空間に逃げ込んだ、だから無事だったのだ、と。
「皆は!?」
「知らん」
「知らん!?」
シルガーは、キアランのほうを見ず、右下の方に視線を動かしていた。
「ほう。二体とも動いたな。私とお前の力を高く買ってくれたようだ」
「なに!? どういうことだっ? シルガー!」
「追うぞ。キアラン」
シルガーは、自在に白の空間を飛んだ。
「シルガー! 追うって……」
「……連中に見つからないよう、厳重にガードしてあるから、今お前には見えないだろうが、私には翠と蒼井の動きが見えている。やつらの後を追えば、自然とその主にたどり着くというわけだ」
「なにを言って……」
白の空間内をシルガーが飛び立ち、キアランは一人残される。シルガーが、キアランに向かって叫ぶ。
「お前も飛べ!」
「無茶を言うな! どうやって……」
「想念だ! ここはお前の知る現実の世界ではない! 思いの力で飛べるはずだ!」
思いの力……!?
「あの四聖の坊やを助けたいんだろう!」
キアランは、ハッとし、集中した。自分にできるかどうかわからない。しかし、ルーイの笑顔を思い出し、なにがなんでもやらなければならない、その一心で自分が飛ぶことを強く念じた。思いは、強く、深く――。
バサッ……!
キアランの背から、翼が現われた。それは、漆黒の四枚の翼ではなく――、灰色の、一対の翼だった。
「シルガー!」
キアランは、灰色の翼で飛び立つ、シルガーを追って。
「……大げさなやつだな」
シルガーは、あきれたとも感心したともどちらとも取れる言いかたで、感想を述べた。
「思念で飛べるのだから、翼などという象徴はいらん。それに――」
「それに、なんだっ……!」
シルガーに馬鹿にされているような気分になり、思わずキアランは強い口調で尋ねていた。
「四天王でも高次の存在でもない、灰色の翼とは、なんとも単純というか素直な発想というか――」
「うるさいっ!」
キアランは、自分が子ども扱いされたような気になり、顔を真っ赤にしていた。
シルガーは、そんなキアランの反応を気にも留めていない様子で飛び続ける。
「……私は、四天王の居場所が掴めなかったのだよ」
「え」
思いがけず、シルガーが本当のところを告白していた。
「格段に力の優れている四天王、やつらは、隠れるのが非常にうまい。私でも追跡や発見は非常に困難だ」
シルガーは、飛びながら続ける。
「とくに、さっきのあの四天王、あいつはとりわけ厄介だ」
「そ、そうなのか……?」
シルガーは、キアランの胸のあたりを指差した。
「使い魔を通して感知した四天王からは、殺意、破壊する意図がまったく感じられなかった」
「え……」
それは、どういうことだろう、キアランは疑問に思う。
「殺意や破壊しようとする意識、そういったものはとても強い波動を出す。だから、そういう相手は追いやすい。厄介なのは、そういう思いを持たないもの、あるいはたとえ持っていても巧妙に隠せるものだ」
あの四天王は、殺意や破壊する意図を持っていないのだろうか……。それとも隠しているだけなのだろうか――。
ルーイが無事かどうか心配で、キアランの胸は強く締め付けられた。
「だから、あいつら、翠と蒼井とやらの動きを追うことにしたのだ。四天王を討つような宣言をすれば、二体揃って、悪くしても一体は必ず四天王の元へ戻ると思ったのだ」
「! それで――」
「ああ。そうだ。あの建物から、多くの人間どもの加勢も現れた。一体相手なら、お前の仲間たちも最悪の事態は免れるだろうと思った」
シルガーは、まっすぐ前を向いていた、その表情はキアランからはわからない。
「でも、やつらは私たちの力を脅威だと思ってくれたようだ。二人揃って主の元へ帰るとはな。まさか我々が、道案内が必要な程度の連中だったとは思うまい」
キアランは、シルガーの隣に並ぼうとした。シルガーの銀の瞳は、冷たい光を宿したままなのだろうか、それとも、なにかもっと他の思惑が――。
「……キアラン。これで心置きなく全力で戦えるだろう?」
キアランは、シルガーの隣に並ぶ。
「……キアラン! 私は、四天王になるぞ……!」
シルガーは、裂けたような口で笑った。それは、紛れもない魔の者の顔だった。
「四天王に、なる……?」
どういうことだ、とキアランは思う。
どくん、どくん。
キアランの心臓が脈打つ。キアランが口を開こうとした、そのとき――。
「ああ。それから、一応言っておこう。この前、カナフと話した」
キアランは、驚いてシルガーの顔を見つめた。
「意外と、話せるやつだったな」
シルガーは、笑う。キアランは、ただただ驚きシルガーの顔を凝視した。
様々な光を宿す、不思議な銀の瞳。人懐っこくて好奇心旺盛な、子どものようにも見えた。
いったい、こいつは――。
恐ろしい魔の者の狂気の笑みと、時折見せる人間のような表情。激しい凶暴性と優しさともとれる行動。敵か、味方か、キアランはシルガーをどう位置付けるべきかわからなくなっていた。
キアランは、自分の背に生えた、灰色の翼を思う。
私も、同じか――。
分類などできない。どちらにでも転がっていくような不透明な灰色の中で、キアランは光を見つめ続けることにした。




